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第九章

 【四】

 見失ってしまわないように、夜人の手をしっかりと握り締める。たとえ振り解かれようとしても、絶対に放さないと決意しての手繋ぎだったのだが、夜人からも握り返してくれて嬉しかった。
 向けられた笑顔に動悸が早くなる。心が舞い上がって、足が地面に着いていないような気分にさせられる。
「――紅葉を連れ出すのか?」
 問われた言葉を胸中で反芻し、白亜は静かに頷きを返した。
 夜人は小さく「そうか」と呟いただけで、他には口にしない。何を考えているのか読み取らせない真剣な表情で、真摯な視線は外へと向けられる。
 何も言わずに白亜の手を引いた。
 廊下への扉を開けて階段を下り、玄関の扉を開けて外へ。
 そして――繋いだ手が緊張したと思った瞬間、夜人は撃たれた。
「や、と?」
 手を繋いだまま、白亜は瞳を瞠ってそれを見る。
 目の前で散った鮮やかな赤が、断続的な銃声に震動して細かな飛沫となる。
 そのまま倒れていくに思えた夜人であるが、彼は白亜の目の前で力を入れ直すと足を踏ん張り、狙いをギリギリで避けたが新たな傷が頬に生まれた。
 繋がれた手を解かれて、白亜は力なく両手を下ろした。
 ――私が、撃ったの?
 一瞬の混乱が過ぎた後、夜人を視界に入れたままそう思った。けれど。
「蓮夜……!」
 ギリギリ絞ったような夜人の声に、体を強張らせた。
 何発か撃ち込まれ、震えるようにして立つ夜人が向ける視線。
 それまで白亜が見たこともないような険しい形相と憎悪を宿した瞳で、夜人は真っ直ぐに道路の向こう側へと視線を向けていた。
 思考回路を麻痺させたまま、白亜もつられるようにそちらを見やる。
 ゆっくりと視界に映り込むのは、長い髪を背中で束ねて一つにしている蓮夜の姿。相変わらずの鉄面皮で、彼が今何を思っているのか読み取れない。
 ただ、夜人に向けた銃から上がる硝煙は本物だった。
「偶然だな、夜人。まさかお前がまだこんな所をうろついていたとは嬉しいよ。心置きなく決着がつけられる」
 嘲笑も露な蓮夜の声音。微かに笑みを湛えた表情は胸を貫くほど冷たく衝撃的で、白亜は全身が凍る思いに陥った。腰が抜けたかのように座り込むと蓮夜の視線が向けられる。細められ、赤い瞳が白亜を捉える。
「やはり夜人と共にいたか、白亜。だが、そろそろ我が傘下に戻ってもらわねばな」
 抑揚のつかない淡々とした声音は、白亜の平常心を奪うに充分な威力を持っていた。けれど白亜は正気を保つように拳を握り締め、奥歯を噛み締めて蓮夜を睨みつける。
 蓮夜は一笑に付すと夜人へと視線を戻す。
「俺はほとんどの者を傘下へ招いたぞ、夜人。もうお前の負けは必至なんじゃないのか?」
「ざけろよ。武力を蓄えることだけが力じゃねぇぞ……」
「そうか」
 負け惜しみと取ったのだろうか。
 蓮夜は馬鹿にしたように笑い、既に装填を済ませていた銃を持ち上げた。
「けれどお前は武力に負ける。圧倒的な人数の前にも」
 蓮夜の銃弾を、夜人は素早く避けた。明らかに出血多量でふらついてはいたが、これを逃したら後はもう死しか残っていないのだと理解しているのか。
 白亜のことなど忘れたように緊張をみなぎらせる夜人を、白亜は呆然としながら見上げていた。
 全身から力が抜けてしまって反応できず、目の前で繰り広げられる光景を、ただ瞳に映していた。
 蓮夜の間合いへと飛び込み、喉笛を掻ききろうとする夜人と。彼から逃れられないと悟ったのか、銃口を白亜に向ける蓮夜と。そして、夜人が訝しく眉を寄せて、弾かれるように白亜を振り返る様も。
 引き金に掛けられた蓮夜の指が動くのと同時に――白亜の目の前に、夜人が飛び出した。痛みは相当な物であるだろうに、それを微塵も感じさせない素早い動き。
 白亜は何か言おうとして口を開き、その吐息が洩れる前に、銃撃音が響いて直ぐに言葉は失われてしまった。
 目の前が真っ赤に沈んで音が聞こえなくなった。
 白亜に向かって何かを叫んだかに思えた夜人は、直ぐにその瞳から力を失って倒れた。白亜に駆け寄ろうとしていた彼は、慣性によって白亜へと倒れ込む。
 何が起きたのか分からない。白亜はその体を抱きとめたまま、一切の静寂の中で呆然と視線を落とした。
 手の平に感じた温かな血を見つめる。
 ――メビウスは壊れたのだろうか。
 夜人の血を見つめながら、ただ思う。
「――いつまで呆けているつもりだ。さっさと来い」
 夜人が倒れてから何分が経ったのか。数秒のようにも、何時間のようにも感じられて。
 まるで、白亜がついてくることを当然だと言わんばかりの口調に顔を上げた。声を掛けたのは間違いなく蓮夜で、先ほど白亜に向けていた銃を下ろして佇んでいる。
 赤い瞳が恐ろしかった。
「蓮夜と一緒には行かない」
 スルリと言葉が零れ出す。平坦な声で、無表情で蓮夜を見上げる。
 夜人を庇うように抱きしめて告げると、蓮夜の顔が不機嫌に歪む。
「夜人はもうじき死ぬ。お前は元々俺の物だ」
 琴線に触れる言葉に白亜は眦を強くした。
「夜人は死なないし、私は物じゃない!」
 夜人を抱く腕に力を込めて、そう叫ぶ。強い憤りを感じるままに言葉を吐き出す。
「屋上で吐き出した言葉は忘れてしまったの? あれから蓮夜は何をしたの。自分の願いも口に出来ない矜持に何の意味があるの!」
 すべてが挑発の言葉だった。
 表情を変えた蓮夜は銃を構えたが、引き金が引かれることはない。白亜は涙に滲んだ視界の中でそれを真っ直ぐに見つめた。
「結局貴方は――」
「俺と、共に来い、白亜」
「行かない」
 滴った涙はそのままに、唇を微かに震わせて紡いだ。
「だって、蓮夜は白亜しか見ないじゃない」
 胸の内ではこんなにも炎のような激情が荒れ狂っているのに、出される声は静かですらある。眉を寄せた蓮夜を見つめて、白亜はぐしゃりと顔を歪めた。
「夜人に対する当て付けだけですべてを見ようとしないなら、紅葉が可哀想だものっ。弱虫!」
 蓮夜の視線が微かに揺れた。
 戸惑うように白亜を見つめ、どうしたら良いのか分からないように動けない。
「……夜人」
 白亜は視線を落として呟いた。
 夜人の意識は戻っていないのか、彼は瞳を閉ざしたままだ。血溜まりの中で彼を抱えなおし、白亜は自分の服の下から宝石を取り出した。
 鎖に繋がれたそれは、紅蓮を映して一瞬きらめいたように思える。白亜は微かに笑って夜人の首に掛けなおす。
 宝石から指が離れる一瞬、別れを惜しむような熱が伝わってきた気がした。
「撃たないの、蓮夜」
 顔を上げて蓮夜を見た。
 先ほどと同じ位置で微動だにせず、ただ銃口を向け続ける蓮夜。彼の他に人はいないのだろうか。
「白亜」
 顔をしかめて蓮夜が呼ぶ。
「白亜」
 辛そうに、顔を歪めて。
 それを目にしたまま、白亜は静かに瞳を閉じた。彼の弱さを促すように。
 夜人を膝に乗せたまま、遠くで上がる炎の轟音に耳を傾けて――白亜は突き飛ばされた。
「……っ!?」
 転がった先は、先程出てきたばかりの建物の中。
 暗い玄関の中へと突き飛ばされて目の前で扉が閉められていく。
「――夜人?」
 見上げた先には夜人がいて、真剣な横顔がある。玄関内へと転がされた白亜の位置からは見えなかったが、彼が睨むのは蓮夜だけだ。
「あいつが自由になるために、俺はここで死ねないんでね」
 挑戦的な言葉が蓮夜に向けられていた。彼の胸元では微かに宝石が光を帯びている。
 もしかして、伽羅が助けてくれたのだろうか。
 白亜は転がされた玄関の中で、夜人の姿を見上げてそう思った。
「左京と合流しろ」
 扉が閉まる一瞬、そんな声が聞こえた気がした。
 満身創痍となった夜人の姿は扉の向こう側。扉が閉められた瞬間、白亜の視界から光が失われた。
「夜人?」
 扉はぴったりと閉じられている。どういう訳か、開かない。
 包まれた闇が自身を覆い包み閉じ込めるようで、見えない恐怖に白亜は混乱した。
「夜人!」
 半狂乱で扉を叩いたが開かなかった。向こう側からの音も一切が聞こえてこない。
 闇の中でつかんだ物を手当り次第に投げつけたが、それでも開かない。
 以前見たメビウスの輪が、闇である目の前に見えた気がした。
「―――っっ!」
 限りない恐怖、絶望。
 喉を競り上がり、膨れ、自分という存在が掻き消されるよう。
 白亜は力いっぱい扉に拳を叩きつけて、叫んだ。
「夜人――……っっ!」
 痛んだ拳に血が滲む。
 扉が開くことは決してなかった。

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