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第九章

 【六】

 痛みの波が全身を覆い尽くすようだった。
 伽羅から奪い取った宝石が手元を離れてから久しい。やはりあの宝石が私をこの場所に留める楔のような物であったのかと、漠然と理解した。それでも後悔はしていない。あの宝石を夜人に託していなければ、今頃夜人は冷たくなっていただろうから。
 白亜は梨香の指が引き金を引いていくのに合わせて瞳を閉じようとした。
 痛みが全身を覆ってしまったのだから、今更新たな痛みが増えてもそれほどではないのかもしれない。そんなことを思いながら。
 静かに次の瞬間を待っていた時だ。
「紅葉姉!」
 静寂を破った声は幼いもの。それは驚かせる物を充分に含んで響き渡った。
「梨香!」
 再度、声が響く。最初に生まれた声とは少々声色を変えて、諌めるような声。
 梨香と呼ばれた養護施設の管理人も、白亜も。同時にそちらを振り返った。
 視線の先では幼い少年が険しい表情で銃を構えている。それが左京だと、白亜が気付いた時、彼は梨香に向けて銃を撃っていた。
 ようやく光を捉えることが出来ていた白亜の視界に、新たな炎が生まれた。
 今しも命を消されそうだった白亜は、再び九死に一生を得たのだと理解した。目の前で半身を翻して避けた梨香へと飛びかかった。
「白亜……!」
 体当たりされて苛立つ梨香の舌打ち。
 体当たりした白亜は体中の悲鳴に顔をしかめたが、構っている余裕はない。痛みが和らぐのを待つ暇もなく梨香と二人で床に転がった。続けて撃とうとしていた左京が迷ったように銃口をさまよわせる。
「紅葉姉、どいて!」
「どこまでも邪魔の入る娘だこと……っ」
 左京の声は梨香に潰された。
 白亜は何も武器を帯びていないことに舌打ちした。つかみかかって左京を護る事が精一杯だ。
 いつまでも梨香から離れようとしない白亜に左京は焦る。白亜は顔をしかめて振り絞るように叫んだ。
「私は白亜よ……っ!」
 ドン、と空気を震わせるように低い音が響く。白亜の視界が再び赤く染まる。
 撃ったのは梨香。撃たれたのは白亜。
 脇腹を撃たれた白亜は、痛みよりも熱さに脂汗を滲ませた。
「小賢しい……っ」
 痛烈な熱に力が緩んだ白亜を、梨香は凄まじい勢いで振り解く。
 いけない、と白亜は脳裏に警鐘を鳴らせたけれどどうすることも出来ない。床に崩れた白亜の瞳に小さな閃光が走った。
 こちらに駆け寄ろうとしていた左京は気付いたようにその場から飛び退き、梨香の銃弾から逃れる。けれど梨香は分かっていたようにそちらへ銃口を先回りして向け、再び撃った。一撃目が避けられることは計算済みだったのだろう。
 二撃目に左京は大きな双眸を一杯に瞠らせた。その瞳には直ぐに恐怖が宿った。白亜は倒れたままでそれを瞳に焼き付けた。
「これで夜人の戦力も潰えるわ……!」
 勝ち誇った梨香の言葉を呆然と聞いている。
 左京の足に二撃目が撃ち込まれ、直ぐに三撃目が放たれる。来る、と理解はしていても、機動力を失った左京は逃げられない。放たれた凶弾は嘲るように左京の腹部を貫き、白亜は弾けた光の中で梨香の姿を鮮明に刻み込む。
 恐怖を払拭させる、怒りと共に。
「左京……!」
 致命傷ではあるが、即死には至らなかった銃傷で左京は床に倒れた。
 特殊に誂えてあるのか、梨香の靴は音を出さない。視界を横切る彼女の足に、白亜は視線を上げる。見上げた横顔は、優越者が持つ余裕の笑みを湛えていた。
「姉……」
 左京の声は小さく震えていた。
 小さな体を更に小さく縮めて、苦渋の表情を浮かべてはいたものの、瞳だけは戦意を失わないように梨香を睨んでいた。
 梨香は冷笑する。
 溢れる血は左京を中心として呪いのように広がっていく。
「惜しかったわね。師である私が褒めてあげる」
 カラカラカラと、空薬莢を無造作に床に落として梨香は新たな弾を装填する。
「紅葉の名を出せば私が動揺すると思った? 子どもの浅知恵。そうでもしなければ私に勝てないと踏んだのは認めてあげるけれどね」
 左京の拳が握り締められるのが分かった。
 真っ赤な血の海に沈み、それだけが真っ白く色を失う。
 白亜は撃たれた脇腹を押さえて立ち上がる。
 不思議に思うのだ。
 撃たれた瞬間は痛みと熱さに朦朧とし、死の淵を手繰り寄せようとしていたのに。
 流れ出した血は直ぐに消えた。まるで、初めからそんな物はなかったのだというように、欠片も気配を残さずに。
 ――私も還るのだろうか。
 脇腹の痛みとは反比例するように痛み出した胸を荒い呼吸で宥め、白亜は梨香に走った。
「さようなら」
「させない!」
 左京へと視線を注いでいた梨香の微笑みが白亜に向けられた。
 驚かれもしないその表情に白亜は虚を突かれ、とっさの彼女の行動に反応し切れなかった。
 目の前で消えたように姿を揺らし、直ぐ真横へと跳んだ梨香は蹴りを放つ。腕で防御した白亜だが、とっさだったため踏み留まれずに足が床から離れた。左京から離れた場所へと蹴り飛ばされる。
 その間、既に頭を垂れて動くことさえ困難になっていた左京へと、梨香は銃口を向けて撃ち出した。
 新たな血が床を濡らした。
「左京!」
 叫びはもう届かない。あまりに無力で涙も出ない。
 愉悦という狂気の笑みを湛えたまま、梨香は銃を下ろす。白亜は無言でそれを見上げる。
「……どうして?」
 漏れ出た声は酷く無感動で抑揚なく、幼く響いた。
 白亜は復讐や慟哭に心を囚われかけながら問いかける。梨香は湛えたままの笑みを更に大きく歪ませ笑い声を上げる。可笑しくて仕方がないように瞳を歪ませて笑う。口元へ当てる手に銃があっても、その姿は女性らしさを感じさせた。
「どうしてこんなこと……」
「自分自身のために」
 言いざま、梨香の銃口が白亜へと向けられる。その指が引き金を引ききる前に、白亜は弾道から素早く動いた。脇腹が引き攣れるように痛んだけれどそれだけだ。一瞬ごとにその痛みも消えていくのが感じられる。
 こんな所で殺される訳にはいかない。
 梨香の言葉は難しくて、哀しくて、真実なのかもしれなくても。それでも肯定して死ぬ訳にはいかなかった。
「見事ね。誰に習ったのかしら?」
 優位を確信しているのだろう。梨香に焦りはない。避けられても驚かれない。むしろ楽しそうに白亜を追い詰める。背中を向けずに逃げ続けた白亜の肩に壁がぶつかった。
「反射神経も動体視力も申し分ない」
 梨香が持つのはリヴォルバー形式の単発銃。壁に退路を阻まれて睨み上げる白亜を、梨香は見下しながら追い詰める。シリンダーが回る音がやけに大きく響いて消えていく。
 頭から爪先までを黒に包む梨香は、視線を逸らさず白亜に詰め寄る。
「もちろん、ただの小娘だったら今まで生き残れているはずないけれどもね」
 鈍い金属音と共に空薬莢が床に叩き落される。
「生に執着する目障りな存在」
 装填時間を利用して白亜は走ったが、迷路のように入り組んでいる地下通路では勝負が見えているような気がした。
 緊張に荒い息が木霊する。
「それも今で終わり。夜人はソフィアに戻っているし、蓮夜もそれを追いかけていく」
 そう告げる梨香は、夜人と蓮夜が直ぐ近くにいることを知らないのか。
 楽しげに、鼠を追い詰めた猫のように白亜をいたぶる。
 何かの荷物の影へと回りこんだ白亜は呼吸を整えながら梨香の気配を聞く。鈍く響く、死へのカウントダウンのような鼓動の音。
「ソフィア……って、何?」
 近づいていた梨香の気配が近くで止まった。
 艶やかな唇に笑みが刻まれていく様子が、目に見える気がした。
「切り捨てられた、哀れな神の情念よ」
 梨香がリヴォルバーしか持っていない唯一の救いは、連射が利かないことだろうか。無理をすれば出来ないこともないが、それでも命中精度は落ちて焦りが生まれる。
 気休めにしかならない程度の弱点ではあるが、微かな腕の震えや装填までの時間が白亜の命を救っていた。
 腕に足に、致命傷には至らない傷を作りながらそれでも生きている。
「どうしてこんなことするの。望みが叶ったならそれでいいじゃない」
「創生した男の望みは確かに叶ったわ。所属する者たちの望みも叶った。けれど、私個人の望みはまだ叶っていないのよ」
 走り出た白亜の右肩に激痛が走った。
 視界に朱が走り、肩を押さえて崩れ落ちる。
 完全に膝をつく前に白亜は奥歯を食いしばり、何とか床を蹴って梨香へと転がる。刹那遅れて白亜がいた壁を銃弾が抉り取った。
「人は一つが叶うと欲張るものよ――そして私には全てを叶える力がある」
 自分の足元に転がってきた白亜に、梨香は素早く銃口を向けた。
『何かを為すには力が必要じゃ。そしてやり通す意志が。大きな土台が必要なのじゃ』
 伽羅の言葉が白亜の脳裏を強く掠めた。胸にあった小さな塊がカッと熱を宿した。
「私にだって譲れないものがあるもの!」
 傷ついた腕にグンと力を込めて体を起こし、精一杯の力を込めて梨香の手を叩き払う。
 銃口は白亜から外れ、放たれた銃弾は全く違う床を抉る。
「最後に生き残るのはね梨香。生きる意志が強い者なんだって!」
 発砲直前の銃を直接叩き払われるとは思っていなかったのか、梨香は暴発を恐れて顔を背けていた。
 虚を突かれたように瞠目した梨香から、白亜は無理矢理にその銃を奪い取る。
 弾かれるように梨香はその場を飛び退き、白亜と梨香に距離が生じた。
 白亜はためらわずに引き金を引く――けれど、弾はなかった。空回りする軽い音が耳を打つ。
「馬鹿ね。私が易々と武器を渡すと思って!?」
 撃ち切っていたからこそ奪わせたのだと――笑いながらナイフを手にした梨香に、白亜は奥歯を噛み締めながら睨みつけた。
 梨香が後退したのは間合いを計り、体勢を立て直すため――直ぐに梨香は刃を翳した。
 ――何度も夜人とやった、喧嘩だ。
 薄暗い地下室の蛍光灯。その光が、翳された小さなナイフに映り込んでいた。
 息をつかせる暇もない攻撃に白亜は双眸を瞠らせたまま、その光を瞳に映して夜人の言葉を思い出していた。
 手の平で包み込めてしまう位に小さなナイフだ。
 頼りないナイフだが、実戦ではそれが一番扱いやすいのだと夜人から教わった。
 いつもの喧嘩にはない、梨香の殺気だけれど。白亜は怖気づくことなく梨香を見つめた。
 ナイフは梨香の専門分野では無いのか、間合いが少しずれている。腕を振り上げ、長身を強調して覆い被さるようにナイフを白亜の首に埋め込むつもりなのだ――夜人より遅い。
 ナイフが頭上に到達する前に、白亜は床を蹴って彼女の懐へ入る。飛び退くよりそちらの方が危険が少ないと知っていた。
 彼女の腹へ肩から体当たりすると、先ほど撃たれた肩から脳天まで痛みが駆けた。
 気が遠くなって感覚が薄れていくのを感じる。
 白亜は目の前が暗闇に包まれた事を実感しながら手に力を込めた。力が抜けていく前に、最後の抵抗で。
 視界は利かずとも先ほどまで見えていたのだから感覚で分かる。体当たりした勢いそのまま押し倒す。
 二人で床に倒れこむと、梨香のうめく声が直ぐ近くで聞こえた。
 視界が闇に飲まれたまま白亜は腕に力を込める。渾身の力で銃床を梨香に叩き付けた。
 鈍い手ごたえが腕に伝わる。生暖かい物が顔を汚したと知る。白亜は梨香の柔らかな体の上から落ちた。しばらく待っても反撃は来ない。
 仰向けになり、視界はまだ闇に霞んだまま――瞳を固く閉じて、大きく息を吸い込んだ。
 左京のものか、梨香のものか、自分自身のものか……吸い込んだ空気はどこか、熱を孕んで温かかった。喉に絡みつくようで小さく喘ぐ。
「誰だって苦しんだよ、絶対」
 目尻から零れた涙の行方は、知らない。

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