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第六章

 【五】

 まるで三竦みの状態に陥ったこの状況に、白亜は息苦しさを覚えて表情を強張らせていた。
 蓮夜は扉を半開きにさせた状態でそのまま動かず、白亜も蓮夜の視線に立ち竦んで硬直し。一人、夜人だけはそのような緊張には慣れているのか、直ぐに蓮夜から視線を外して紅葉に戻した。もしかしたら彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
 そんな想いが湧き上がって、白亜は悲痛に顔を歪める。
 視線を向けた先では紅葉が真っ赤な顔をさせて苦しげな呼吸を繰り返していた。再び熱が上がってきたのか、聞いているのが鬱陶しくなってくるような荒い音。
 白亜は紅葉から視線を逸らして拳を握り締める。夜人が小さく舌打ちする。
「蓮夜、梨香を呼んで来い。あいつならガキどもの面倒に慣れてるだろ。手が離せないってなら解熱剤でも貰って来い」
 吐き捨てるように指示が飛ばされ、蓮夜は黙ってそれに従った。軽い音を立てて食事を棚へと下ろし、肩から滑る長い髪を揺らせて。蓮夜は一度も白亜と視線を合わせることなく外へと出て行く。赤い瞳が遠ざかって扉が閉められた瞬間、白亜の肩からは力が抜けた。
 安堵には程遠い現在の状態だが、それでも蓮夜が放つ威圧感は夜人のものとは全く違って恐ろしい。彼が消えて、麻痺していた感覚が徐々に戻り出したようだ。体が震えるような錯覚に手の平を見つめる。
 銃を手にしたあの時。紅葉に与えた時、彼は何を思っていたのだろうかと唇を噛み締める。味方だと信じたことが嘘のように、ただ恐ろしいだけだった。
 ――今は、そればかりではないけれど。
 紅葉に銃を与えた時のような、底知れぬ雰囲気が、今の蓮夜からは感じられたような気がして。白亜は瞳を固く閉じるのだ。
「……なぜここに来た?」
「え?」
 突然の声に振り返ると、夜人は白亜に視線も寄越さず紅葉を見下ろしていた。寝台に腰掛けて紅葉の手を握り締めている。
 苦渋の表情。それは紅葉の熱に対する苦渋なのか、それとも蓮夜と白亜に対する苦渋なのか。白亜には判別付きがたいものだった。
 白亜は胸が痛んだ気がして唇を噛む。
「紅葉を連れ出すつもりか」
 何を言われているのか、ようやく思い至って「ああ」と囁くように息を吐き出したが続く言葉が見つからなかった。
 ――私がここにいるのは、夜人が殺されてしまうのを止めるためで。
 それなら、直接の原因を作った紅葉をここから引き剥がせばいいのだと分かっている。けれど実行できない。蓮夜と夜人の関係や、組織での夜人自身の位置づけや。紅葉をここから引き剥がすだけで夜人の未来は護られるのか、分岐を様々考えてしまう。
 何も答えない白亜を怪訝に思ったのか、しばらくして夜人が振り返った。
 もしかしたら白亜は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。夜人の表情が驚いたように動き、そして視線を逸らされる。
 白亜は胸が悲鳴を上げた気がして息を詰まらせ、意識して呼吸しようとすると喉が音を立てた。込み上げてこようとする嗚咽に気付いて拳を握り締める。
 ――結局、私が、ここに居たいんだ。夜人の側に。
 紅葉を止めるのが一番の目的であったはずなのに、今では夜人の近くにいることが一番の目的になっている。浅ましい想いに嫌気がさす。もしかしたら最初から目的はそうだったのかもしれない。紅葉としてこの場にいた願いの根底にあったのは、母の元へ帰りたいという物ではなく、夜人の側に居たい、だったのかもしれない。いつからそんな想いを抱くようになったのだろう。
「夜人は、紅葉が好きなの?」
「前に言っただろう、俺がここにいるのはこいつを守るためだと」
「もし、紅葉が組織に入るって言ったら、どうする?」
 夜人にしてみればつい先日、他ならぬ紅葉からその言葉を受けていたはずなのだが。白亜は気付かず問いかける。
 その問いに何の意味があるのか、自分でも良く分からなかった。
「本気で組織に入るつもりがあるなら、俺が囲う。誰の目にも触れさせない。両親に会えない分も、俺が全力で愛してやる」
 恥ずかしげもなくケロリと、本気で思っているであろうことを聞かされて白亜の方が真っ赤になった。
 夜人は幾らか落ち着いてきた様子の紅葉に手を伸ばし、額の汗を拭った。熱のために濡れた目尻に口付けて、苦しさに開いた唇に親指を当てて。
 ゴン、と鈍い音を立てて銀のトレイが夜人の後頭部にぶち当たった。
「い……っ」
 紅葉の手を握り締めたまま、殴られた夜人はその痛みにしばらくその場で震えていて。
「ってぇな!?」
 噛み付くような勢いで振り返った夜人に、殴った本人である白亜は思わずもう一度トレイで殴りつけた。
「何するんだよっ!?」
「いや、本能的に殴っておこうと手が動いて」
「訳の分からない言い訳してんじゃねぇ!」
 紅葉の手を握ったまま夜人が噛み付いてくるが、白亜は彼を殴ったトレイを再び棚に戻して肩を竦めた。
「なら――全力で愛してみせて。紅葉が起きてるときに、彼女がちゃんと夜人の心を感じれるように。ずっと、好きでいて……」
 何て醜いんだろう。
 夜人の視線を真っ直ぐに受け止めることが出来ず、白亜は自分の服を握り締めながら思った。
 自分は夜人に何も返していないくせに、求めることだけは一人前だ。それでも撤回は出来なかった。
 俯いた白亜の視界には夜人も紅葉も入らない。
 夜人の視線だけが感じられ、居心地が悪くて更に服を握り締める。
「紅葉は、ちゃんと……夜人が、好きだよ」
 誰かの口を通さないと伝えられない自分が、酷く浅ましく感じられた。


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 闇の中を走っていた。追われるように、前へ。足が疲れて視界が霞んだが、このまま倒れたら間に合わないと知っていた。
 広がっていく悪意と殺意に怯えながら必死で走り続けていた。ここで立ち止まるような時間はない。
 傷を負った背中がジクリと痛みを訴えてきて脳裏に響く。
 心臓が張り裂けそうなほどの緊張。
 ふと、右手に拳銃を持っていることに気付いた。
 手の平に硬い感触。人差し指を伸ばしてみると引き金に指が掛けることが出来る。額に流れた汗を拭う。
 次第に足の疲れは気にならなくなって来て、代わりに体が熱い。熔けてしまいそうなほどだ。どこからこの熱は生まれているのだろう。
「夜人っ!」
 しばらく走っていると前方に男の影が見え、歓喜に顔を輝かせた。
 早く追いつき、傍に行こうと足を早め、こちらに背を向けていた夜人が振り返る。けれどそこに浮かんでいた表情は、こちらを射るような鋭いもの。
 走らせていた足が鈍った。
 戸惑い、うるさいくらいの鼓動が耳につく。
「夜人……っ」
 ギクリと体を強張らせた。こちらを睨む夜人に向けて、なぜか自分の腕は持ち上がっていく。
 手の平に包まれた拳銃を夜人に向け、何も意識していないのに人差し指に力が入る。自分の体だというのに制御が利かない。見えない糸で操られるように引き鉄が引かれていく。ゆっくりと進むその時間は、白亜に考える時間と恐怖を与える為だけのように感じられた。
「違う、これは!」
 焦って夜人を見るのだが彼は先ほどから変わらず、射るように鋭い視線を向けられている。
 これは自分の意志ではないのだと説明しようとするのだが、何の言い訳にもならない。夜人に向ける銃口を下げようと躍起になるが、引き鉄に掛かる指を抜こうと力を込めるのだが、それよりも強い力で押さえ込まれてしまうのだ。
「夜人!」
 気持ちばかりが焦っていく。
 夜人が向ける視線には、まるで蔑み憎むものが含まれているようで、悲しくなるのだがどうしようもない。
 そして。
 引かれていた指が一定の所まで動いた瞬間、遂に凶弾が放たれた。
 鋭い発砲音が耳を打ちシリンダーが回り硝煙が視界に揺れる。生暖かな空気が充満し、銃を持つ以上の嫌悪感が肌を粟立たせる。
 夜人の血は鉄錆びた匂いがした。
 ――処刑は既に断行された。否、その引き金を引いたのは、私。
 二度と見たくない光景であったのに突きつけられた。私がこの場にいたのは何だったのか、意味がない。夜人を助けるためにこそ来たのではなかったのか。
 倒れていく夜人を、白亜は大きな瞳に刻み込んだ。視界一杯に彼を映しながら、絶望に身を沈ませた。


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 ビクリと体が震えて鋭く顔を上げた。全身が硬直していて鼓動がうるさかった。
 膝を抱え、背に壁をつけ、瞳は景色を映していたが何も見ていなかった。目の前に横たわるのは僥倖たる朝日。けれど、この瞳に映るものは。
 一筋、涙が流れて白亜は軽く口を開いた。吸い込んだ空気は冷たく喉を通り過ぎていく。
 いつの間に眠っていたのだろう。紅葉の部屋から出てきて、夜空を眺めていた。いつだったか夜人が教えてくれたように星を数えようとした。けれど夜空には星などひとつもなくて、どこか遠くで炎が上がっていたのか分厚い雲に赤々とした光が乗っていただけだった。いつかその雲が晴れて星が見られるのではないかと期待しながらこの場所に腰を下ろし、そして眠ってしまったらしい。
 カタカタと震えだした体を宥めるように、膝を更にきつく抱いて体を小さくした。立てた膝に額を付ける。固く瞳を閉じる。涙は服に染みを作って消えていく。
「いやだ……っ」
 悪夢、だった。
 心臓を鷲づかみにされて痛い。悲しみが胸を衝いて涙が止まらない。
 瞳を閉じれば闇の中に血の記憶が蘇り、瞳を開ければ光の中に蓮夜の瞳が浮かんでくる。
「ごめん……、ごめんね、ごめん……ごめんなさい」
 顔を歪ませながら何度も呟き、振り切るようにかぶりを振るが、この痛みが消えるわけでもない。
 芝生に両手をついて拳を握り締め、白亜は奥歯を噛み締めた。砕けそうなほどに力を込めて。
 舞いあがった太陽は霧を溶かしていき、白亜の体にも降り注ぐ。そして汚れた空気が蔓延した空へと、太陽は再びその姿を隠してしまった。
 ほんの一瞬なのだ、太陽を見ることが出来るのは。
 鼻を啜り、濁った曇天を仰ぎ、白亜は立ち上がった。むき出しの手足がスッカリ冷たくなってしまっていたが、雪が降る天気でもない。軽く摩擦して温度を上げ、下方に広がる塀へと視線を落とし、塀伝いに辿って教会で視線を固定する。
 十字架に張付けられた偉人。
「意味がないなんて、言わせない……っ」
 それでも、湧き上がった恐怖と絶望は簡単に消せるようなものでもない。宙を睨みつけるようにしてその場に佇みながら、白亜は後ろから声をかけられて息を呑んだ。
 振り返ればそこには、蓮夜に付き添われて建物から出てくる紅葉の姿。昨夜の熱が嘘だったかのように元気に、駆け寄ってこようとする。
 白亜はギリリと唇を噛み締めて睨みつけた。紅葉の足が鈍り、こちらを見つめる瞳が不安げなものへと変化する。
 今は、紅葉の顔も見ていたくなくて。
 白亜はそのまま振り切るようにして歩き出し、丘を下った。

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