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第八章

 【三】

 夜人や蓮夜、そしてあの養護施設の管理人が言っていた言葉。長年の想いが叶うとは一体どういうことなのだろう。
 白亜はスコープの照準を青い看板に合わせながら考えた。
 銃身を握る手は微かに汗ばんでいる。蓮夜が去った後には静寂しか残っていない。嫌な静けさが額の汗も誘っているようだった。
 体を狙撃銃から離すことなく、スコープの照準を青い看板から徐々に下げていった。
 古びた看板には、白亜には読めない難しい文字で何かが書いてあった。意味は分からない。割れて欠けたそれ内部には意味を成さなくなって久しいと思われる電球が覗いている。
 照準を下げ続け、倒壊しそうなほど古びたビルの階数を下りていく。
 夜のため薄ボンヤリとしていたが、スコープを通すと形まではっきりと伝わってくる。白亜は知らないが、それは赤外線まで備えた高性能の照準装置であった。
 照準を道路にまで落とし、そこで止める。手前の建物が邪魔だ。標的が通るであろう道路はあまり見通しが良くない。それとも標的はあの角を曲がり、白亜側に向かってくるのだろうか。そこまで調べはついているのだろうか。
 都合よくそんなことを考えることも出来たが、そこまでアテにしない方がいいと肩を竦め、照準を角から少し離す。
 静寂が満ちているなら車の音は良く響くかもしれないので、耳も澄ます。標的はイツ頃この場を通るのだろう。
 前にばかり集中していると背後の気配が分からない。
 蓮夜がこの場を離れてから長い時間、白亜は焦がれるように標的を待ちながら、ときおり弾かれたように振り返る。恐ろしい寒さが足元からひたひたとよじ登ってくるような不安に駆られた。
 次第に集中力も散漫となってきて、スコープと背後とを気にしていた白亜は一瞬響いた音に身を竦ませた。
「何……っ?」
 直ぐ斜め前方の家具が倒壊する。長らく放置してあったそれは砂煙をあげて崩れ落ちる。
 爆発したかのような音を響かせ、屋上端にあった家具は落下した。一瞬遅れて地面に叩き付けられ、飛び散る音が聞こえてくる。
 けれどそこまで聞いている余裕は白亜にない。どこかからの銃撃だと気付いて身を伏せた。
 その途端に再び近くの家具が倒壊する。
 今度は先ほどよりも白亜に近く、散った破片が白亜の頬を掠めていく。
 一瞬にして早鐘を打ち始めた心臓を感じながら、白亜は懐からリヴォルバーを取り出し構えた。身を縮ませるように脇をしめて背中を家具へとピッタリつける。
 どうして突然攻撃など受けたのだろう。足が震えて呼吸は荒く繰り返される。
 二つの銃弾は間隔を空けて撃たれたけれど、苛立つように連射となる。撃たれるたびに家具は倒れ、白亜までの距離は狭まっていく。
 標的もまだ現れていないというのに、このようなことで持ち場から離れるわけにはいかない。
 まだ標的が現れていないことを確かめるように瞳を細め、青い看板を見たけれど分からない。銃音がうるさく、白亜は舌打ちして奥歯を噛み締めた。
 弾が切れたのか、音が止んだ一瞬を見計らい相手を窺うと、それは先ほど赤い煙が上がっていたビルの屋上に見えた。
 一人だろうか。
 遠かったが、青い看板の距離ほどではない。
 屋上に立つ影は一つしか見当たらない。そしてそれが再び銃を構えようとしているのを見て銃を撃つ。けれどリヴォルバーでそんな距離に届くはずもない。直ぐに新たな銃弾が白亜へと撃ち込まれてくる。
「何だって言うのよ……っ!」
 苛々と舌打ちし、自分が盾とする家具がそろそろ倒壊しそうなほど銃弾を浴びたと悟り、白亜は勢い良くその場から飛び出した。
 邪魔をする相手に腹が立つ。飛び出して次の影へと移ろうとした瞬間に銃弾が足を掠めたことにも腹が立った。
 湧き上がる苛立ちのままに狙撃銃を乱暴に取り上げ、荒い呼吸で状態を確認し、そして一瞬の間隙を縫って飛び出した。敵の視界へと全身を見せた白亜は横っ飛びに飛びながら、銃弾の雨が自分に注がれる様を克明に感じた。
 だがそんなことに構っていられないほど追い詰められた白亜は敵の影だけを凝視し、狙撃銃を撃ち放った。
 照準など合わせる暇はない。横飛びの合間の空中で。
 一瞬全ての音が消えたような錯覚に陥り、引き鉄を引いた瞬間には白亜は屋上に倒れていた。けれどそれは撃たれて倒れたというのではなく、単に横とびの滞空時間が終わったということだけ。狙撃銃に衝撃を与えぬよう、掲げたような格好で倒れた白亜はそのまま伏して動けなかった。
 それっきり、辺りにはまた静寂が下りる。
 白亜は恐る恐る腕に力を込めて体を起こし、何の怪我も負っていないことに安堵の息を滲ませた。そして耳を澄ませ、周囲の音に集中した。何も聞こえてこない。もしかして相手はこちらが顔を出すのを待っているのだろうか。
 そんなことを思いながら視線を巡らせ、崩れた家具の一部を拾ってみる。木っ端微塵とまでは行かないが、それなりのダメージだ。銃弾によって本来の形を崩れさせたそれを手にし、白亜は息をつめて大きくそれを放り投げた。
 もし相手がこちらの動きを待っているなら、顔を出した瞬間にも撃ってくるはず。実際に白亜が顔を出す訳にもいかないので代わりに壊れた家具を投げてみたのだが――予想していた銃音はない。
 恐る恐る、白亜は顔を出して眉を寄せた。先ほどまでこちらに向けて銃を構えていた人物の影は見当たらない。ビル屋上は再び無人と化している。
 白亜は青い看板を振り返り、逡巡した後にスコープを覗き込んでビル屋上を見た。
 先ほどまで影がいた場所には誰かが倒れているような影が見出せて、小さく「そんな馬鹿な」と呟いた。
 あんな苦し紛れの攻撃が当たったなどと、白亜でなくても信じられない。
 信じられぬままスコープを覗き、倒れる人物に近づく誰かの影を見つける。そちらへと集中するとそれは蓮夜だと分かる。蓮夜は倒れている人物に近づくと何を思ったのかしゃがみ込んだ。
 細かな行動までは分からず、白亜は黙ったままそれを見守る。と、不意に蓮夜が顔を上げて白亜を見て、そして腕を振る。
「あ……」
 静寂の中に響いた車の音。
 白亜は慌てて先程の位置に狙撃銃を固定させ、本来の目的である車の登場を待つ。
 とても集中できない慌しい災厄に見舞われたけれど、なんとか気持ちを宥めてスコープを覗き込む。
 青い看板に照準をつけ、徐々に下ろして行き――丁度、車が建物の影から顔を出したところだった。
 速度は速い。夜に紛れる黒い車で、窓に映る影で大体の人数が把握できる。けれどそんなことにまで気を回している余裕はない。心の準備も出来ていないのに現れた標的を追うのが精一杯だった白亜は車のタイヤに照準を合わせた。
 ――これに成功すれば。
 成功すれば何だったろう。既に目的は忘れて手段のみを追い求めている気はしたが、今この時に余裕はない。成功したらあとで考えればいい。
 車はどうやらこちらには向かって来ないようで、やはり狭い白亜の視界を横切るだけ。逃したら次はない。
 照準を、車のドアガラスを伝ってタイヤへと合わせた。それがずれないタイミングを見計らって引き鉄を引いた。
 前輪と、万が一の時の為に後輪も。ボルトアクションを素早く完了させて後輪も狙った。
 成功か否かは一瞬後に分かる。
 二発撃ち込み、スコープから顔を外してそちらを見た白亜はタイヤがスリップする高い音を聞いた。そして激しく何かにぶつかる音。
 コントロールを失った車がどこかの建物にぶつかったのだろう。
 白亜は狙撃銃を下げながらそう思い、息を吐き出すように口を開ける。小さく開いた唇は細かく震えていた。
「――麻奈……?」
 その場から動けぬまま白亜は立ち尽くす。
 車を止めることだけを考えていたため、見た光景に反応できたのは撃った直後だ。
 車が消えた方向から爆発音が聞こえ、白亜の視界が一瞬赤く染まった。先ほどの車が炎上したらしい。ガソリンが爆発したのだろうか。いや、蓮夜は「後のことは別の者がやる」と言っていたから、これは組織の仕業だろうか。
 目的を終えたら直ぐにその場を離れろと言われていたことなどすっかり忘れ、白亜はその場に視線を落とす。
 夜闇が赤く照らされており、空にかかったスモッグが毒々しく色づいていた。
 ――里親に貰われていくのだと聞いた麻奈は、真新しい洋服を着せられて座っていた。二人の男に両脇を固められ、浮かない表情で後部座席にいた。慣れ親しんだ養護施設を離れ、紅葉とも引き剥がされたため心細かったのだろう。
 タイヤに照準を合わせる前のスコープには、一瞬ながらそんな麻奈が映し出されていたのだ。
 大好きな料理が出来るかもしれないよ、と。笑って送り出したはずなのに。
「そんな、どうして……っ?」
 思わずビルの端へと駆け寄り身を乗り出そうとしたが、その場所からは良く分からない。老朽化したビルは、端の方ほど脆くなっているようで。白亜が駆けるだけで脆く亀裂を走らせる。
 狙撃銃をその場に投げ捨て、早鐘を生む胸を押さえながら階段へと走った。
 脳裏に過ぎるのは麻奈の笑顔。夜人を助けることだけに集中し、他の者はどうでもいいと切り捨ててきたはずだ。再び自分の近くに巻き込まれてくるなんて予想もしていなかった。
 明かりの灯らない階段は深淵を思わせ手探り状態で駆け下りる。
 固い壁に何度も頭や腕を打ちつけながら、それでも外からの薄い明かりが入り込んだ地上が見えた白亜は足を滑らせた。
 悲鳴も上げぬまま最後の階段を転び落ち、とっさに手を着くと激痛が走る。階段から外まで広がるホールに叩き付けられ、積もりに積もった埃が舞い上がる。息苦しさに白亜は咳き込んだ。
 胃からせり上がってくる熱いものを感じたが生唾を飲み込むことで何とか押さえた。荒い呼吸を繰り返しながら立ち上がり。
「痛……」
 足もひねったようで、体を起こすと鋭い痛みが駆け抜ける。
 瞳を固く閉じて痛みに耐える。歯を食いしばって立ち上がる。
「白亜!?」
 立膝となり咳き込んだ所で声が聞こえた。
 外からのわずかな光の中に影を作り、開いた入口に佇んでいる。その姿に、今度こそ白亜は双眸を見開いて息を止めた。
 今回の仕事には関わらないと言っていたのは彼自身。それなのに、なぜこの場所にいるのか。
 白亜は現れた夜人を呆然と見上げた。
 駆け寄る夜人は素早く白亜の状態を見て取って、ひねった箇所の状態を確かめる。白亜は何も言えずにされるがままで、触れられた瞬間走った痛みに小さな悲鳴を上げただけで。
「この分なら問題ない」
 そう言ったかと思うと夜人は白亜の腕をつかんで強引に引き上げ、何の説明もないまま外へと走り出した。
 なぜここへ来たのかとか、何処へ行くのかとか、そういった疑問は尽きないけれど。白亜は自分がなぜ泣くのか良く分からないまま涙を零し続け、黙って夜人に手を引かれた。

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