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第九章

 【二】

 爆発しそうな感情を抱えたまま夜人の首に手をかけ、白亜は唇を噛む。
 手の平に伝わる命の鼓動。覚悟を決めているように、夜人は瞳を閉じていてまるで抵抗を見せない。
 白亜は胸中で相反する二つの感情に、更に顎に力を込めて夜人を睨みつけた。親指に力を込めようとして、拳を握り締め。そして両手を振り上げた。
「――殺せるわけないでしょう!」
 思い切り、白亜は怒鳴りつけると夜人の両頬を挟むように叩いた。
 喘ぐように息を吸い込むと胸の奥が鋭く悲鳴を上げた。それを振り切るように、白亜は更に怒鳴りつける。
「私は、夜人の良いように乗せられてやるほどお人よしじゃないからね!」
 無限に湧いてくる憤りのまま声を荒げると、夜人は驚いたように瞳を開く。その瞳がこちらを捉える前に、白亜は夜人の両頬を挟んだまま力任せに引っ張って目の前に据えた。睨みつける。
「夜人が麻奈を殺せるはずないでしょう。あんなに楽しそうにしてたくせに。打ち合わせなんて必要ないほど絶妙のタイミングで私を陥れてたくせに。伊達に何年も夜人と一緒にいた訳じゃないよ!」
 今でも詳細に思い出せるほど、記憶は鮮やかで平和に満ちていたというのに。荒んだ光を宿すようになった夜人も、箱庭にいる時だけは翳りを払拭していたと思っていたのに。
 それらすべてが偽りだったとは思えない。
「何考えてるのかなんて分かりたくもないけど、それだけは信じるんだから」
 自分で見てきたことさえ信じられなくなったらお終いのような気がして、白亜は強く吐き出した。まるで自分に言い聞かせているようで奇妙な気はしたが、言い切ると不思議な自信が溢れてきて後悔はしなかった。
 驚いたような表情を見せる夜人に、唇を尖らせる。
「何よ。信用されてないとでも思ってたの? 一部分を除いて信用してるよ、口にしないだけで」
 今度は眉を寄せられて、白亜は軽く笑った。
 夜人の表情が、泣き顔の様に歪んだと思った瞬間に抱きしめられた。もしかしたら泣き顔を見られたくなかったのかもしれない、と白亜はためらうように夜人の背中に腕を回す。熱が篭って熱かった。
「――見殺しにしたのは事実だ。助けられなかった」
 ランプの火が揺れて、部屋の中には大きな影が揺れて。
「お前の注意を逸らせるために三上を送らせたけど、途中で蓮夜が……気付いていたか? お前が車を撃つ前に、近くのビルから攻撃した奴だ」
 夜人の言葉に記憶が巻き戻る。
 思い当たる記憶を探り当てた時、小さく「だから注意を寄せるだけでいいって言ったのに」と、呟く声が消えていった。
 忌々しげな口調に白亜の胸が痛みを訴える。
 注意を向けるだけなら一発で事は足りた。それでも、蓮夜が白亜の側を離れるまで執着したのは夜人のためだろうか。
 朧な輪郭だけが浮かぶ、知らぬ誰かに白亜は複雑となる。
「結局、三上も俺は見殺しにした。それでも麻奈を助けることは出来なかった」
 脳裏を過ぎるのは、狙撃銃の前で標的を待っていた静寂。独白のように響く夜人の声を聴きながら、白亜は唇を噛み締めた。
「麻奈を引き取った里親っていうのが、俺たちが長年排除してきた奴らの、最後の生き残りだ。麻奈が育った環境なんて知りもせずに、最後に子どもを後継者として隠居しようっていう腹だったんだろう。長い戦いの中で怖くなったのさ、奴らは。都合の良い時だけ善人ぶって、都合が悪くなれば切り捨てる」
「……誰のこと?」
「俺たちを捨てた世界」
 困惑する白亜の前で夜人は顔を上げ、それまでずっと立膝だった白亜の腕を引いて座らせる。視線が同じ高さで絡んだ。
「両親がいるっていうお前には多分、俺たちの気持ちは分からないだろう。気付いた時には俺たちはここにいて、望まれたいなんて口にも出来ない。ただ憎んで、呪って、傍観しているしかなかった。けど、この手で変えてやろうと。望まれなかった者たちの世界に再構築してやろうと、ソフィアは名を上げた。今日までずっと、作り出した奴らを殺してきた。麻奈を引き取ったのは最後の中心人物だったんだ」
 突然の情報に頭が回らず理解は出来なかったが、白亜は口付けられて目頭が熱くなった。夜人が笑う。
「俺を見てくれて、望んでくれたのはお前だけ――突き放そうとしたけど、やっぱり出来なかったな」
「……ずっと、不思議に思ってた。どうして誰も気付かないんだろうって。私はそんなに変わってしまった?」
 優しい口付けに涙が止まらない。清めるように手にも口付けを落とされて視線を落とす。
 夜人は翳りを帯びた静かな表情で笑い、「それはな」ともう一度白亜を抱き締めると耳元に囁きを落とした。
「誰も他人なんて見ていないからだ」
 そこに『在る』と分かっているだけ。他者と深く関わろうだなんて誰も思わない。誰が他者の内面までも理解しようとするだろうか。
 殺伐とした中で、復讐だけを誓ってそれを為す。
 静かな事実に白亜は瞳を閉じて夜人の背中に腕を回した。
「そんな世界は哀しいよ」
「お前が言うならそうなのかもな」
 体を離した夜人は笑い、白亜の前髪を掻きあげる。
 笑いを滲ませていた夜人であるが、不意に真剣な表情に戻られて白亜は慌てた。至近距離に心臓がうるさく騒ぎ始める。頬が熱を持った気がした。
「笑って?」
「……は?」
「お前が一番最初に見せた笑顔。俺が一番惚れた奴、見せて」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった白亜は口を大きく開けて絶句した。瞬間的に沸騰したんじゃないかと思えるほど、体全体が熱くなった。
 気付かなかったが背後は壁だ。気になりだすとすべてが気になってくる。
「俺がまだ養護施設にいた頃、そこの管理人が言ってた。子どもってのは自分に何が一番必要なのか本能的に嗅ぎ取って利己的に働くんだと」
 揶揄する口調ではなく、夜人の瞳は真剣だった。夜人の口から聞かされる過去に興味を引かれ、心臓の音が少し静かになる。
「子どもが笑うのは、それしか身を護る術を持たないから。……愛されて護って貰いたいからだって言ってた。あの人には『惰弱な依存だ』と鼻で笑われたけど、その言葉だけが今もずっと残ってる」
「そんなの」
「俺は、俺で護れるなら何があっても手放さない。愛し抜いて全力で護っていくって決めたんだ。お前が奪われたものすべて、俺が取り戻してやりたい位だ」
 間近に迫った夜人の顔を、白亜は無言で留めた。無言なのは言葉が出てこなかったためだ。瞳を滲ませ、真っ赤な顔で夜人を睨んだが効果はない。抵抗はあっさりと崩された。
「笑って、って」
「そ……んなこと言われて笑える訳ないでしょう、いきなり!」
「笑えーー!」
「笑えてたまるかーっ!」
 ――奇妙な沈黙が下りた。
 ムッとする夜人に不思議な可笑しさを感じて、白亜は肩を震わせる。俯いて笑うと顎を持ち上げられて、嬉しそうな夜人の笑顔がそこにあった。
 意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなって更に笑う。
「ほらな。やっぱり突き放せない。絶対放さない。愛してる」
 白亜は震える心のままに口付けを受け入れた。溜まった涙を笑顔に変えながら夜人に抱きつくと、受け止めた夜人が急に口調を変えて覗き込んでくる。
「提案」
「……不吉な予感がするから聞かないことにする」
 一瞬沈黙が下りて、白亜は押し倒された。夜人は丁寧にも、近くのランプを遠くへと位置を動かす。
「ちょっと!」
「さっきから俺の心臓は爆発寸前だ!」
「威張るな!」
 むしろ飛び散ってしまえと真っ赤になりながら叫んだが、熱に浮かされそうな言葉たちに抵抗するのが馬鹿らしくなった。
 世界が欲しいな、と。
 夜人もそれを望むのなら、自分などくれてやる。彼が生き続けるために、絶望を拭い去ることが私で出来るなら。
 今だけは、二人で幸せな夢を見る。

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