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第九章

 【三】

 着崩れた服ごと抱きしめられた白亜は微かに笑う。首を傾げるようにして夜人が覗き込んで来た。それを見上げて笑みを深める。
 夜人のことだけを考えていられる今が一番心地よかった。他には何も考えたくない。
 満たされた気分のまま、スルリと言葉が零れていく。
「夜人は家族が欲しかったんだ」
 熱は冷めない。繋がれた手を頬へと引き寄せるようにし、白亜は瞳を閉じた。溜まっていた涙が頬を流れる。
「……そうかもしれない」
 垣間見えた夜人の表情はどこか虚ろで、遠くを見るような瞳をしていた。どこかへと行ってしまいそうな気がする。白亜は不安に駆られて抱き締める。唇を噛み締めるようにして顔を埋める。
「私が家族になってあげる。これからもずっと側にいる」
 夜人の視線が白亜に落ちる。
 その気配を感じながら白亜は紡いだ。きっと、叶わない夢を。
「夜人が最初にしてくれた約束を、守ってあげる。沢山の子どもに囲まれて一緒にいよう。苦しいことも哀しいことも、これからは私が半分受ける。幸せになろうよ、皆で」
 夜人が最初にしてくれた約束――それはもう、近くて遠い過去。そして、きっとこれからも紡がれていく果てない未来。
 だから組織のことなど忘れて、行こう。このまま二人で逃げてしまおう。
 白亜は夜人に顔を埋めながら、呟くように願いを零した。
 普通に育っていれば、普通の幸せが訪れたのだろうか。
 外の世界を見ることが出来たのはわずかな子ども時代だったけれど。今の世界でその幸せを望むのは遠いことなのだろうか。
 馳せれば直ぐに実現出来そうな未来。けれどそれは果てなく遠い。
 瞬きをすると再び頬を涙が伝った。
 先ほどから体が重くて頭が痛い。夜人に縋りつくことだけが精一杯で、力がまるで入らない。
「誰を手にする必要もなくなるよ」
 声が震えて奥歯を噛み締める。
 夜人からは何の応えも返ってこない。この言葉をどう聴いているのか、その表情を見上げるのが怖かった。
 ――夜人と家族になって、沢山の子どもたちに囲まれて。たまには遠くに出掛けて、子供たちと一緒に遊ぶんだ。おままごとをしたり、花輪を作ったりして。私は夜人が子供たちと元気良く遊びまわっているのを笑いながら見ている。お父さんとお母さんになって、沢山守って、沢山抱きしめて。
「出来るよ、きっと」
 何も言わない夜人の頬を両手で挟んで、そう告げる。
 夜人は何も言わないまま白亜を引き寄せ、抱きしめた。


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 どれぐらいの時が流れただろうか。
 途中、疲れのせいもあって微睡んだ時もあったようだ。眠っている間もずっと夜人の体温を側に感じていた。今までとは比べ物にならないほど幸せな気がした。
「夜人はこれからどうするの?」
 立ち上がった夜人に合わせ、白亜も壁伝いに立ち上がった。
 消えていたランプに夜人が火を灯すと、室内には温かな光の影が揺れ出した。
「戻らないといけない」
「……全部終わったって、言ったよね。麻奈と一緒にいた奴が最後の生き残りだって」
 満たされていた胸中に暗い絶望が染み出してきて、白亜は不安になるまま夜人の袖をつかんだ。髪を梳くように撫でられて、その優しさに瞳を細める。
「終わったから、次は始まる」
「何、が?」
「ようやく、俺たちの明日が」
 今聞く言葉としては突拍子もなくて、白亜は瞳を見開かせたまま夜人を見つめた。
 何かに踏ん切りをつけたように優しい笑みを見せる夜人が不思議だった。
 夜人の側にいれば、絶望も哀しみも思い出す必要はないのだと思えてしまう。夜人の側にいることが、私にとっての僥倖であり福音なのかと、酷く穏やかな気持ちになれた。
 何があってもこれからは一緒にいよう、と泣きたい気分で噛み締める。
「白亜」
「……うん」
 耳を澄ませると、害音が聞こえてくるような気がした。
 炎に呑まれただろう外を思い出すと、胸元の宝石が熱を帯びる。
「お前は戻るな」
 一瞬、その言葉が理解出来なかった。
「もう次の幕は開いている。蓮夜も梨香も、枷は解かれて――俺と一緒にいたら、お前は確実に殺されるだろうから」
「何、言ってるの?」
 戻るのなら一緒だと、そう思っていたのに。
 夜人の瞳は真剣で、言い含めるように顔を近づけて来た。
「今までが前哨戦だったんだ。ソフィアの中で、ソフィアの願いが叶うまでは結束して仲間でいる。俺たちの目は一緒の場所を見ることが出来ていた。けど、もう、叶ってしまったから。次は俺たちの願いを叶える番なんだ」
「それがどうして殺されることになるのっ?」
「――俺がいた養護施設は、俺を残して全壊され目の前で燃やされたと……聞いていたか?」
 白亜は小さく頷いた。
 夜人から聞いたのではなかった気がする。あれは誰だっただろう。教会に火を放った時に現れた管理人だったろうか。監視だと言い切って笑った、あの女性。
「ソフィアの目的は、虐げられて捨てられた者たちで構成された世界を造ることだった。それが、ソフィアのトップに立った者たちの願い」
「だから、それはもう終わったって……」
「一つの願いが成就したから、トップはもう引き摺り下ろされた。構成されたこの世界で、次の願いを継ぐ者が次を新たに作る。そのために必要なのは力を示すことだった」
「……夜人が次のトップなんでしょう? そう、聞いていた」
「ソフィアの願いが叶わなかったら俺がそれを引き継ぐ。そういう役割を、俺は与えられていた。だがソフィアは、俺に受け継がれる前に願いを叶えた。今頃はきっと新たな願いを選び叶えるために――そうだな、こういう状態を群雄割拠って言うのかな」
 白亜から視線を逸らせた夜人は、ランプの炎を見つめて微かに笑う。どこか皮肉で寂しげな瞳であった。
 父代わりだという者のことを話す時だけ、夜人はこんな瞳をする。滅多にしない話題だが、覚えている。
 白亜は、先ほどまで満たされていた胸中がポッカリと空洞になったような感覚に陥りながら夜人を見つめた。
「……梨香って、誰のこと?」
「覚えているだろう。麻奈が育った養護施設の、管理人だ」
 白亜の脳裏には漆黒の女性が浮かび上がった。
 けれど心には何も浮かばない。どうでもいいことだ。夜人以外は興味ない。夜人の両頬を挟んで視線を合わせる。辛そうに細められた彼の瞳は潤んでいて、白亜は言葉を忘れてそれを見つめた。
「そうやって、血の争いを繰り広げて、トップに立って、願いを叫んで――育てられた者たちが兵隊になって、叶えるの?」
 夜人の瞳が閉ざされる。
「俺の中には何もない。紅葉を護ることで精一杯で、他の奴らを従わせる暇なんてなかった。だから白亜、俺はお前を護るから。戻らず、このまま逃げるんだ」
 両手をつかまれて真摯な瞳で覗き込まれた。
 白亜はつかまれた両手に視線を落とし、そっと逸らした。
「……お母さん」
 零れた声に、夜人の手が震えた気がした。
「ソフィアって言うのが組織のことで、組織の願いが、自分たちを捨てて暮らす者たちを排除した世界を造ることで、それが今、叶ったって言うなら――」
 鼻の奥が痛みを訴え、瞬きをすると涙が零れた。覗き込んでいた夜人の瞳が悲痛な色を宿して細められる。
 紅葉であった頃、夜人が処刑されると聞かされた蓮夜の言葉を思い出した。
 ――処刑が決定した。
 なぜ? 夜人が紅葉の両親を見つけ出したから。
 けれど――
「叶ったって言うなら、私のお母さんは、どこにいるの――?」
 嘘だ。
 全部、蓮夜がついた嘘。
 夜人は紅葉の両親を見つけてなんていなかった。
 蓮夜は紅葉を操り夜人を殺させた。
「それなら私はどこにも行く場所なんてない。ずっと生きてた箱庭が私の世界の全てだ。他には夜人しか知らない。知らない世界でなんて、生きていたくないよ」
 夜人の胸に額を押し当てて縋りついた。

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