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第七章

 【五】

 目を開けたら直ぐ横に夜人の顔があって、反射的に拳を繰り出していた。
「危ねぇ!」
 クリティカルヒット寸前で夜人は避ける。目論見が外れて小さく舌打ちして。
「この馬鹿夜人! いい加減にしてって何度言わせるのよっ!」
 飛び起きて胸倉をつかみかかった。うなり声さえ出せそうなほど怒りに顔を歪め、睨みつけて。
「別に、構わないだろ」
 一体何が問題だと、サラリと受け流す夜人に眉が跳ね上がった。
「夜人が構わなくても私が構うっ。蓮夜に見つかったら怒られるのよっ」
「……蓮夜なら気にするだけ無駄だろう」
「無駄なのはお前に説明しようとする私の努力っ? ねぇこらっ」
 寝起きだと言うのに、自分でも凄いテンションの高さだと思う。頭が痛いのは事実だったがそれは今目の前にいる夜人を原因とするものだ。
 夜人の胸倉をつかんだままガクガクと揺さぶった。
 揺さぶったまま――ふと、気付いた。いつも夜人が壊してくる壁は綺麗なままだ。ならばどこから入ってきたのだろうと視線を巡らせた白亜の目には扉が映る。
 なぜ―扉が開いているのだろう。それに、私に与えられていた部屋はこんなに広かっただろうか。
 組織に逆らい続けていた私は、蓮夜に自由の利かない不便な部屋を与えられていたはずなのに――違う。私は紅葉じゃない。白亜だ。
 気付いて呆然とした。
 寝起きで、更に夜人の顔が目の前にあったため混乱したらしい。手をつかまれて震えたが、夜人は何も言わずに服から白亜の手を剥がしただけだった。けれども。
「え……」
 過ぎった影に息を呑む。触れた唇に瞳を見開く。背中を強く抱え込まれて、口付けられている事実に胸が震えた。
 混乱ばかりが脳裏を占める。とりあえずこの苦しさから逃れようと体をひねると、そのまま寝台へと倒れこまれて衝撃に息が詰まった。
「あの、ちょ……っと!」
 いつも思うのだが――こいつは頭の歯車が妙な所に噛み合わさっているに違いない。じゃなければタダの女好きか、ああそうか。
「だから……っ!」
 唇だけではなく、頬に、目尻に、くすぐったくて笑い出したくなるくらい啄ばむように口付けを散らされて。白亜は軽い笑い声と共に、自由にならない体への苛立ちを吐き出して睨みつけようとした。今まで一途だと頑なに信じていた夜人が崩れていくようで、更に苛立ちが高まっていく。
 一瞬放された右手を素早く攻撃のために繰り出したのだが、アッサリとつかまった。大分乱れた息と上下する胸。
 跨ぐようにして影を落としている夜人を涙目で睨みつけた。
「なんなのよ夜人は……っ?」
 心底からの問いかけだった。もしかして自分が夜人を好きだと思っていたのは一種の刷り込みに似ていたのかもしれない、とまで思えてくる。そんな自分が悲しかった。
 睨み付けて、見下ろす夜人の表情が戸惑ったように揺れているのを見る。
「それは……俺の台詞だ」
 更に、落ちてきた言葉に目を見開いた。
「お前は、何だ……?」
 寝台に押し付けられている手首へかかる負荷は更に増し、夜人の顔が近づいてくる。
 息さえ触れそうな距離まで近づき、真剣な表情に押し黙り。いつも白亜に見せている冷淡で鋭い表情だったが、その奥には戸惑いが揺れている。いつもとは違う雰囲気に、すべて見たいと思ってしまう。
 私がまだ知らない夜人のすべて。優しさだけで塗り固められた虚像よりも、清濁を全部持ったその姿の方が信じられる。
 一息吸い込んで、白亜は夜人を見上げた。力で征服されている今の状態は対等ではないけれど。それも夜人なのだろう。
「私は私よ。私以外の者になったりなんてしないわ」
 どこかで聞いた台詞だなと思った。下手に名前なんて出すから混乱するのだ。目の前のこの馬鹿には、何も告げない方がいいのかもしれない。何も告げずに選び取ってくれたら――きっと素敵なこと。
 夜人の表情は更に複雑な物へと変化し、苦虫でも噛み潰したように眉を寄せ、白亜から離れた。
 寝台に座り込んで呆然としている。いや、呆然とは違うだろう。その脳裏では凄まじく思考が回転しているはずだ。でなければ困る。そんな姿を横目で見やり、乱された呼吸を整えて衣服も整え。ばさついた髪の毛をかきあげた。ここには浴室もついているので自由に使える。水は豊富に使えるしお湯も出る。紅葉でいた頃に比べて格段に自由だ。
 初めて見る香り付きの泡風呂なんて物に興味津々だったが、とりあえず今思い出すのはそんなことじゃない。
 一向に動かない夜人を見やって溜息をついた。
「それで、夜人」
 奴の頭から煙が上がってるんじゃないかと思ったが、さすがにそこまでは錆び付いていないらしい。声をかけると直ぐに振り返る。向けられる視線に複雑な笑みを返した。
「わざわざそっちからこの部屋に来るくらいだもの。何か用があったんでしょう?」
 問うと「ああ、そうだ」と軽く目を見開き、忘れていたらしい夜人は頷いた。
 けれど落ち着かなさそうに視線をさまよわせ、今まで散々冷淡さを見せ付けてきた彼とは思えないほど弱弱しい。白亜は思い切り眉を寄せた。らしくない態度だ。
 しばらくして、言い淀むその態度がこちらを反応を窺うものだと悟って更に眉を寄せる。今までもきっとこうだったのだ。紅葉には都合のいい所を見せ、外では冷淡な仮面を被って他人と接し。そして今、夜人はこちらに向ける態度を変えようか迷っている。きっと、白亜の印象を良くするために。
「――あのね」
 唇を引き結び、背筋を伸ばして夜人を見た。
「もう、繕わなくていいから」
 告げると夜人は驚いたように目を瞠り、静かにこちらの言葉を待つ。
「夜人が紅葉を守ってくれているのはもう知ってるし、これから夜人がどんな態度を取ろうが私の中で夜人の想いは決まってるし、減ることもないし。強がりも優しい嘘もいらない。どうせこんな妙な境遇に落ちたんだもん。私は夜人が知りたい。何の飾りもない夜人でいい――あんまり馬鹿だったら考えるかもしれないけど」
 全身が耳になったみたいに固まり聞いている夜人へ、白亜は最後に悪戯っぽく囁いて笑った。
「夜人だって夜人以外の者にはなれないんだからさ、ちゃんと見せてよ。全部の夜人を。私は逃げないから」
 夜人は奇妙な――敢えて上げるとすれば、未知の生物を見るような興味と驚嘆が混じったような顔をして、こちらを見つめてくる。なんだか居心地が悪くなって視線を逸らした。
「で、何の用なの?」
「――昨日、言っていただろう。お前が紅葉を助けて逃がすんなら、連れて行く場所があると」
 まだ迷ったように弱い夜人の声。そのことに白亜は眉を寄せたが、思い出して「ああ」と声を上げた。訓練場で、聞いた言葉。あの時はそれどころではなくてスッカリ失念していたが。そうだ、今日は夜人から仕事に誘われたのだ。
 簡単に装備の点検を終えて夜人を振り返る。
 先ほどの位置から微動だにしていないのか、夜人はそのまま白亜の手元を凝視している。
「――行かないの?」
 白亜に問われて我に返る。視線をさまよわせ「あー」という声を出し、ガシガシと頭を掻いて。
 夜人は勢い良く立ち上がると乱暴に歩き出した。白亜のを振り返りもしなかったが、ついてくることは確信していたのだろう。白亜は黙って彼の後に続き、部屋を出た。


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 人と歩くことに慣れていないのか、夜人は一人で先に歩いていく。白亜は歩幅が違うため早足ではないと追いつけない。しかし夜人は気付かない。
 彼と組織内を歩いていると、まるでカラクリ屋敷ではないかと思えるほど様々な発見があった。蓮夜に案内されたときの回転扉などまだいい方だ。他の壁との違いがまったく分からないのに夜人は次々と回転扉をあけていくし、ときにはそのまま壁を突き抜けることもあった。旧時代の投影装置という機械のおかげらしく、道に壁を出現させているらしい。夜人から教わらなければ絶対に分からない仕掛けだ。
 白亜は途中から未知の世界として呆けることしかできなかった。そんな白亜に、夜人は楽しげに案内する。
「訓練場で見た対人プログラムってのも沢山ある。特殊装置をつけていない奴には本物の壁だが、俺らには通り抜けられる壁とか」
 つまり錯覚ではなく、視覚や触覚までも再現された壁もあるということだ。そのような物を仕掛けられたら組織から逃げ出すことは不可能だ。これで紅葉が易々と捕まった理由や、なかなか目的地に辿り着けなかった理由が解明できた。本当のカラクリ屋敷ではないかと鼻息を荒くする。
 もっとも、そのような仕掛けが巡らされているのは組織の建物でも一部分だけだ。仕掛けを無効化する特殊装置も、組織の限られたメンバーにしか与えられておらず、その仕掛けは裏切り者や幽閉者を逃がさないように一役買っているらしい。
 白亜は憮然と押し黙る。
「こんな装置、仕事にも使ったらさぞかし効率がいいんでしょうね」
 攻撃を受けたとしても、それは痛みも感じないプログラムだ。データの塊のため死ぬことはない。けれども相手には直に攻撃を加えることができる。生身の人間は遠くからデータを操っていれば、危険はない。虚像だらけの世界だ。なんて効率がいいのだろう。
 白亜は皮肉げに揶揄し、「やだやだ」とおどけるように肩を竦める。そこでふと、閃いた考えがあって、双眸を見開いた。
「……ねぇ」
「実戦投入にはまだまだ時間がかかる。いまも実際に稼動できるのは部屋ひとつぶんが限界の、狭い範囲だ。外にまで持ち出せないさ。場所を選べば可能になるかもしれないがな。技術者も廃れて、維持費もかかる。今後も投入予定はないだろう」
 白亜よりも先に夜人が伝える。外にまで持ち出せない、との言葉に白亜は嘆息した。
 一瞬、蓮夜がプログラム化したデータの塊かと思ったのだ。普段、夜人や子どもたちとばかり接していたせいで蓮夜の雰囲気には違和感を抱いていた。もしそうなら、少しは暗いこの気持ちも晴れるのではないかと思った。
 汚い打算だ。
「外の世界は生きにくい」
 かすめるように遠くを見やり、ぽつりと呟かれた夜人の声に顔を上げた。何を考えているのか読み取れない。彼の横顔には儚さすら感じられる。
「だから殺すの?」
 追いかけて腕をつかむと驚いたように振り返られた。返答はない。白亜はそのまま俯いてしまう。
 つかんだ腕が振り解かれることはなく、二人はそのまま組織の内部を歩き続けた。特殊装置をつけている夜人の腕をつかんで一緒に歩いていると、特殊装置の効力は白亜にまで及ぶらしい。いままで見えていなかった新たな通路の存在や装置の存在がつぶさに視界に入ってくる。頭の奥を絶えず何かが触っているような、妙な感覚だ。足が地面から浮いている錯覚さえ起こしかける。そのたびに夜人の腕をつかみ直すのだが、夜人にはそのような気配はまったくない。これも訓練で何とかなる類なのだろうか。
「……吐くかも」
「は?」
 小さな白亜の弱音は聞き取れなかったらしい。夜人が顔を近づけてきたが、鬱陶しくて叩き払った。睨みつけられたが知らない。
 隠し通路――と呼んでも間違っていない通路を通り、今まで見たことのない道を歩きながら、白亜は遠くから響いてきた誰かの声に驚いて辺りを見回した。
「巨大な地下空間に壁を無作為に建てていった――そう考えれば想像は容易いだろう」
 言いながら夜人は、またしても新たな回転扉を回す。特殊装置の副作用は強烈で、白亜はすでに夜人の腕を放していた。錯覚と虚像を駆使して作られた壁は、もしも通るのなら夜人が何とかするだろう。訓練を受けていない白亜には、この副作用はあまり長く耐えられない。
 壁の向こう側で笑い声を響かせていた男たちがピタリと口を閉じた。彼らはテーブルに肘をついて武器を前にし、思い思いに寛いでいたらしい。
 夜人の姿に目を見開き、背後に白亜の存在を認めて眉を寄せる。明らかに疎まれている雰囲気だ。
 わずかに壁の色が変わった気がするが、気のせいではないだろう。今まで白亜が歩いてきた通路よりも格段に使い込まれている。こちらが組織側で使う日常的な空間なのだろうと納得する。
 居心地の悪さを感じながら部屋を横断する。歩くごとに増える組織の人物たちに心臓が高鳴る。嫌な汗が背中を流れ落ちていくようだ。蓮夜はこのような人気の多い場所に連れてくることはなかったが、夜人はなぜこちらの道を選んだのだろうか。
 それまで大声で叫んだり笑ったり、箱庭で子どもたちがそうしているような雰囲気を放っていた彼らを意外に思ったが、彼らは夜人の姿を認めた途端に激変する。一切の感情を消し去る表情には、限りない畏怖と緊張を孕ませていた。
 様々な視線。蓮夜のように赤みがかった瞳や、自分と同じとは思えない金色の髪や青い髪。輝くような白い肌を持つ者もいれば、黒ずんだ肌を持つ者もいる。組織では実に様々な人種が育てられているようだ。子どもたちの中にはそのような容貌を持つ者がいなかったため、白亜は見慣れない。
 獰猛な獣たちの檻に放り込まれたような、そんな気さえして緊張した白亜だが、時間が経つにつれて度胸が出てくる。唇を引き結んで顔を上げ、夜人の隣に立つように足を早めた。一瞬、夜人の視線が向けられたが、それは直ぐに戻される。見上げた白亜の瞳には、かすかに笑ったような横顔が映るだけだった。
 いったい自分はどこを歩いているのか。そろそろ脳内地図が役立たずになりそうなほど歩いた頃、白亜はようやく外の光を見ることができた。そこは中庭だった。遠くには子どもたちのはしゃぐ姿が見受けられる。
 振り返るとすでに扉は閉じられていて、どこから自分が出てきたのか分からない壁があるばかりだった。
 一方通行だったのだろうか。白亜には普通の壁にしか見えない。もしかしたらこれも投影装置とやらで作り出された虚像なのかもしれない、と夜人の腕をつかみ、壁に触れてみたが突き抜けなかった。冷たい感触が返されただけだ。
 眉を寄せた白亜の背後で笑い声があがる。なにごとかと振り返ると、夜人が体を折って笑っていた。
「……なに、笑ってるのよ」
 どうやらその笑いは自分に向けられているようで、白亜はやや理不尽な思いに陥りながら睨んだ。
 その視線に夜人は声を殺す。それでもまだおかしそうに、肩を震わせる。
「そうしていると、まるで」
「まるで?」
「……いや」
 何を答えようとしたのか、夜人は不意に真顔となってかぶりを振った。白亜の眉がますます寄せられる。
「なによ。途中で切られると余計に気になるじゃない。言いなさいよ」
 夜人は再び笑う。
 もう何を聞いても無駄な気がした。ああそうだ、もともとこいつは自分勝手で馬鹿で人の迷惑考えない俺様野郎だったわねと、首を振りながら思い出す。それでも、笑いながら教会へと歩き出す夜人に、無性に腹が立った。その尻を力いっぱい蹴り飛ばす。
「いってぇっ?」
 当然ながら夜人は痛がる。睨まれた白亜は舌を突き出した。
「いつまで経っても夜人が馬鹿なのが悪いのよ」
「なんだ、その妄想じみた理由は」
「妄想じゃなく、真実じゃないのよ、馬鹿!」
 駄目だ、再び頭が痛くなってきた、と白亜は額に手を当てた。

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