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第八章

 【四】

 崩れかけたビルから外へ飛び出した白亜は直ぐに違和感を感じた。
 丁度、左右に延びる通りに面した建物、その死角。白亜がビルから出たら直ぐに狙いを定められそうな位置に、二人の人間が倒れていた。夜人がいなかったらきっと、白亜は何も気付かずにこのビルから飛び出していただろう。
 今は夜人に腕を引かれ、追いつく事が精一杯で口を開く余裕もなかった。
 屋上で待機していた時は静寂が痛いほどであったのに対し、外に出た現在ではそこかしこから人の叫び声が響いてきていた。
 悲鳴なのか歓声なのか、縦横無尽に反響するそれらは判別しがたい。遠くからなのか近くからなのかも判然としない。けれどその異様さだけは伝わってきて、白亜は不安に眉を寄せて周囲に視線を向けた。
 ――その視線が周囲に向けられる直前、白亜の視界には夜人の背中が飛び込んでくる。
 彼の左腕に庇われ背中にぶつかり、痛いと思った瞬間銃声が響く。反射的にそちらへと顔を向けると、建物の中からこちらを狙っていたと思われる男が一人倒れていく所だった。確認する前に白亜は再び夜人に手を引かれる。
 夜人の手にはいつの間にか一つの銃が握られていた。
「何……?」
 答えの声は返らない。
 狭い路地から狭い路地へ、夜人は一度も振り返ることなく走っていく。視線は真っ直ぐ前へ向けられているが、その意識は全方向へ開かれているのだと、白亜にも分かるほどの緊張感が、繋がれている腕から伝わってきていた。
 腕をつかまれているため逸れることはないが、夜人が走る速度は白亜がついていけるものではない。ときおり足が地面から浮き上がり、走ると言うより滑ると言った方が正しい。少しでもバランスを崩したら一瞬で夜人もろとも横転するだろう。
 幾つ目かの路地を渡る途中、遠くの空がどす黒く燃えている様を見た。夜人が進む方向はそちらから外れている。
「待って!」
 叫んだが聞き入れて貰える様子はない。それとも荒い呼吸音に紛れて届いていないのだろうか。
 そうしているうちにも麻奈から遠ざかって行き、白亜は建物の角に手を掛けて強引に止まる手段に出た。腕に掛かった重みに痺れるような痛みが走る。悲鳴を殺して顔を上げる。
「私はまだ」
「無駄だ」
 実力行使で止まった白亜は悲痛に叫んだが、夜人は最後まで言わせず遮った。振り返った瞳は赤い闇を映して歪んで見える。
「戻っている時間はない」
 何をそれほど急ぐのか、強く言い切った夜人は再び走ろうとする。腕をつかまれたままの白亜は再び体が傾きかけ、建物の角に慌てて縋りついた。
 苛立つように振り返る夜人へと、白亜は顔を歪めながらかぶりを振る。
 まだこの場所から離れる訳にはいかない。麻奈をこの目に焼き付けるまでは、絶対に。
「時間がないなら夜人だけで行って。私はまだ、行けないから」
 共に行くことが出来たらとても楽なのに、なぜ行けないのだろう。
 何度流したか分からない涙が頬を伝い、白亜は顔を俯けた。唇を噛み締めて虚ろに呟いた。
 夜人が口を開く前に腕を振り解く。
 背中を向けて走り出す。
 夜人が叫んだが、何を叫んだのか分からなかった。夜人の傍を離れなければいけないことが何よりも辛くて、逃げるように走り出す。
 煌々と炎を照り返す雲を見上げ、浅い呼吸を繰り返しながら必死で走る。背後から夜人が追ってくることが分かり、気持ちは焦る。伸びてくる腕は強い。次につかまったら抜け出せない。
 白亜は角を曲がることで夜人をやり過ごし、全力で走った。
 目的の場所はさほど離れていない。
 人の声は聞こえるものの、誰の姿も見えないことに少しの疑問を持ちながらその場に辿り着く。
 ――轟音をうならせながら炎に巻き込まれていく建物。炎上する現場にはとても近づけそうにない。辺りの建物も巻き込んでの火災となり、今も何かが爆発するような音が響いている。
 屋上から目にした光景よりも凄惨さを増したその様子に、白亜は息を呑んで足を止めた。自分ではどうすることも出来ずに立ち尽くす。
 心臓が鋭い軋みを上げたような気がして声を詰まらせ、眉を寄せて胸を押さえた。
「――白亜か!」
 頭上から降ってきた声に、弾かれたように顔を上げる。反射的に手は武器を求めたけれど、白亜は丸腰だった。
 見上げた視界に屈強な男の姿は入り込む。
 比較的損傷していない建物の窓に男が足をかけ、身を乗り出している。その手にしているのは小型のナイフ。
 白亜には見覚えのない男で、どうしようと焦りが生まれ。男の表情が獲物を見つけたかのように輝く様を見て、逃げ出そうと足が後退する。次の瞬間には体を翻していて、白亜は男に背を向け走り出していた。
 けれどその頭上を風が過ぎ去り、窓から飛び降りたらしい男が白亜の退路を完全に塞ぐ。
「さぁて、蓮夜に渡すのがいいか、このまま殺すのがいいか」
 醜悪な笑みを浮かべて男が白亜ににじり寄ろうとした刹那だ。
「離れろ!」
 男の体の向こう側に夜人の姿が見え、叫ばれた。
 間近に炎が迫って轟音を上げているため声は明確に伝わらず、夜人と視線を合わせた白亜にのみ意志が伝わった。
 夜人が銃を構えるのを見て白亜はその場から跳んで後ろに下がる。
 そんな白亜の様子に男は訝りながら後ろを振り返り、夜人の姿を目にした時にはもう、銃声が響いていた。
「夜人、違う!」
 銃の照準が男からずれていることに気付いた白亜が叫んだが、その時にはもう男が銃弾から免れていた時だった。虚を突かれた一瞬が過ぎ去れば、男は夜人に向かって突進していた。慌てて白亜は男に手を伸ばしたが一瞬遅い。男の体は白亜の手に触れもせず、そして夜人は避ける素振りを見せたが男の歩幅には間に合わない。
「嫌だ!」
 訪れる瞬間が克明に脳裏に刻まれる気がして白亜は叫んだが、そんな白亜を目にして夜人は微かに口の端を釣り上げる。
 男の手が夜人に掛かる瞬間、夜人は後退しかけたがそのまま屈み込み。手の中で銃を反転させると銃床を男の顎に叩き込む。男が怯んだ隙に銃口を突きつけ一発放ったが、驚くほどの速度で回復した男はそれを避けた。
「夜人――」
 数秒で流れた映像のような光景に、白亜はやや呆然と瞳を見開いて凝視していた。
 男の手により夜人が押し倒されていく様も、その視界に赤い軌跡が映り込んだことも。
「ぎゃあ!」
 くぐもった声で男が悲鳴を上げる。
 先ほど夜人が意図的に外していた銃で落ちてきた、赤々と燃え上がる炎が男の背中に直撃した瞬間だった。焼けて脆くなっていた建物の一角だろう。
 夜人を押し倒した男は燃え上がった背中にそれどころではなくなり、悲鳴を上げながら地面をのた打ち回る。炎をまとわせる壁材を払い飛ばした後は背中の痛みに数秒意識が夜人から離れる。
 夜人は素早く立ち上がると、先ほどまでより数段狙いを付けやすくなった男に銃を向けて引き金を引いた。
 ――白亜は足から力が抜けて、その場に座り込んだ。
 ようやく気付いた。
 対峙した男に夜人が銃を向けておきながら放たなかったのは、もしも男が避けたらその銃弾は白亜へと向かってしまうから。きっと簡単に勝てる相手であったのに、わざわざ遠回りしてまでこちらを気遣って。
「おい!」
 倒れて動かなくなった男を一瞥した後、白亜へと足を向けた夜人はギョッとしたように怒鳴り声を上げた。
 素早く白亜へと駆け寄ると腕を引き、乱暴にその場から飛び退いた。
 刹那、相当なダメージを負って脆くなった建物のコンクリートが落下し、白亜がいた場所を直撃する。炎の軌跡を引きながら落下した塊は、地面へ墜落するなり弾けるように四散して白亜の体を掠めていった。
 抱えるように回った腕に腰を引き寄せられ、強く抱き締められる。耳元で安堵する息が聞こえ、白亜は振り仰いだ。
「この馬鹿野郎!」
 鼓膜が一時機能を停止する程の怒鳴り声を浴びせられた。
「何で離れようとする!?」
「だって、麻奈が……!」
「無駄だと言っているだろう!」
 再び怒鳴りつけられて首を竦めたが、白亜は「それでも」と訴える。
 縋るように夜人の腕を両手でつかみ、見上げてかぶりを振る。
 視線が絡み、その場には沈黙が下りる。先ほどよりも大きな塊が直ぐ側に落下した。飛散した炎は容赦なく白亜の頬を打ち、小さな痛みに白亜は眉を寄せる。
 先ほどよりも熱気が迫っている。数秒ごとに炎が周囲を取り囲み出す。炎は先ほど倒れた男をも包みだした。
 尋常でない熱さというのは、痛覚も朦朧とさせてくるのか。
 体全体にだるさを感じながら、つぶてがあたった頬に手を当てようとして、その手を取られた。見上げると夜人の髪しか目に入らない。焼けるような熱を含んだ髪が鼻を掠める。瞳を細めて頬に濡れた感触を覚え、舐められたのだと知る。
 脳に響くような鈍い痛みが走り、夜人をつかむ手に力を込めると次は唇に下りて来た。
 炎の近くにいるためその唇は乾いていたが、歯列を割って入り込むものは熱く濡れていた。上顎を舐められ舌を絡みとられ、口腔を蹂躙されるようなその行為に白亜は震えた。
 今までにも何度かあった行為だが、それまでよりも更に危機感を覚えてしまうのは周囲の状況からだろうか。合間に息が洩れ、どうすればいいのか分からないまま瞳を固く閉じていた白亜は首筋に指を添えられて戦慄し、その手をつかんで強く握り込んだ。
 夜人が離れてもその瞳を直視できない。夜人の手を握り込んでわずかに顔を俯けたままだ。
 時間としては一瞬でもあったが、主観とすればずいぶん長く感じられた。腕を引かれて体が傾く。
 結局、麻奈に会うことは出来ないのか。
 白亜はそう思ったけれど向かう方向は今までと違い、轟音を上げる炎の只中だった。
 思わず夜人を見上げると真剣な横顔があるばかりで、先ほどまでと矛盾する行動に白亜は混乱したまま彼に従った。

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