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第十章

 【三】

 元の想いは何であったのか。
 形を変えた絶望が、蓮夜を丸々呑み込んだようだった。
 投げ入れられた彼の部屋で組み敷かれた白亜は悲鳴を上げた。恐怖で塗りつくされる瞼裏には鮮やかな紅が舞っている。長く伸びた黒髪は乱され、シーツに押し付けられる。
 乱暴な力が肌を滑って噛み付かれるように口付けられて。服が破られた音を、どこか他人事のように聞いていた。
「いやああ!」
 強張った唇は、意味のない言葉しか吐き出さない。肩で息をするのが精一杯だった。
 蓮夜に比べれば筋肉などないに等しい真っ白な腕。曝け出されたそこには紅の花。
 腕ばかりではなく、首筋にも、胸にも、鮮やかな色が落とされていた。
「夜人か」
 蓮夜が忌々しそうに呟いて舌打ちする音を、白亜は震えながら聞いた。彼の瞳もまともに見られず喉を鳴らせる。
 ふと、腕を掴む蓮夜の力が緩んだことに気付いて白亜は安堵した。
 しかし直ぐに裏切られる。
 強い力で引き上げられ、蓮夜が唇を寄せてきた。逃れることなど出来ない。毒々しく新たな花弁が刻まれていく。
 まるで夜人の気配を消すように。
「いやだっ! やだ……、放して!」
「お前が俺を選ぶまで、何度でも抱いてやるよ」
 愉悦が浮かんだ紅玉を、白亜は呆然と見上げた。浮かぶのは愉悦だけではなくて、こちらの胸が苦しくなるような物まで含まれている。けれど正体不明のその想いは恐ろしいばかりだ。
 首に手を掛けられて息が苦しくなった。
 彼が少し力を込めるだけで、自分の命は消えるだろう。
 ヒクリと喉を鳴らせた白亜は蓮夜を見上げる。蓮夜は瞳を細めて白亜を見下ろす。
「蓮夜……」
 恐怖で支配されていた白亜の瞳に、ようやく涙が浮かんだ。
 何を思ったのか、それを見た蓮夜は自嘲するように軽く笑う。
 伸ばされた指が白亜の唇を軽く撫でた。白亜は顎を持ち上げられて肩に力を入れ、蓮夜の顔が近づいてくる様を見守る。
 至近距離での抵抗など彼にとっては遊びにもならない。開いた唇に舌を差し入れられて白亜は硬く瞳を閉じる。恐怖が恐怖を上塗りする。
「嫌だ! 放して蓮夜!」
 夜人と自分を繋ぐ見えない糸が、一つずつ壊されようとしている。降り積もった優しさは容赦なく踏みにじられていく。
 白亜は叫んだが無駄だった。
 胸の頂を口に含まれ、強制的に与えられる刺激に白亜の背中は反り返る。
 恐怖と混乱に震え、白亜は手当り次第に物を投げつけようとしたが直ぐに終わった。蓮夜の寝台で、手に届く場所にある物などほとんどない。少しでも蓮夜に嫌悪感を味合わせようと声を大にしてひたすら叫び、両手を振り回して抵抗する。
 恐慌状態に陥った白亜は言葉にならないことを喚きながら夢中で暴れた。
 腕が蓮夜の肩や顔に当たり、彼に与えるダメージよりも、自分に返るダメージの方が大きい気がした。
 自分で大きくしていく痛みに涙が出てくる。
 叫びながらシーツを掴み、力いっぱい引こうとしたが全く動かなかった。急激にストップを掛けられて白亜は我に返る。
 気付いたら白亜は自分と蓮夜が乗っているシーツをつかんでおり、無駄だとは知らずに力いっぱい引っ張っていた。
 我に返った瞬間、蓮夜の瞳が視界に入って白亜は青ざめる。
 一つに束ねられた彼の深紅が太い肩を滑り落ち、顔の横で揺れていた。
 今まで激戦を潜り抜けてきたであろう体には幾つもの痕が残されていたが、どれもが古い傷ばかり。今の抵抗では傷など与えることもできない。
 心が壊れた気がした。
 振り上げかけていた腕が力を失い、シーツに落ちるのを見た蓮夜は静かに笑った。
「終わりか?」
 両手をひねりあげられても、白亜は痛みに顔をしかめるだけで抵抗の力を全く入れない。
「もっと暴れればいい。希望などないと思い知ればいい」
 凄烈な笑みを浮かべながら、蓮夜は白亜に口付ける。その様は乱暴さが抜けて、優しくとすら言えるものだった。
 口付けと共に大きな手が肌を滑る。白亜は容赦なく追い詰められる。
 意志に反して嬌声が上がった。慣れた手つきに肌が粟立つ。
「紅葉の居場所も直ぐに消えよう」
 その言葉に白亜がビクリと震えた。唇を噛み締めて蓮夜を見つめる。
 その視線を楽しそうに受け止めて喉を鳴らし、蓮夜は口付けを下ろし始めた。
 刻まれる痕も同じく下がっていき、反応する自分の体が厭わしくて白亜は瞳を閉ざした。何も見たくはない。白亜の体に夜人の印など、既に欠片も残っていなかった。
 白亜は硬く瞳を閉ざしたまま唇を引き結ぶ。悦ばせてたまるものかと、洩れかける声を必死で耐える。
「夜人も、あの体ではもうもたない」
 笑うような吐息が白亜の肌をくすぐった。
「これでお前も諦めがつくだろう」
 瞳を開くと、満足そうに笑う蓮夜の表情が視界に入ってきて、白亜は口を開いた。
「――意気地なし」
 壊れたはずの心の奥深くから、何かの衝動が突き上げてきた。
 攻撃的なものではないが、その熱さに白亜は拳を固める。
 体の線を辿るようにしていた蓮夜が顔を挙げ、白亜はその顔を睨みつけた。瞳はまだ涙が滲んでいるようだ。乾いた目尻が突っ張って不愉快だった。
「私を抱こうとしておきながら、紅葉を排除しようとする蓮夜は意気地なしだ。紅葉は夜人の物だからって、向き合いもせずに逃げるんだ」
「なんだと?」
 逃げる、との言葉に蓮夜の瞳が険しさを帯びた。剣呑な光を宿し出す。
 白亜はつかまれた腕に痛みを覚えて顔をしかめたが、それは忘れることにして蓮夜を見つめる。
「自分が逃げてることにすら気付けない道化者。私を手に入れたつもりで満足してればいい。いつまでも嘲ってあげる。貴方の弱さを」
 蓮夜の瞳に怒りが閃いた。
 殺されるのだと理解し、反射的に白亜は怯えた。その一瞬の表情に蓮夜は気を変えたようだ。
「その強がりがどこまで続くか、見ものだな」
 怒りを滲ませながら蓮夜が笑った。
 白亜は悔しさに歯を食いしばり、それと共に四肢の奥の熱い場所に触れられて息を殺した。
 つかむ腕に爪を立て、必死で耐えたが体が震えた。頭の奥がジンと痺れを訴えて意識がそちらにばかり傾いてしまう。夜人を想っていようとするのに、それすら許されない。
 届く熱い吐息に白亜の体も熱くなる。
 強張る体から緊張が解けないまま微かに喘ぐ。
 本当は何を望んでいるのか。歯を食いしばりながら瞳を開けた白亜は、同じく苦しげに瞳を歪ませている蓮夜を見た。視線が絡んで逸らせない。
 ――不意に、蓮夜の意識が白亜から外れた。
 熱はまだ体に残されていたが、残り火となったように蓮夜の興味が白亜から逸らされる。
 それまで一番近くにいた白亜だからこそ分かる、微かな変化。
 蓮夜の手が銃をつかんだことに気付いて白亜は瞳を瞠らせた。苛立った蓮夜の舌打ちが耳元で聞こえる。
「この部屋に近づくなと」
 言いざま、扉へ銃を向けた蓮夜。
 扉が開かれたことでようやく誰かがこの部屋に近づいてきていたのだと理解した白亜は、瞠ったままの双眸を更に見開かせた。
 扉の向こうから姿が見えた瞬間、引き金を引こうとしていた蓮夜の指が止まった。
 ――衣装をずいぶんと凄惨にくたびれさせて、肩で息をしながら壁にもたれるように滑り込む女性がそこにいた。
 頭部から出血していると思われる血が、その顔の半分を染めていた。ほぼ乾いているようではあるが、出血はまだ完全には止まっていない。顎から微かに滴っている雫が床に落ちて、女性の足に踏み潰される。
「梨香」
 確かにこの手で殺したと思っていた梨香が、その場にいた。
「蓮夜」
 苦しげに梨香が呟く。頭部に手を当て、瞼を震わせて。
 瀕死の様子に蓮夜は素早く体を起こして動きかけたが、それだけだった。梨香が口を開くと同時に、固まったようにその動きが止まる。
 梨香が微かに瞳を細めた。
「マザーがやられたみたい。警戒装置も訓練施設も、全ての機能が停止状態」
「……気付いている。元々創生の記憶を宿していただけだ。最後の最後まで、あの男は俺を遠ざけた」
 低い蓮夜の声に梨香は笑った。嫌な音を立てて、彼女の呼吸が乱れる。
「もういいでしょう、蓮夜」
 細い呼吸音が彼女の命を知らせているようだった。
 白亜は息を呑んだまま蓮夜を見上げたけれど、蓮夜の表情は静かで何を考えているのか分からない。凍ったように、彼もまた時を止めていた。
「蓮夜」
 震える声が梨香から洩れた。その腕が微かに伸ばされたが、その力すらないのか、それは途中で諦められた。
 それでも、蓮夜はそのまま動かない。
 白亜が痛む体を起こそうとすると寝台が軋む。その音に蓮夜はようやく動いたが、その動きは白亜が予想したものとは大きくかけ離れていた。
 痕が残される白亜の腕を、蓮夜は強くつかむ。まるで白亜が逃げることを恐れるように。
 蓮夜の視線は梨香から外されて白亜を射た。
「その傷は、誰にやられた」
 白亜が瞳を瞠らせて蓮夜を見ると、蓮夜はその視線を誰からも外して問いかけた。
 梨香の笑い声が微かに空気を震わせる。
 壁に背中をつけ、後頭部もつけ、彼女の瞳は白亜を捉えていた。
 血を浴びていない片頬にだけ涙が流れ、蓮夜を見つめる瞳から光が消えていく。
「貴方がそこで、抱いている女よ」
 ズルリ、と。梨香の足から力が抜けて体が崩れる。
 音に余韻を残して梨香は倒れた。
 梨香は唇に笑みを刻み、倒れたまま、更に続ける。
「私が殺そうとしたの。思わぬ反撃を受けたわ」
「――手を出すなという命を破ったのか」
「ええ、そう」
 体を床に横たえたまま、梨香はクスクスと笑う。
「何人も外から女を引き入れたわよね。何人も何人も、抱いて、そして殺した。壊れるまで相手をさせて――女が貴方を愛した途端、貴方は殺したわ」
 体は満たされる。何度でも。けれど、それが蓮夜の苛立ちを消すことはない。
 女の香を漂わせ嬌声を叫ばせ艶めいた表情に変化を感じた途端、満たされたと思ったものは崩壊する。
 何度でも、何度でも。繰り返されるメビウスリング。蓮夜の空虚感は終わりを知らない。
「愛?」
 蓮夜が低く笑った。
 吐き捨てるように、嘲笑するように。
「ねぇ蓮夜。貴方は知っているの。自分が今つかんでいる者が何なのか」
 白亜が息を詰めて見守る中で、梨香は瞳を伏せた。
 その横顔はどこか安堵に似ていて、白亜は眉を寄せる。そして次に、視界に入った蓮夜の腕にギクリと体を震わせた。彼の銃口は梨香に向けられている。
「お前は、もう必要ない」
 蓮夜の声は淡々と響いて引き金を引こうとする。その指にはためらいがない。
 白亜は信じられなくて、その銃を思い切りつかんだ。銃声が響く。つかんだ白亜は熱さに顔を歪める。蓮夜を睨みつけた。
「何するの!」
 銃弾は寝台に穴を空けただけで梨香には届かなかった。
 蓮夜は顔をしかめて白亜を見下ろす。
「裏切り者は排除されるだけだ。例外はない」
「な……にが! 梨香は――」
「邪魔をしないで白亜」
 蓮夜の言葉が信じられなくて、激昂しかけた白亜は静かな声に止められた。振り返れば梨香が睨み上げていた。
 昏い瞳に浮かぶ光を、白亜は呆然と見返す。
 嫉妬と殺意と、後は何だろうか。梨香の心は複雑すぎて、白亜の許容を軽く突破してしまう。他人の心を完全に理解できるなど、白亜も思ってはいなかったけれど。
 白亜が言葉を失くしていると梨香は微かにくぐもったうめき声を出した。震える腕を立て、力を込めて上体を起こす。血で染め抜かれた片眼に爛々と光を滾らせている。それは白亜を貫いた。
 蓮夜は銃身を押さえ込まれたまま黙ってその様を見つめていた。
「邪魔、って私は――」
「恵まれた貴方には分からない」
 昏い声が床を舐めた。
「誰もが苦しむからなどと――傲慢だからこその言葉。貴方の苦しみが、私の苦しみと同じであるものか……!」
 梨香の胸がへこみ、咳き込んだ。喉が鳴って血が吐き出される。
 激昂は徐々に宥められ、梨香はゆっくりと笑んだ。
 その様は酷く妖艶で目を離しがたいもの。最後の瞬間に光を溜めているようにも思える。
 梨香はふと力を抜いて壁にもたれ、深い息を吐き出すと、唇を笑みの形に歪めた。
「貴方が、何を知っていると言うの」
 ゆっくりと向けられる、穏やかな瞳に白亜はただ呆然とした。
 優しい声音に包まれた憎悪。
 梨香は軽くかぶりを振る。
「蓮夜――もう、いいでしょう?」
 それが何を望む言葉なのか、白亜は悟って蓮夜を振り返った。
 蓮夜の視線が銃に落とされるのを見て、白亜は必死で銃身を押さえつける。強張った顔で蓮夜の瞳を覗き込み、梨香を振り返る。
 彼らにかける言葉なんて何もないから、無言で銃身を押さえ続ける。
 それでも。
「私はっ」
 怒鳴るように叫んでいた。
 これが届かない言葉だとしても、諦めたら何にも繋がらないから。それだけは嫌だから。
「私は、ここに――いるよ。生きてるよ。見てるよ。梨香の言葉を聞いてるよ! 自分の言葉に反応してくれたら嬉しいでしょうっ? 投げ返してくれたら救われるでしょうっ? 誰にも認められないまま死んでいくのが怖いから、貴方たちだって立ち上がったんじゃないのっ?」
 梨香は途中から聞いているのか聞いていないのか、反応をまるで返さなくなった。背中を壁につき、両手を胸に引き上げ、組む。その姿は祈り。
 忠誠を捧げるのは誰になのか。瞳を閉じた梨香には、もう届かない。
 永遠を手に入れた梨香は存在を失った。
 閉ざされた彼女の瞼裏に浮かんでいたのは何であるのか、知る術はない。
 白亜は奥歯を噛み締めることで湧き上がった嗚咽を殺し、溢れた涙はかぶりを振ることで落とした。


 癒えることのない哀しみ。
 伏せられた瞳の奥で消えていく灯は鮮やかで、儚くて。


 白亜は両手を強く握り締めた。
「自分が死ぬのに未来が続くことを知るのが怖いんだ」
 今は手元にない宝石の音が聞こえた気がした。
 巡る細かな命の粒が、サラサラと――

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