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第九章

 【五】

「夜人、夜人!」
 拳の痛みなどどうでもいい。手が壊れても構わない。
 扉には血が付着し、叫びは嗄れて耳障りなものへと変化する。何度も咳き込んだ。
 長い時間をかけて何度呼びかけたのか。
 白亜は「はぁ」と息をつくと、拳を扉に当ててもたれかかった。
 何も聞こえない、真の静寂。夜人と蓮夜がどうなったのか何も分からない。
「どうして……?」
 あのような重傷を負いながら、それでも白亜を安全な場所へと隔離して。彼は死ぬつもりなのだろうか。
 そう思って白亜は身震いした。
 彼を生かすためだけに自分はこれまで生きてきたのだ。諦めてしまったら『白亜』が無駄になる。
「させるもんですかっ」
 絶望に暮れている暇はない。
 白亜は再度力を込めて立ち上がり、慣れてきた暗闇に目を凝らす。窓もなく照明器具もない。闇に浮かぶほんのわずかな輪郭を探り、上り階段の隣に深い闇を見つけた。床が抜けているかのように濃い闇を宿すそこへ近づくと、それは地下へと続くらしい階段である。
 上へ戻っても窓はないような気がして、白亜は唇を噛み締める。目の前に開けた暗闇を凝視しながら、武器くらいはあるかもしれない、と足を伸ばした。疲労が溜まりすぎて足が震えてしまう。
 風も流れない場所は時さえ止まっているようで落ち着かない。
 外には夜人と蓮夜がいるはずなのに、まるで自分一人だけ時間の流れに取り残されたかのようである。
 埃に塗れた手すりを頼りにし、ざらつくような足元に滑らないよう慎重になりながら階段を下りる。
 階段は木造なのか、一段下りるごとに軋みを上げる。
 ふと、白亜は眉を寄せた。
「何……?」
 地上と違ってわずかに温度が違う。壁に手をつくと痛いほど冷え切っているのが分かる。そして白亜は、その中で何かの腐臭を嗅ぎ取った。
 甘いような、吐き気を催すような、何とも言えない腐臭。
 それが何か。無意識に知っていた白亜は、階段を下り切った所で足を止めた。壁に手を伸ばして探ってみるとスイッチが手に当たる。
 手が震えているのは寒さか恐怖か。
 吐き出す白い息が目に見えるようだった。
 悲鳴を出さぬよう、白亜は奥歯をしっかりと噛み締めてスイッチを入れる。酷く耳障りな音を立てて照明が付けられる。バチリと何かが弾ける音がし、照明が一瞬消えたが直ぐに深い影を落とした。
 白亜の目の前にそれはある。
 死んでから何日経ったのか分からない。肉はグズグズに溶けて石畳に広がり、窪んだ眼窩が虚ろに白亜を見つめている。白骨化した場所には数箇所穴がありひび割れていた。銃傷によるものだろうか。
 足から力が抜けるのが分かり、白亜は階段に座り込んだ。
 男か女かの区別もつかないほど朽ち果て、埋葬もされず、誰の目にも触れず。漂う甘い腐臭に意識が遠のきそうだった。
 頭からずり落ちた皮膚は酷く醜い。
 白亜は一瞬息を止め、瞳を固く閉じて静かな呼吸を繰り返す。
 大丈夫、この人はもう死んでいる。この場所に生きている人はいないから、怖くはない。
 そう言い聞かせるようにして瞳を開いた。死体から敢えて視線を逸らし、周囲を窺う。照明は徐々に光度を落としていた。程なく消えてしまうかもしれない心もとなさだ。そうなる前に何か見つけなければと、大きな木箱が乱雑に置かれている部屋を横切った。
 どれほどの広さがあるのだろう。
 木箱があるため壁伝いに歩くことが出来ず、顔をしかめながら天井を確かめた。かなり広い地下室のようだ。確認できるだけで三つほど照明がついていた。奥へと進んだ白亜は顔を強張らせる。
 部屋とは別に、細い通路。建物の間取りを考えると、通路はこの建物から別の場所へと続いているようだ。覗き込んでみたが、そこは闇を内包しているだけで明かりが見当たらない。どこまで続いているかも分からなかった。
「外から……回りこんで、どこか、出られれば」
 呟きも闇へと吸い込まれていく。地下室を見た限りでは、扉を壊せそうな武器となる物も見当たらない。この場で武器が見つかれば最高なのだろうが、そうもいかないなら次の手を打たなければ。ひとまずまだ、道は続いているのだから。
 白亜は通路の闇を見つめ、決意を固めるように喉を鳴らせて足を踏み出した。
 背後で、部屋の照明が完全に落ちた。


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 闇の中を手探りで進みながら、白亜は言われた意味を考えていた。
『左京と合流しろ』
 扉を閉める前、夜人は確かにそう言っていた気がする。
 左京とは誰だろう。そしてどこで合流すればいいのだろう。
 冷え切った手を温めるように摩擦し、息を吹きかける。一度でも壁から手を離してしまうと自分の居場所が分からなくなるようで恐ろしかった。先ほどから『痛み』の波がジワジワと体を浸食している。ゆっくりとだが確実に。痛みが完全に体を支配する前に、夜人のもとへ行かなくてはいかない。
 再び壁に手をつけて歩みを進める。どこまで行けばいいのか、明かりのない今は見当もつかずに心細かった。
 鼓舞するために、楽しかった箱庭での日々を思い出し、麻奈を思い出す。涙が滲むが悲しみには囚われない。怒りの方が強いことが不思議に思えた。
「……あ」
 そして、思い出す。
 麻奈が泣いていたことを。左京が里親に貰われていくのだと言い、子どもたち全体が沈んでいたことを。
 夜人が言ったのはその子どものことだろうか。思い出そうとすると輪郭が滲み、どんな顔で笑っていたのか思い出せない。なぜ今更その名前が出てくるのか、考えても仕方がないような気がした。
 冷たい壁に当てた手を固く握り締める。闇の中、通路はどこまで続くのか。
 いくつかの分岐点を勘で抜け、広い部屋に出たときは地上に続く道がないのかと探して。
 ――組織の通路。
 そんなことを考えていた。
 地下に広がる訓練場や、他の場所へ高速移動できる乗り物や。箱庭から見えていた組織は氷山の一角で、地下にこそ組織の本当の姿がある。縦横無尽に張り巡らされた地下通路。だから、組織の周囲一帯は廃墟となり無人となっているのだろうか。
 ヒヤリと冷たいものが背中を撫でた気がした。
 底知れぬ不安が湧き上がってくるようで、悲鳴を上げてしゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られる。夜人に伽羅の宝石を渡してからというもの、痛みが徐々に広がってときおり息が止まる。早く行かなければいけないのに、まるで道を見失って放り投げられた気分だった。
 はぁ、と息を吐き出して周囲を確認しようとした白亜は息を呑んだ。
 通路の向こう側の闇に、何かが過ぎった気がした。全身を硬直させてその場に佇む。
 ――闇を過ぎったものが、白亜に気付いたように戻ってきた。
 クスリと笑う、女の声。
「組織の……」
「こんな所に誰かしらと思ったけれど――貴方だったの、白亜」
 バチリと音がした瞬間、周囲の明かりがつけられた。
 眩しさに目がくらみ、腕を翳して影を作る。それでも目を開けていられなくて相手の姿を捉えることが出来ない。けれど声だけで、予想は出来た。その人物が脳裏で像を結ぶ。
「蓮夜が追っていたと思ったけど、すれ違いかしらね」
 何かの音がした。銃を向けられたのだろうか。
 赤い唇の色が、鮮やかに蘇ってくるようだ。漆黒のいでたちで長い髪を一つにまとめ上げ、あくまで女らしさを失わない柔らかな動作で惹きつける、養護施設の管理人。夜人から聞いていた名前は確か、梨香と言ったはずだ。
 通路だと思っていた現在地は石造りの部屋のようだった。いつの間にか通路を抜け出て小部屋に入っていたらしい。
 目が慣れてきた白亜はそう把握し、次いで鋭い銃声と共に目の前が真っ赤に染まった気がした。
 撃たれた拍子に背中を壁にぶつけ、佇む女性を見上げる。
「悪運もここまでね、白亜。宣言通り、貴方を殺してあげる」
「蓮夜が次の跡継ぎになるって――決まったってこと?」
「跡継ぎ?」
 引き金を引きかけていた指を止め、嘲る。
「ソフィアは跡継ぎなんて望んでいないわ」
 一言一言をしっかりと刻み付けるように、真っ赤な唇はゆっくりと言葉を滑らせ。下ろされた銃は床へ向けられる。
「ソフィアは続かない。続くのは人の思惑だけ。巡っていくのは私たちの――存在意義たる知恵」
 何を言っているのか分からない。それは自分に学がないからという理由からなのか。それとも別の理由があるのだろうか。。
 白亜は混濁していく意識を感じながら女性を見つめた。白黒の世界の中、彼女の唇だけが赤く浮かび上がる。
 何も分からない――それでも一つだけ、感じる。
「――狂ってるわ」
「その狂いが真実となり世界となったの」
 満足げな笑みが刻まれ、瞳が細められる。撃たれた肩は幸いにも弾が掠っただけで済んだようだ。痛みを感じるが気を失うほどの激痛ではない。
「ソフィアが与える公平な世界。私たちの手が作り出した、唯一の望み。それが叶ったの……私たちは勝ったのよ白亜、貴方は負けたのだわ。白亜も、紅葉も」
 誇らしげに胸を張り、その瞳に歓喜を乗せて。更に熱い笑い声が響いて溶ける。
「私たちを捨てた者はいなくなった。生き残ったのは私たちの同志だけ。これで、貴方を殺せば全ては完成する。これからは私たちの手を、想いを、邪魔する者はいなくなるの……!」
「――狂ってる」
 何が彼女をそれほど熱くさせるのか。それは他の大勢の命を奪ってまでやり遂げなければいけなかったことなのか。
 白亜は分からないまま見つめた。
「言ったでしょう――白亜。狂いが真実となり世界となったの――貴方が感じた狂いは、この世界では正当化されることなのよ。お別れね、白亜」
『親を持つお前には分からない事かもしれないな』
 夜人の言葉が脳裏に蘇り、白亜は瞳を見開かせる。
 梨香が構えた銃口の闇は、真っ直ぐに白亜へと向けられた。

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