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第七章

 【一】

 スプリンクラーが作動し、雨が降る。炎はほどなくおさまり、廊下には水が流れ始めた。
 幸いにも白亜と管理人は水の適用範囲から外れていたらしく、濡れることはなかった。廊下の端を流れた水もそのうち石畳に吸い込まれていく。このようなときのため、石畳には細かい気泡が入れられていた。
 炎がおさまったのを確認した管理人は白亜を一瞥した。白亜は再び廊下に突っ伏している。それでも生きており、背中が激しく上下していた。
 管理人は鮮やかな笑みを浮かべると踵を返す。そのまま白亜を残して去っていく。
 廊下に響く、規則的な固い音。
 それが遠ざかるのを聞きながら、白亜はゆっくりと床に手を着き、体を起こした。頬は涙で濡れている。全身が痣だらけになり、痛まない箇所などなくなっていた。けれども今は、体の痛みよりも、管理人から聞いた話を整理することで頭が一杯になっている。
 夜人が紅葉のために動いてしまえば周囲は夜人を認めない。穏やかで甘い感情など組織は必要としていない。それを前提として夜人と蓮夜が争い、その動向を周囲が観察しているのなら、夜人が殺されるはめになったのは、紅葉がいたからだ。紅葉のために、家族を捜しだそうとしていたからだ。
 ――どこまでも私はお荷物なのか。
 白亜は苦く笑いながら座り込み、壁に背中をつける。
「馬鹿じゃないの」
 誰に向ける言葉か意識しないまま毒を吐き出す。滲みだした衝動を必死で抑える。
 紅葉をここから連れ出しても、夜人を止めなければ彼の死は免れない。なぜ彼はこんな不安定な時期に動こうとしたのか。自分がトップになり、もっと動きやすくなってからにすれば良かっただろうに。
「違う……」
 考えていた白亜は不意にそう呟いた。
 湧いてきた、強い否定の言葉。
「違う」
 もう一度強く否定する。
 夜人が今をして動く羽目になったのは、紅葉が「逃げる」と告げたからだ。「子どもたちをお願いね」と頼んだからだ。それまで何かを窺っていた夜人も時間がないと焦ったのかもしれない。すべては紅葉のわがままのためだ。
「なに、やってるんだろう。私」
 気付いた自分の浅はかさに呆然とする。笑いが込み上げてきたが、響いたのは嗚咽だった。瞳をかたく閉ざして深呼吸する。肺が悲鳴を上げたが、何度か繰り返すと痛みは徐々に引いてきた。
 近くに視線を巡らせたが、管理人はいない。足音ももう聞こえない。白亜の監視だと言い切った彼女は、養護施設に戻ったのだろうか。そこには麻奈がいる。
 白亜は視線を落として眉を寄せた。麻奈はまだ、里親に貰われていない。管理人の言葉は脅しではない。下手に動けば麻奈は確実に殺されるだろう。躊躇うような相手ではない。
 ――夜人以外に心をかけないと決めていたのに、いざ突きつけられると揺らいでしまう。
 白亜はゆっくりと立ち上がった。痛みの波はまだあるが、先ほどより楽だ。しばらくすればまた完全に元通りに戻るのだろう。
 伽羅を思い出しながら思う。
「とにかく、まずは夜人を……」
 考えごとをやめるようにかぶりを振る。滲んでいた涙を拭って、強く呟いた。


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 夜人の部屋に顔を出した白亜は瞳を瞬かせた。肝心の姿が見当たらなかった。
「夜人?」
 呼びかけてみたが返事はない。もしかして紅葉のところだろうかと視線を向けたが、壁は壊されていなかった。彼がどこへ行ったのか、検討がつかない。そもそも組織に入ったとはいえ、白亜は彼の仕事内容など知らなかった。
 待っていれば直ぐに帰ってくるだろうか。
 夜人の寝台に腰を下ろす。視線が部屋を一巡し、直ぐに飽きて横になる。寝台は、紅葉が使う寝台とたいして変わらない固さだった。これならば白亜が使っている寝台の方が柔らかく、寝心地がいい。
 白亜は思わず顔をしかめて起き上がった。
「なに、あいつ。いつもこんなのに寝てんの? そりゃ体も固くなるはずだわ」
 意味の分からない解釈を呟きながら寝台を叩いた。その響きだけで傷が痛む。完全には治っていないらしい。白亜になってからは満身創痍だ。
 白亜は乾いた笑いを零しながら何気なく布団を畳み始めた。ただ待つのは落ち着かない。床に落ちていた毛布も拾い上げて畳む。
「いったいどんな寝相してるのよ、あいつ……」
 掛け布団や毛布はあちこちに飛ばされていた。主に寝台の回りではあるが、自分では考えられない乱雑さに呆れて、一枚一枚片付けていく。整理整頓の癖が抜けないようだ。夜人の寝台を整え終わった白亜は自分の行動に思わず笑う。気が抜けて再び寝台に座り込んだ。
 ――夜人の行動は素直に嬉しい。組織よりも紅葉を選んでくれたということだから。けれどそれは夜人の死に直結する。たとえ嬉しくても、止めなければいけない。夜人の“死”と引き換えにできるものなどない。
 寝台に寝転んで天井を見上げた。両手を宙に伸ばしてみる。
 何かをつかみたくて、守りたくて、箱庭にいたときには麻奈を抱き締めた。小さな彼女の存在は紅葉の腕にぴたりと納まり、良く分からない焦燥を消してくれた。麻奈の存在は温かかった。何かを教えてくれるように熱かった。会うことができなくても、彼女が生きてさえいれば、また笑いかけられる日も来るだろう。
 白亜はふと思い出し、起き上がると銃を取り出した。黒光りする銃は重たい。銃身に映る表情は見たことがないほど鋭く冷たく、ドキリとして双眸を瞠ると、映る自分も形を崩す。小さな音を立ててシリンダーを外すと中には数発しか装填されていなかった。
「補充……してなかったんだっけ」
 記憶がない。
 白亜は立ち上がり、部屋を見渡して嘆息する。
 今は銃でしか自分の身を守れないのだから、装填されていない銃では不安だ。ここで夜人の帰りを待ちたいのは山々だが、先に補充を済ませてきてしまおう。
 白亜はもう一度部屋を見渡し、嘆息する。気は進まないけれど、そのまま訓練場へと向かった。

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