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第七章

 【七】

 外へと出た白亜は、その眩しさに瞳を細めて空を仰いだ。
 ――平気。私が夜人の側にいる限り、彼がメビウスに引き込まれることはない。
 振り返った白亜は、紅葉が夜人に抱えられながら出てくるのを見た。
 幼さを残す瞳は、初めて見る景色に限界まで見開かれている。好奇心を胸に、夜人から逃れることも忘れて見入っていた。彼の腕の中から落ち着きなく首を巡らせる。
 夜人は周囲を見ることなく紅葉の行動だけを見守っていた。
 妙な気分だ。あの中にいるのは私だというのに嫉妬が湧き上がる。不毛以外の何物でもない。
 白亜もまた黙ったまま夜人を見つめ、そして彼が全身で緊張しているのだとようやく悟った。
 教会から外へと紅葉を出し、監視者たちがどう動くのか。どう動かれてもいいように全神経を研ぎ澄ませて探っているようだ。
 彼の緊張を受けて白亜もまたそちらを探る。普段から気取られることのないよう気配を消している彼らだったが、夜人の前では無力に等しいようだった。それとも自分の経験が上がったのだろうか。それは分からないが、夜人が意識を向けている方を探れば簡単に発見できる。
「塀沿いに歩けば施設がある」
 夜人の声に意識を戻した。
 その声にようやく状況を思い出したのか、紅葉は先ほどよりも大きく目を見開いて暴れた。夜人の腕を振り解いて床に下り、そして振り返ることなく去ろうとする。
 夜人の行動に腹を立てた行動にも思えたが、それは違うと知っている。ただ、照れくさかっただけだ。夜人が助けてくれるなんて思っても見なくて、嬉しかった。
 けれど夜人には伝わらない。
「おいっ」
 慌てたように紅葉を追いかける彼が何だか滑稽に思えて軽く吹き出した。
 夜人が追いつく前に、紅葉が振り返る。表情はやはり取り繕ったように不機嫌なもの。
「何よ。私さっきのこと忘れてないからね。助けてもらったのは感謝するけど、部屋に戻ったら覚悟してなさいよ」
 肩越しに振り返って、そう言われて。驚いて止まる夜人に笑って手を振る。
 そして、追求されるのが嫌で、逃げるようにその場から走り去る。そんな紅葉の後姿を見送ったまま、夜人は立ち尽くした。
「さ、私たちはさっさと仕事を終わらせてしまいましょう。帰ってきたら紅葉の所に行くんでしょう?」
 立ち尽くす夜人の隣に立った。まだ紅葉が去った方向へと視線を飛ばし、動かない夜人へとそう告げる。
 そんな姿に肩を竦めて苦笑する。
 しばらく待って、ようやく夜人が振り返った。
「……仕事?」
「夜人が言ったんじゃない。紅葉をここから連れ出すなら、連れて行く場所があるんだって」
 そんなことまで忘れたのか。
 呆れながら白亜がため息をつくと、夜人の視線は訝るようにこちらに向けられる。さすがにそこまでされてしまえば自分の言葉にこそおかしな所があるのだろうかと不安になり、白亜もまた表情を変える。
「なぜ俺がお前を仕事に連れ出さなければいけない」
「なんでって……」
「足手まといは必要ない」
 今まで紅葉に見せていた態度とは裏腹にそっけなく、夜人は簡単に踵を返そうとするが。白亜は訳が分からず眉を寄せた。
 先日教会で火事騒ぎを起こし、現れた養護施設の管理人に大きな仕事を回してやると言われたばかりだ。その次には夜人からも同じようなことを言われ、管理人の言う仕事は夜人も関わるものだったのかと予想をつけていたのだが。違ったのだろうか。なら管理人が言う『仕事』とは、一体いつのことなのだろう? もしかしてまた蓮夜から聞かされることなんだろうか。
 この組織に居続けるためには仕事をこなさなくてはいけなくて、仕方ないと割り切っているものの。やはりそう何度も『仕事』を回されるというのには抵抗を覚える。ましてや自分は無理矢理この組織に乗り込んだようなもの。邪険に扱われるとは分かっているけれども。
 夜人は探るような気配を帯びた視線を白亜に投げかけ、それから逃れるように白亜は視線を逸らす。少しだけ――これだけ変わってしまった自分から、その視線を逸らしたくて。
「知らないなら、いいよ。なんでもない。今日は今日で別の仕事をこなすだけ」
「……だから、俺はお前を仕事に連れて行くつもりなんてないと言っているだろう。勘違いするな」
 さっさとこの話題を終わらせたくて投げやりに呟いてみただけなのであるが、こう長引かせられてしまうと白亜も不機嫌が溜まってくる。先程から夜人がこちらを軽んじる発言ばかりするのも問題だ。
 苛々としたものを感じながら、白亜は「うるさいな」と睨みつけて。
「私が足手まといになるなんて決め付けないでよね。夜人がどう思ってようと、私は自分の考え曲げる気なんて絶対に」
 弾かれたように、夜人が動いた。
 突然の動作についていけず、ただ瞬いただけだった白亜は「え?」と呟く。夜人の視線を追って、先ほど紅葉が去った方向から誰かが歩いてくるのを見た。漆黒に身を包んだ女性が、こちらへと歩いて来ていた。
「これ以上紅葉に勝手な行動を許すのは困るわね」
 妖艶さを含んだ声音だった。声には言葉ほどの棘もない。艶やかな唇には見る者を虜にするような嫣然とした笑みが浮かんでいる。
 白亜の前に立った夜人はチラリと視線をこちらへ寄越したが、それだけで直ぐにまた現れた女性へと向かう。何を意味しての行動なのか、白亜が動こうとすると苛立ったように再び視線を投げられた。動くな、ということなのだろうか。
 以前、伽羅に見せた警戒と同じような態度を見せる夜人に、白亜の胸が軽く痛む。
「それに、白亜にも勝手をされては困るわ。彼女を引き取ったのは蓮夜。彼女は蓮夜の傘下にある」
「傘下、だと……?」
 剣呑な夜人の声。現れた女性――養護施設の管理人であり、白亜の監視を務めていると言った女性が軽く笑んだ。今まで組織の建物で見てきた誰とも違う雰囲気。夜人を恐れ敬う雰囲気は微塵も感じられない。彼女独自の雰囲気らしい。
「白亜は今夜大きな仕事を任されている。準備があるでしょう? 連れ出されては困るわ。今夜人に与えられている仕事は何もないはずよね、白亜をどこへ連れて行くつもりでしたの」
「……白亜を、今夜の仕事に巻き込むつもりか」
「いいえ。手伝ってもらうだけ。巻き込むなどと、何を馬鹿な」
「俺は承知しない」
 心底苛立った様子の夜人の声に、微かに女性が鼻白んだ様で身を引いたが直ぐに持ち直した。話の展開についていけず、唖然とした白亜をよそに二人の間では空気が張り詰めているようだ。
 また、何も知らされないのだと。白亜は急に奈落へと突き落とされそうな感覚へと陥り、思わず夜人の腕を掴んだ。
 女性に向けられていた夜人の視線は瞬時に白亜へと移され、一瞬その瞳が緩みかけたかに見えたけれど。白亜がそれで安心する間もなく、痛烈に腕を払われた。次いで嫌そうに眉を寄せた夜人は、苛立った舌打ちをする。
 それを見て女性が僅かに顎をあげ、夜人と白亜を蔑むように視線を上から落とした。
「……夜人の許可など必要ない。これはあの人の意志でもある。A区画の三号地区、これで私たちはもう何に怯えることなく生きていける」
「……ああ」
 女性の何に納得したのか。夜人は静かに半眼を伏せて頷いた。その横顔がいつも見ている勝気な彼とは似ても似つかぬものへ変わった気がして、白亜は先ほど払われた腕を胸に引き寄せる。
 漠然とした暗い不安が、留まることなく育っていく。飲み込まれたら引き返せない。諦めたら戻れない。
「夜人――」
 恐ろしくて、怖くなって、手を握り締めたまま、白亜は呟いた。
「いつまでもそんな娘に関わっている余裕などないでしょう?」
 白亜の声を掻き消すように、女性の声が響いてくる。その声に夜人は顔を上げ、白亜は唇を噛み締めてそちらを見た。夜人がこんなに苦しむ原因を、今この女が作っている。そう思うと憎しみが湧く。
「未だに逃げることしか考えない者にどんな価値を見出しているのか、貴方の考えることは分からな」
「ちょっとっ!」
 私のことだ、と悟ると同時に叫んでいた。瞬時に夜人の視線が突き刺さるが、その腕を押しのけてまで前へと立った。
 絶対聞き捨てならない言葉だ。
 女性は不愉快そうに眉を寄せる。そんな彼女を白亜はつかみかからんばかりの勢いで近寄った。
「誰も逃げてなんていないわ。勝手なこと言わないで頂戴」
「そう? 私から見れば逃げているとしか思えないけれどね」
「白亜、今は俺が」
「うるさいな夜人は黙っててよっ!」
 肩を怒らせて怒鳴ると、夜人は唖然と絶句した。白亜は再び女性に向き直る。
 管理人までも驚いたような瞳をしていたが、怒り心頭の白亜は気付かないまま彼女に近寄った。
「仕事なんでしょう? 組織から下された正式な。だったら私はちゃんとこなしてみせるわよ。失礼なこと言わないでよね!」
「白亜!」
「うるさい!」
 腕をつかまれて引き戻された。力任せな行動に腕が痛んだが、白亜は負けずに怒鳴りつける。夜人にどのような思惑があるのか知らないが、こちらにも引けないものがある。特にこの女性からは絶対に逃げたくない。自分が言えることではないが、このような女性に蓮夜が好かれていると思うと無性に腹が立つ。
「夜人にだって文句は言わせない。これは私に対しての仕事なんでしょう。貴方が思う以上に完璧にこなしてみせるわ」
「――勝手にしろ!」
 女性に向かって言い切った白亜の背後で、夜人は吐き捨てた。がしがしと頭を掻き毟ると門に歩き出す。足取りはずいぶん乱暴だ。それだけで彼がかなり不機嫌だと分かる。
 門に向かうということは、夜人が白亜を連れて行きたかったのは仕事ではないのかと、白亜は首を傾げる。しかし追いかけることはしない。管理人に背を向けることがためらわれた。
 夜人の行動を見守っていた管理人は笑みを浮かべたまま白亜を見た。
「本当に厄介な存在ね、貴方は。貴方がいくら完璧に仕事をこなそうが、私に殺されることは変わらないのに」
「黙って殺されてやるほど私は無力じゃないわよ」
「そう。それは楽しみね」
 女性は睨み合いながら一歩後退した。
「あとの詳細は蓮夜から聞けばいいわ。私がどう思おうと、貴方が蓮夜の傘下である事実は変わらないしね」
「私は誰の傘下でもない!」
「思い上がったその傲慢さをへし折れることを思うと胸がすく思いだわ」
 女性は憎々しげに白亜を睨んだ。しばし睨みあったあと、踵を返して施設に戻っていく。
「……逃げてなんて、いないわ……っ」
 白亜は管理人の背中を睨みながら拳を握り締めた。
 フッと息をついて辺りを見回す。夜人の姿はもうない。今から彼を追いかけるのも無理だろうと諦め、教会へ戻ることにする。いつまでもここに留まっていれば、麻奈と別れた紅葉と鉢合わせてしまう。
 白亜は教会の方を眺めた。
 里親に貰われて行く麻奈に、もう一目だけでも会うことはできないだろうか。幼いながらも口が達者で、何度も紅葉を言い負かし、大人びた笑顔を見せた親友。彼女にもう一度会いたい。
 麻奈にとって白亜は、紅葉を奪う憎しみの対象でしかないのだろうけれど。
 白亜はそんなことを思いながら、教会へと続く扉の前でしばらく立ち尽くした。

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