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第八章

 【五】

 炎の中へと入り込むと、むき出しになっている肌が痛みを訴え始めた。髪に護られている頭は汗が滲むだけだが、顔や腕はそうもいかない。容赦なく炎に照らされ、絶えず舞い飛ぶ火の粉に軽い火傷を作り始める。
 微風が流れた瞬間にもそれは糧となり天高く炎を散らせ、竜巻のように細く長く躍らせる。
 建物が乱立するこの地帯ではビル風となり、炎は更に不規則に燃え上がり、巨大な火炎放射器を向けられるように炎の渦が襲ってくる。眩しすぎてどこにいるのか分からない。平衡感覚すら失われてしまいそうである。
 これで麻奈の所へ行きたいなどと、良く言えたものだ。
 白亜は自嘲するように笑みを零して夜人の背中を見上げた。自分を保つことが出来ているのは、夜人が導いてくれるからだった。
 ――足取りは迷わず、火災旋風が起こる寸前に身を滑らせる。あと一秒でも遅かったら巻きあがった紅蓮に飲み込まれただろう時もあった。兆候など何もないはずなのに間違わない。その判断力は仕事で鍛えた賜物なのだろうか。
 炎の中へ入り込んでから一分も経っていないだろうに、白亜は既に意識が朦朧としてきてかぶりを振る。思い通りにならない自分の体に苛立ちが増して舌打ちしたい気分であるが、口を開くとそれだけで疲れて唇を引き結ぶ。
 何とか自身を奮い立たせようと視線を巡らせてみたが、うなりを上げる炎にかえって萎縮しただけだった。
 帰り道の確保、などと悠長なことを言っている余裕はない。走ってきた道に建物の残骸などが降り積もった箇所も点々とある。これからもそれは増え続けるだろう。
 白亜は唇を噛み締めるようにしながら胸元を握り締めた。麻のような手触りの生地は汗も蒸発させ、カラカラに乾いている。熱を宿して今にも発火しそうな勢いだ。
 今更ながら、夜人を巻き込んだことに申し訳なさを覚えた頃だ。
 白亜は炎の勢いが弱まった気がして顔を上げ、広がった光景に息を呑んだ。
 燃え尽きたのか黒々とした様を見せるその場所は開けており、先ほどまでスコープで覗いていた景観はどこにもない。潰れた車は熔けかかっており、鼻を刺すような異臭を放っている。一体何が熔け出しているのか、粘りつく空気がその場に漂っていた。
 操作不能となった車はやはり、そのまま建物へと激突したらしい。
 エンジンが積み込まれていると思われるボンネットが激しくひしゃげ、窓ガラスも粉々になって散乱していた。
 車に乗っていた人物たちは逃げようとしたのか、車の直ぐ側で倒れていた。こちらも炎に巻かれて無残な遺体となっている。
 焼かれた遺体ばかりではなく、四肢が千切れ飛んで地獄絵図を晒している者もいる。一体どのような攻撃を受けたらそのようになるのだろう、と白亜は顔をしかめる。
 夜人の腕を放し、車に近寄る。
 一歩寄るだけで臭気は強烈となり、毒性のガスが流れているのか頭が痛みを訴える。
 運転席には誰もおらず、直ぐ近くに何かの塊が見出せただけだった。
 白亜は意識して麻奈以外を視界から締め出し、数時間前に見た車の様子を思い出す。
 後部座席の中央に座っていたはずだ。白亜はひしゃげた車のドアから中を覗き込んだが、予想していた惨状はなかった。無残に焼けた黒いシートがあるばかりで、麻奈の姿はどこにもない。
「前だ」
 拍子抜けした白亜は背後からの声に、そのまま視線を移動させた。
 運転席を通り過ぎ、ボンネットが建物に衝突したその上に、あった。
 後部座席から投げ出され、ガラスを破って外へ飛び出したのか。そう考えることは出来たが、白亜は瞳を瞬かせた。
 夜人が示したそこには、焼け焦げた黒い影だけが焼きついていて、麻奈の形は何もないのだ。子どもであるから焼き尽くされてしまったのだろうか。
「――あの熱閃は、麻奈には耐えられなかったんだろう。死体も蒸発したんだな」
 それならあの小さな子供の影は、焼きついた麻奈の影か。姿も残さず、形もない影だけに焼き込まれたのか。
 白亜は小さく口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。喉が引き攣れたように細かく震える。
 涙を流そうと、周囲の炎であっと言う間に蒸発してしまう。泣きたいのか、自分でも良く分からない。
 ――私は薄情だ。
 まだ陰惨さを残す現場に視線を向けたまま、白亜はそう思った。
 麻奈が死んだというのにその事実を受け入れている自分がいる。夜人の時にはあんなにも必死で取り戻そうとしたのに、今は過去へ渡ることもない。
 白亜は震える両手に視線を落とし、手の平を凝視した。
 何もかもがこの手をすり抜け予期せぬ方へと向かっていく。巻き込みたくないから離れたのに、落ち着いた結末はここだった。
「麻奈……っ」
 天へ舞い上がった小さな友人は自分のエゴで犠牲になった被害者だ。
 暗澹たる炎雲が覆う空を見上げ、振り絞るように悲鳴を上げた。背後から伸びた夜人の腕に縋り、頭を押し付けて声を殺した。
 無言で抱き上げられ、夜人がその場を離れる気配を感じたけれど、白亜はもう引き止めようとはしなかった。


 ――ねぇ紅葉、知ってる?
 私の名前って、凄く神聖な名前なんだって。神様から与えられた恵みなんだって。牧師様が教えてくれたの。
 捨てる時にお母さんたち、少しでも私のこと、想っててくれたのかなぁ――


 夜人と白亜がその場を離れたしばらく後、鎮火と状況判断のために組織の者たちが訪れていた。悠々と足を進める蓮夜と管理人は、周囲の轟音や炎には怯えもしない。
「これで、終わったな。呆気ないものだ」
「――白亜をどうするつもり?」
「生きていると思うか、あの状況で?」
「それでも生きる者を、貴方は望むのでしょう?」
 静かな管理人の言葉に、蓮夜は興味がないように鼻を鳴らした。
 生前の姿など連想も出来ない姿になった者たちを睥睨し、白亜がしたように蓮夜もまた、影だけとなった麻奈を見つめた。白亜と違うのは、その瞳が麻奈を捉えていないことか。
 他の事に心を囚われていることを悟らせないための、見せ掛けの行為。
 そんな蓮夜の癖に気付いているのか、管理人もまた同調するように麻奈へ視線を移した。何の感情も浮かばせず、ただ義務的に。
 影だけとなった者はどうなるのだろう。魂もそこに刻み付けられるのだろうか。そうして埋葬されることもなく、そこに縛られるのか。
 麻奈の影が焼きついた建物は爆破された。  麻奈の影は未だ細い煙を上げる車ごと、建物の瓦礫に埋もれて消えた。

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