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第八章

 【二】

 結局、白亜が出来た練習は片手の指が余るほど少ない回数だけだった。
 どれだけ遠く離れていても易々と撃ち抜く白亜に蓮夜が見切りをつけたためだ。
 白亜自身としては、蓮夜が言うほど易々と撃ち抜いていた訳ではなくて不安が残ったままなのだが、これ以上ここにいても進展がないという意見には賛成で、素直に蓮夜に従った。
 しかし、さすがにそのまま仕事へと向かうと告げられれば不安は高まる。実際の仕事で扱う距離は、今までの練習距離に比べて何倍であるのかと。目を剥いた白亜に蓮夜は容赦しなかった。
 成功すれば命は繋がれ、失敗すればその場で処分。組織の者はそうして常に危機感を隣に感じて集中させるのだと。
 基本さえ身につけているなら後は実地で何とかしろと言うのが彼の方針らしい。
 白亜は唖然としたけれど慌てて緊張し、足早に去ろうとする蓮夜の後を追いかけたのだ。
 ――大きな仕事。
 それが何をしなければいけないことなのか、白亜はまだ確認していなかった。それではまた同じことの繰り返しになるだけだと理解していても、聞いて確かめてしまうのが恐ろしかった。
 何も知らないままで、踊らされていれば一番楽。仕事の時には自分の意志を消して、組織の意志を自分の中に植えつければいい。ただそれだけで、逃げ道は完了する。なんて簡単なのだろう。
 白亜は視線を床に落としながら虚無を生み出す。
 狙撃銃の練習から考えて、今回は接近戦ではない。それは救いになるだろうか。血の匂いを間近で嗅ぐことがない。気休めでしかないと理解していても安堵する。人の命を絶つ感触は手に残らない。
 白亜は一瞬、夜人を撃った瞬間が脳裏に蘇ってかぶりを振った。
 微かな胸の痛みに拳を握り締め、熱くなった目頭を隠すように俯ける。足早に歩く蓮夜の背後で唇を噛み締める。
 私はここで何をしているのだろう、と胸の内から自身の声が響いてくるようだった。知らないことを知ることは非常に楽しく、興味深く、更に知りたいという欲求も湧いてくるけれど。
 ふとした拍子に我に返った時、罪悪感に耐えられないかもしれない。
 白亜は滲んだ視界を腕で拭い、呼吸を整えた。夜人を生かすまでは罪悪感など感じている暇はない。脳裏に伽羅を浮かばせる。『最期』まで逃げずに変えてみせるのだと強く刻む。
「夜人は今回、関わらないの?」
 訓練場から続く幾多の分岐点。その一つを通り、今は地下からどこかへと出ようとしているようだった。
 いつもながら迷路のようだと混乱する。組織に属する者達は全て、この迷路を把握しているのだろうか。
 呟いた白亜の声に、無言で前を歩いていた蓮夜の足音が微かに鈍った気がした。
「関係がない。いつまでもお前と関わっている暇もない。夜人は夜人で別の仕事だ」
「ふーん……」
 ドキリとした内心を押し隠し、白亜は呟いた。
 そろそろあの『時』が近づいてきていると知っている今、彼の傍を離れることは酷く危険なことのように思えた。
 管理人に対する意地のようなものだけで、今は仕事へと向かっている。
 ――あの『時』へ誘う鍵となる蓮夜の傍にいるなら、まだ大丈夫だと――白亜は無理矢理、そう言い聞かせる。
 どうすれば止められるのだろう、と今更ながら素朴な疑問が浮かんできた。
 この巨大な牢獄の中、何も出来ない自分が出来ることは一体何であるのか。狭い廊下に反響する靴音を聞きながらそっと考えた。
 考えれば考えるほど堂々巡りに陥って、自分の馬鹿さ加減に落ち込みたくもなるけれど。
「どうして……」
 気付いたら口に出していて、蓮夜が訝るように振り返っていた。
 慌ててかぶりを振って「何でもないわ」と素早く告げる。
 強く脈打つ自分の心臓が、まるで他人の物のように感じられた。


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 見晴らしの良い廃ビルの屋上。元々何が営業されていたのかも分からないほど廃れている。主人が置いていったと思われる家具類がなぜか屋上に晒されていた。
 大きな家具類は身動きするのに邪魔だったけれど、よい死角を作ってくれるようだ。
 蓮夜に言われた通りのポジションを確かめながら、崩れかけた家具に背中をつける。
「向こう側に青い看板があるのが見えるな?」
 顎で示されそちらを見たが、どこら辺にあるのか分からない。灰色ばかりで統一されたこの場所にそのような物があったら目立つはずだが今は夜だ。闇に紛れて何もかもが曖昧になる時刻――白亜は眉を寄せながら周囲を見渡し、見えないわよと言おうとして気がついた。
 視界に一点、青。
 それはとても小さな点であり、まさかと思って慌てて狙撃銃を構えた。
 蓮夜の視線の中、狙撃銃に取り付けられていたスコープで確認する。
「……見えた」
 半ば呆然として呟く。
 スコープを通せばようやくそれが看板だと確認できる。けれどスコープを外せばただの点にしか見えない。闇に紛れているため、それも「そこにある」と分かっているから気付く程度の点だ。それを何の道具も使わずに見分けられた蓮夜は一体どんな視力をしているのだと眉を寄せた。
 訓練場で練習した距離より遙かに遠い。
「あの下を組織の車が通る手筈になっている。お前はそれを止めればいい。後は他の連中の仕事だ」
「――組織の車?」
「乗っているのは超VIPだがな」
 振り返った視線の先で、蓮夜は楽しげに口元を歪めていた。それはどこか、夜人の元に紅葉を向かわせた時の笑みに似ている気がして白亜は眉を寄せる。
「超VIP?」
「知る必要はないことだ」
 何も考えずに与えられた仕事さえしていればいい。考えることさえ放棄すれば、罪悪感にも悩まされない。命令をしているのは、私ではない誰かだから。
 白亜もそうして仕事に臨むと決めたはずだが、反発感が湧いたのは、蓮夜の笑みを見たせいだろうか。
 どうしてだか彼の瞳は酷く危険で、全てを見透かし拒絶しているようで。
 白亜は軽く唇を噛み締めて蓮夜を睨んだ。固定していた銃から位置を外れて立ち上がる。
「仕事をするのが私である以上、私は知る必要があるわ」
 なんて見え透いた正義感なのだろう。馬鹿馬鹿しい空虚な義務を掲げてみせれば蓮夜は微かに瞳を瞠り、そして冷笑した。
 腕組みをしたまま家具に背中をつけると白亜を蔑むように見下ろしてくる。
「言い換えよう。お前には知ることが出来ない」
 それこそ何度も繰り返された言葉遊び。
 カッとして怒鳴ろうとした白亜は、その刹那に上がった銃音に怒りを消された。家具へとピタリと体を添わせて姿勢を低くする。
 見れば蓮夜も同じで、不審な表情をしながら周囲を素早く探り出す。
 白亜の瞳に異変は直ぐに飛び込んできた。
 闇の中に赤くたなびく煙。白亜たちがいるビルから少し離れたビルの屋上に、それは上がっている。
 何だろうと瞳を凝らそうとした白亜だが、身を乗り出すより先に蓮夜に突き飛ばされた。
「痛……っ?」
 襟首をつかまれて乱暴に引き戻された。息をつまらせた白亜は眉を寄せる。すぐそばを蓮夜が通り抜けた。真剣な表情だ。
「何……?」
 床に尻餅をついて蓮夜を見上げたが、蓮夜の視線は白亜に向かなかった。先ほどまでと全く異なる雰囲気で蓮夜は赤い煙を凝視する。
 そして急に、体を翻した。
「蓮夜!?」
 この場で彼から指示を受けながら仕事をこなすのだと思っていた白亜は驚いて声を上げた。蓮夜が向かう先は階段だった。
「お前はこの場で仕事の遂行だ。それ以外でこの場を離れることは許さない」
「え、あ、でも……」
「引き受けたのはお前だろう」
 蔑むように強く言い切られ、白亜は渋面を作った。
「俺たちが後方支援するんだ。抜かるんじゃないぞ」
「……嫌な言い方」
「そろそろ車が来る頃だ。持ち場についておけ」
 微かに笑われた気がして顔を上げると、すかさず指摘が飛んでくる。
 どこか釈然としない面持ちになりながら白亜は銃へと体を向けた。先ほどのことで位置がずれていないか調節を始める。
「お前が車を止めたら後は別の奴が受け継ぐからな。直ぐにこの場から離れろよ」
 訝しく振り返った先では、蓮夜は既に階段へと姿を消して尋ねることは出来なかった。
 闇に沈んだ屋上の一角で、白亜は忌々しく狙撃銃を睨みつけてため息を零した。

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