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第十章

 【二】

 ――淘汰された世界は貴方のモノ――
 目の前が揺れて、温まった雨が額を流れ落ちる。白亜は静かにそれを拭った。
 唐草模様が刻まれた扉。
 そっと押し開けると、泣きたいほど懐かしい部屋が広がっていた。
「夜人……」
 浅く早い呼吸を繰り返しながら白亜は足を踏み入れる。薄ら寒さが体を包み、閑散とした中で聴覚が失われているような錯覚に陥った。
 中へ入ると扉が閉まる。そのわずかな音に飛び上がるほど白亜は怯えた。
 誰もいないことを確認してから壁へと向かう。
 幾度も壊されたレンガ造りの壁は、今も向こう側から微かな風が吹き込んでくる。
 いつもとは逆のパターンに白亜は立ち竦みながら笑みを零した。自分でも何の笑みか分からぬまましゃがみ込む。
 そうして。
 乾いた手を突き出してレンガを一つ、押し出した。
 ガランと乾いた音が向こう側の空間に響き、紅葉の声が聞こえた気がした。
「……紅葉」
 口の中が乾燥している。
 早く逃げなければと、気ばかり焦って息が弾む。
 もどかしくて両手を壁に当て、力いっぱい押すと、壁はあっけなく崩壊した。巻き上げられた埃に視界が濁った。
 思い切り吸い込んだ白亜は咳き込み、同じく吸い込んだ紅葉の怒りの声を聞く。けれど立ち直るのは紅葉が早く、彼女は白亜の様子に気付くと驚いたように白亜の方に触れた。
 咳き込む白亜を心配して気遣うつもりなのだろう。
 けれど白亜は、触れられた刹那に息が止まったような気がした。脳裏にノイズがうるさく渦を巻く。視界に入り込む情報は紅葉の憂い顔だけではなく、彼女に心配されている白亜の様子までを映した。
 自分はこの場所にいて、冷たい床に膝をついて、その確かな感触も手の平に伝わってくるというのに。
 天地が逆となって体組織がバラバラに分解するような錯覚に陥った。
 体が傾いたのを感じ、白亜は伸びてきた紅葉の手をしっかりとつかむ。
 更に薄れていく自己意識。
 目の前に座り込む紅葉を見上げているつもりだったが、私は本当に彼女を見上げているのかと、何も映らない瞳をただ見開かせた。
「紅、葉」
 呟いた自分の声も耳に入ってこない。
 うるさいノイズが耳の奥で狂宴し、頭の奥が酷く痛む。
 自分がどうして今ここにいるのか、唐突に道から放り出された気分だった。でこぼことしていた思惑や感情が、外部からの力によって平らにならされていくようにも感じた。
 白亜は、ただ空虚に静まり返ろうとする胸中に浮かんだ言葉だけを吐き出した。
「今すぐに、逃げないと」
 そう、そのために私はここにいるのだ。と。
 白亜は紅葉の手をつかんだまま立ち上がり、紅葉を見た。幼い顔立ちの自分が、驚いたようにこちらを見ている。
「逃げるって……今すぐに?」
「そうよ」
 聞こえた声へ直ぐ返す。暗い視界がようやく平常を取り戻してきたように明るくなった。
 体は熱くて汗を浮かばせていたが、震えるのはなぜだろう。
 迷う素振りを見せた紅葉に眉を寄せ、白亜は決断を促そうと息を吸いこむ。
「紅葉。夜人は」
 肺へと届いたはずの酸素はなぜか有害と判断されたように、白亜は盛大に咳き込んだ。
 喉に嫌な音が絡んで詰まる。再び目の前が暗くなり、立っていられなくなって膝を折る。勢い良く座り込んだ白亜は膝を強打して顔をしかめた。
 吸い込む息すべてが悪意に変わる。
 泣き出しそうに顔を歪めながら縋りついてくる紅葉の手を感じながら、白亜は一向に治まらない苦しみに咳き込み続けた。乾燥した喉で何度も強い咳を繰り返したからなのか、鋭い痛みが気管に走る。舌に絡んだ錆びた味に渋面を作る。吐き出すほどではないが、白亜は口元に手を当てた。祈りように体を折り曲げて打ち伏した。
 紅葉の叫ぶ声が遠くに聞こえる。
 咳の合間に聞こえる声に、白亜はぼんやりとそれを聞く。体が熱くて痛くて、指一本動かしたくない。けれど。
「蓮夜を呼んでくるから」
 その言葉に、白亜は鋭く手を突き出した。
 立ち上がった紅葉をつかみ引き止める。待っててねと告げる紅葉に必死で首を振り、拒否を表す。
 紅葉はつかまれたまま、困惑したように首を傾げた。
「大、丈夫だから……っ」
 蓮夜に見つかる訳には決していかない。
「もう、平気」
 無理矢理に立ち上がり奥歯を噛み締める。顎に力を入れて下腹に力を込めた。激しく動悸を訴える心臓を無理矢理宥める。呼吸を正常に戻し、錯覚させる。
 まだ、平気。
 紅葉の手首をつかみ直そうとする手には全く力が入らなかったけれど、白亜は紅葉に微笑んだ。
「さぁ……行きましょう」
「あの、でも私、夜人に」
「いいから!」
 紅葉の口をついた名前に悲鳴を上げる。今すぐ紅葉をここから連れ出さなければ、その夜人も死ぬだけだと言うのに。知らずにそんなことを口に出来る紅葉に、無性に腹が立った。
「黙ってついてきて、紅葉。もう時間が」
 そして、その瞬間。
 白亜の脳裏に鮮やかな緑が広がった気がした。
 思わず振り返った白亜の目に、彼女の姿が映ることはない。けれど、記憶が像を結びだす。伽羅が近づいてくる気配がする。
 白亜は緩く首を振って後退する。伽羅がまとう風や緑の匂いまで届いているかのようだった。
「お願い……紅葉」
 紅葉をつかんでいた手からは感覚が失われていた。
 視覚で確認し、自分がまだ紅葉をつかんでいるのだと知っていても。自分の手はまるで壊死したように触覚を伝えてこない。いま目の前で自分の腕が消えてしまっても、きっと白亜は不思議にも思わず納得するだろう。
『手を離しぃや』
 請われるまま、白亜の手は紅葉を解放した。その瞬間、肺を圧迫していた空気が消えた。供給不可と判断されていた酸素は途端に、理を解放されたように染み込んでいく。
 キリリと心臓が悲鳴を上げ、白亜の視界が白く染まる。
 そんな白亜の耳に、再度、風のような伽羅の言葉が届けられた。
『その姿で分かることも沢山あろうよ』
 少しだけ哀しげに微笑む伽羅の姿が、透かし見えるような気がした。原初の緑が鼻を掠めて白亜の体を軽くさせる。
「逃げて」
 後退した体が揺らめいて、倒れるように扉へ縋りつく。
 身の内で強く響く心臓の鼓動を聞きながら、白亜は部屋の扉を開けた。紅葉の声が追いかけて来たようだが、白亜は振り返らなかった。闇が潜む廊下へと体を滑らせて走り出す。
 まるでこの身から重力が消えたように軽かった。床を一蹴りするだけで滑るように移動出来る。今の自分は誰にも縛られない。どこにでも行ける。こんなにも体が軽い。夜人の所へも行ける。
 笑みが浮かぶのを感じながらそう思い、白亜は首を傾げた。
 ――夜人? どうして行かなくてはいかなかったのだろう。執着は私の心と体を重くさせる。こんない軽い心と体を手に入れたのに。
 これを手放さないために、執着を捨てなくては。
 白亜は廊下を駆けるのをやめて立ち止まった。そうすることが当然のように、今まで貫いてきた何もかもを捨てようとした。
 そうして還ってしまい――私は無になるのだ。
 必死に握り締めていた手が馬鹿馬鹿しくなり、開こうとした時だ。廊下の向こう側に赤い闇が見えた。
 あれは何だろうと首を傾げる。赤い闇が人型を取り、こちらに歩いてくる人影なのだと気付いて、白亜は人間に戻った。全身の血が一瞬で下がったのを感じた。
「――白亜」
 狂気を湛え、蓮夜は呼ぶ。駆けてきて腕を伸ばす。
 白亜は踵を返したが、体が動かなかった。一歩早い蓮夜がその腕を捕らえていた。
「れん、や」
 自分がまだ夢の中にいるかのようだった。口の中がカラカラに干からびていく。
 つかまれた腕に込められる力は強く――白亜は逃れる術を失った。

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