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第九章

 【一】

 濡れた吐息が熱いのは泣いていたせいもあるのだろう。
 次第に悲しみを塗り変えていく感情は一体なんだろう。以前にもこんな気持ちを味わった。その時はもっと激しい力の渦のようなものだった。今回もまた同じような感情が湧き上がってくるのが分かる。しかし外部からの力ではなく、自分の内側で力が渦巻いている。
 白亜は夜人の首に手を回した。
 しっかりと抱き締められて、白亜は更に強く、腕に力を込める。
 他には何も感じたくない。静かに瞳を閉じる。揺られる感覚だけが伝わり静寂は白亜の内を支配する。
 気が付いたら夜人は、どこかの建物内へと紛れ込んでいたようだ。白亜を一室の床に下ろすと辺りを物色し始めた。
「使える使える」
 楽しげに呟く背中を白亜は虚ろに見つめた。


「――未来なんて、本当にあるの?」


 走る合間の問いかけに、夜人は何と答えただろうか。記憶が曖昧だ。
 夜明けはまだ遠いのか、部屋の中は薄暗い。
 少し離れた場所にいる夜人を眺めていた白亜は半眼を伏せた。
 未来なんてないよと、痛いほど悲しくなりながら。
「現場通って来たのは正解だったかもな。あの炎だったら、連中が迂回して来るには時間がかかるし結果オーライだ」
 火が入ったランプを片手にし、夜人が近づいてくる。手には湯気の上がる飲み物まであり、どこから調達したのか首を傾げたい。この部屋は夜人が使っていた部屋なのだろうか。彼はまるで遠慮なく物色し、手慣れた様子で整えていく。
「飲めるか?」
 熱を通さない材質で出来ているのだろう。差し出された飲み物を両手で包み込んでも熱くなかった。
 白亜は渡されたコップに視線を落とす。喉は渇ききっていたが、飲むことに酷く罪悪感が湧き上がる。
 ――麻奈はもう何も口に出来ないのに。
 上げていた手を下ろし、コップを膝に乗せる。視線も落としてそのまま沈黙を保ち続けた。
 目の前で夜人がため息を落とし、白亜の手から飲み物を奪う。
 動作を見守る白亜の前で夜人はそれを口に含み、険しい顔をしながら白亜に口付けた。
 歯列を割って流れ込む液体。むせかけたが夜人に抵抗を封じられ、抗いきれなかった白亜は瞳を固く閉じて嚥下した。
 温い液体が喉を滑り、活力となって全身に染みる。
「何するのよ!?」
「ほら正気に返った」
 むせながら睨みつけたが、夜人は悪びれなく返してくる。
 その笑顔が憎らしい。
 白亜は涙目となったまま、思い切り殴ってやろうと手を振り上げたが夜人につかまれた。困ったような表情で見つめられ、思わず視線を逸らす。
 この場は居心地が悪い。逃げ出してくなってくる。
 そんな白亜を察したのか、夜人は手を伸ばして抱きしめてきた。
 白亜の髪に顔を埋めるようにして、強く。
「火の匂いがする――死の匂いだ」
 耳元でそう囁かれて拳を握り締める。瞼に力を込めて、固く瞳を閉ざす。
 今まで夜人が守ってきた『紅葉』はどこにもいない。『白亜』がそれを望み、壊した。
 そのはずであるのに、それを夜人に知られることがたまらなく嫌だった。
 離れようと力を込めたが、背中に回される大きな腕は緩まない。慟哭が湧き出てしまいそうで、食いしばるように顎に強く力を込めて夜人に体を預ける。
 いい加減に放してよと思いながら、縋りつくように額を夜人の肩につける。宥めるように背中を往復する夜人の手がわずらわしく感じられた。
「麻奈が、ああなるって分かって」
 真摯な瞳で覗き込まれ、心臓が悲鳴を上げる。
「だから反対したの? 私に、麻奈を」
 陰惨な最期を遂げた麻奈。白亜は何も知らずに再び引き金を引いた。
 顔が熱くて、涙は幾つ流しても足りない。
「夜人なんか嫌い! 麻奈が殺されるって知ってたくせに、どうして教えてくれなかったの! あんな形で知らされるくらいなら最初から知ってたら良かった! 夜人なら助けられたくせに、どうして助けてくれなかったの! どうして麻奈が……っ、殺されないといけなかったの!」
 滲んだ視界に夜人が映るが、その至近距離ですら彼の顔が良く分からなかった。
 風景はぼやけて全てが白黒の世界へと塗り変えられたよう。
 組織から離れ、夜人と二人で。このまま二人で逃げられたら良かっただろう。小さな頃から望んでいたこと事だ。
 けれど今目の前にある叶えられそうな夢は、そのまま叶えても満足できない。
 麻奈の死を知った今では、何も知らずに組織を離れることもできない。消えぬ呪縛を刻まれたようだ。
「夜人も蓮夜もおかしいよ!」
 夜人の胸倉をつかみ、叫んで。
 絶叫が過ぎた後に手首をつかまれて剥がされる。まだ嗚咽を洩らしていると夜人が顔を近づけ、乱暴と言える力で涙を拭いた。強く顔を上げさせられる。
 真摯な夜人の瞳。
 仕事から帰って来た夜人がときおりしていた、貫かれそうな光。
 白亜は呆然とそれを見上げた。
「ずっと、怖かった」
 何を言われるのか構えていた白亜は眉を寄せた。
「ソフィアから離れたら、俺を好きでいてくれるお前はいなくなるんじゃないかって。解放したら錯覚は解けて、もう帰ってこないんじゃないかって」
「何、言ってるの?」
 そんなこと、あるわけがないのに。だからずっと苦しんで悩んで、こんな所にまで来てしまったのに。
 夜人の言葉は白亜が抱いてきた気持ちを否定しているようで、白亜は呆然と呟く。唇が震えた気がした。
「……だから、麻奈を助けなかった……? 私が、ここに残るように仕向けるために……?」
 嘘だ、という言葉は声に出されたのか出されなかったのか、良く分からない。まさか夜人がそんなことをするなんて思ってもいなくて、裏切られたかのように感じられた。
「……夜人は紅葉に優しかった。紅葉の選択肢を奪ってたのは組織だけど、その時に覚えた感情まで組織に操作されてるなんて我慢ならない。その時あった感情は紅葉だけのものだ。誰にも操作なんてされてない」
 錯覚なんかじゃない。この気持ちは本物なのに。
 だけど、夜人にはずっと伝わっていなかった。当たり前だ。伝わらないようにしていたのは自分自身で、それでも自惚れていたのだから。
 先ほどまでとは違った涙が静かに頬を伝った気がした。
「もし外に出てそんな感情が変わるとしても、夜人は何もしないの? 今まで紅葉に構っていたのはただの酔狂? 外の世界よりも自分を選ぶように、夜人は努力してたじゃない」
 ボロボロと涙が流れた。どうしてだろう、と他人事のように感じながら夜人の腕をつかむ。
 一度視線を逸らした夜人は、もう白亜と視線を合わせない。
「今でも夜人が好き。これからもずっときっと変わらない」
 夜人の横顔にはランプに灯された火の影が揺らめいていて、以前見たときよりもずっと精悍めいて見えて。煤けた頬に手を伸ばす。
「好きなことは変わらないのに、どうして……! ――今は、夜人を殺したいと思ってるよ」
 混在する、二つの気持ち。麻奈を殺すことでしか手に入れられないと思ったのだろうか、夜人は。
 どこまでも馬鹿だ。
 以前は愛しい気持ちでそんな言葉も言えたが、今は憎しみで一杯。
『この世界が好き』
 誇らしい気持ちでそんなことが言えたのはいつのことだっただろう。
 自分に変化を与えてくれるこの世界が好きで、自分にとってその世界は夜人で、だから大好きで、失くしたくなくて。でも、こんな変化は望んではいなくて。
 白亜は夜人の首に手を伸ばした。
 まるで覚悟を決めているかのように横を向き、視線を一度も合わせない夜人に腹が立った。

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