前へ目次次へ

第十章

 【一】

 本当はもう諦めているのかもしれない。
 足掻こうと必死でいる自分の姿を、どこか遠くで客観的に見て満足してしまっているのかもしれない。
 これだけ頑張っているのだからもういいはずだ――そんなことを、心のどこかで。
 けれど、今の自分が偽りでしかなくても――諦めを宿そうとも――それでもきっと、その時が来たらどうしようもなく足掻くはずだから。
 まだ、本当に諦めてしまうには早すぎる。


 地上への階段はほとんどが封鎖されていた。
 早く夜人の傍へ行きたくて何とか通ろうとしたが、そうして抜け出た地上へは建物自体が崩れて先へ進めなかったり、扉が開かなくて戻ることを余儀なくされたり、見たくもない惨状が広がっていたりして。とても外へと出られなかった。
 夜人たちの場所から遠ざかる。
 焦れば焦るほど状況は深みへ陥る。
 梨香と左京をその場に置いて、暗闇を走り続けてきた白亜の足は休憩を渇望していたけれど。惰性のようにも白亜は走り続けた。
「組織――ソフィア……」
 瞳に入り込んでくるのは汗なのか血なのか。
 白亜は壁にもたれてようやく足を止めた。ズルズルと座り込みそうになるのだけは何とか止めて、荒く息を吐く。
 夜人たちの傍から遠ざかれば遠ざかるほど、胸の痛みは増していく。豆粒大の汗がびっしりと額を覆い、白亜の意識を虚ろにしていく。
 それまで漠然としていた痛みの波が、今度は限度なく押し寄せようとしている気がした。
 焦りが強く、不安になる。
 自分はこのまま死んでしまうのではないかと。
 そうなれば自分の知るメビウスは壊れる。望んだことでもあるが、このような終わりは納得出来ない。
「負けるもんか……っ」
 小さく強く吐き出して、白亜は前を睨みつける。足を大きく踏むことで笑う膝を黙らせる。
 一呼吸の間に、少しでも距離を大きく取らなければと足を大きく踏み出した。
 触れた壁から伝わる、体温を奪う冷たさ。少し手を滑らせると微かに崩れ、ざらついた感触を白亜に残した。痛みに囚われかけていた思考を戻し、闇に沈んだ壁を振り返る。
「内部……?」
 天井を見上げると見慣れた照明器具が視界に入る。組織で何度も目にした照明器具だ。
 地下道というものはどこも同じなのかもしれないが、進む奥に広がる風景を目にして白亜は確信した。
 歩を進めるごとにカツンカツンと音が響く。
 壁にかけられている燭台の明かりがほんのりと白亜を包み、清浄化された空気に肺が軽くなる。痛みが少々和らいだ気がした。
 木造の扉の前で、金属の取手をひねり、静かに押し開けて。
 その瞬間、体を包んだ賛美歌に白亜は固く瞳を閉じた。
 思い出が走馬灯の様に駆け巡って瞳が熱くなる。この空気はこんなにも優しいものだったのかと錯覚しそうになる。

 ――帰って来たのだ。

 縦横無尽に走る地下通路を、帰巣本能が働いたように必然かのように。
 そのとき浮かんだ想いを何と表現すれば良いものか。
 白亜は胸を熱くさせて顔を上げ、十字架に縛られた偉人を見つめる。彼の背後に飾られたステンドグラスからは仰々しい光が降り注いでいる。
 今はそれが柔らかくて眩しい。
 瞳を細めて感慨に浸る。
「――背徳の使途」
 奥から姿を現した牧師の声は、いつもより覇気がなく疲れて聞こえた。硬い音を響かせながら歩いてくる。いつも帽子の奥から覗く剣呑な光が今は全く見出せなかった。そうすると全体の雰囲気までも違うようで、白亜は違和感を抱きながら彼に少し近づいた。
 光降り注ぐ楽園。苦しみも悲しみもない、絶対守護者である神が支配する場所。
「貴方は誰の味方なの」
 背中を向ける牧神に問いかけた。
 彼は何も語らず振り返りもせず、ただステンドグラスを見上げ続ける。そして目深く被っていた帽子を取って、胸に当てる。
 現れたのは光に透けた淡い金色の髪だった。
 見たことのない色に白亜は息を呑む。
「珍しいか白亜。石持て追われ、泥水を啜ったのは俺ばかりではない。迫害を受ける時代は終わり、これからは誰が上に立とうと俺たちは生きていける」
「――ソフィア?」
 振り返った牧師の瞳が細められた。
 珍しい物を見るかのように、そこには微かであるが感情が窺えたような気がした。
「世界に伝わる神話の一つから取ったのだ。ソフィアと呼ばれる神は、望みを捨てることで天上界から追放されずに済んだ。それだけのこと」
「……切り捨てられた、哀れな神の情念……」
 梨香の言葉が口をついた。聞いた牧師は何が可笑しいのか、くつくつと喉を鳴らせて笑い出す。
「そのような言葉はもはや存在しない」
 カツン、と。
 響いた音に顔を上げれば牧師が奥の部屋へと向かう所だった。
 被っていた帽子は手にない。礼拝者たちの椅子へと無造作に投げられている。露になった金の髪をステンドグラスの光に透かし、牧師は歩いていく。
 その背中が光に透けて見えて、白亜はただその場に佇むしかない。
 降り注ぐ光に顔を上げて――顔を歪めた。
「蓮夜には会ったのか?」
 思いがけない言葉に振り返ると、牧師は扉に半身を滑り込ませたまま振り返っていた。
 白亜が言葉を探していると彼は微かに笑った気がした。いつもの仮面的な笑いではない。いま、本当の彼に触れた気がした。
 彼は白亜を眺めたあと答えを待つことなく、そのまま扉の向こうへ消えた。
 一人取り残された白亜は胸に手を当てて視線を落とす。ドクドクと脈打つ心臓の音が不意に強く聞こえてきて、瞳をかたく閉じる。両手を握り締める。
 夜人を助ける。
 その言葉だけが脳裏に浮かぶ。他にはわずらわされない。
 白亜は背中を伸ばした。  箱庭と、外と。
 白亜は逡巡した後に外へと続く扉へと走る。以前は決して通ることのできなかった扉。牧師に阻まれ、夜人に助けられてようやく通り抜けることの出来た扉。今はどちらも傍に居ない。
 白亜は力を込めてその扉を押し開き、外へと飛び出した。
 ――この場所からならば、紅葉に会った方が早いかもしれない。
 白亜は石門を視界に入れながら足を止めた。
 夜人の居場所も、蓮夜の居場所も分からない。確実に分かっているのは紅葉の居場所だけ。それならば。
 足元を覆った影に気付き、頭上を振り仰ぐと真っ黒な暗雲が垂れ込めていた。
 泣きたいのは私の方だ。
 白亜は唇を噛み締めた。
 石門に向けていた足をそっと返し、中庭へと足を踏み出す。幾歩も進まず冷たい雫が頬を濡らし、睫毛を揺らす。
 もう一度振り仰いだ空にはあっと言う間に育った雲が滲んでいる。容赦なく降り出した雨は白亜の体温を奪い去る。
 濡れた芝生は覇気なく沈んでいて、力の入らない足を必死で押し出しながら白亜は拳を握り締めた。瞳に入る雨にどうしようもなく苛立ってくる。まだ諦めたりしないと、強く念じていないと負けてしまいそうなほどだ。
 雨によって全ての気配は朧に溶け消え、足元しか見ていなかった白亜はビクリと体を硬直させた。
「ひっでぇよ。俺まだ一回も勝ってなかったのに」
「お前だけあの中で遊んでたらー?」
「バーカ。お前うるさい黙れバカ」
 バシャバシャと雨を蹴上げて近づく声。楽しげで屈託のない笑顔が白亜の隣を駆けていく。
 箱庭で遊んでいた子どもたちだろうか。
 表情のない白亜をどう思ったのか、振り返った子どもたちは驚いた顔をしたまま走り去っていく。戻って来ようとする者はいない。
 梨香がいないこれから、養護施設はどうなるのだろう。
 老朽化した養護施設の影が雨に霞む。白亜は一度足を止め、容赦ない雨を浴びながらそう思った。今までは同志とも呼べる子どもたちを引き取り育てていたけれど、すべてが平等になったのだと笑う組織はどんな道を辿っていくのだろう。何も知らない子どもたちを、どう巻き込んでくのか。
 グループになった子どもたちが何人も何人も白亜を追い抜かしていき、養護施設へと姿を消す。やがてはその声も聞こえなくなった。振り返るが、子どもたちの姿はない。箱庭に出されていたすべてが戻ったのだろうか。
 この雨は、紅葉も見ていただろうか。
 ぼんやりとそう巡らせ、白亜は養護施設も通り抜けてその奥へと辿り着いた。夜人から教えてもらった抜け穴だ。
 教会内にも、外にも、至るところに設置されている抜け穴。一方通行だと聞いていたそれだが、白亜が手をつくと直ぐに扉を開けた。
 ――夜人を助けなければ。
 見上げるほど背の高い建物の影に、白亜の姿が呑みこまれた。
 乾いた廊下へと転がり入り、背後で扉が閉まる音を聞く。雨音は一瞬にして遮断された。雨を含んだ重い服が廊下を濡らす。震える足を叱咤して立ち上がり、服を絞る。誰もいない廊下にその音は篭って良く響き、蛍光灯がジジ……と消え入りそうに明滅する。
 胸を圧迫する痛みが微かに強まった気がした。
 荒い息を篭らせ、雨に濡れた服で体温が容赦なく下がっていくのを感じる。一度通ったはずの内部廊下に微かな違和感を抱きながら進んだ。
 静かなはずの廊下は、今どこからともなく喧騒が響いてきている。
 喧騒には思い出したくもない記憶が蘇る。
 引き裂かれた服や、鼻を刺す強烈な臭気や、大勢の悪辣な視線。
 目に見えない圧迫と支配が消えたように、廊下には雑多な気配が混じっている。
 白亜は一歩進むごとに重くなる四肢を震わせながら夜人の部屋へと向かった。

前へ目次次へ