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第十章

 【四】

 気付いたら泣きながら飛び出していた。
 致命傷を与えたのは自分だが、その結末を見届けたことが恐ろしかった。
 追いかけてくる声も腕もない。あったけれど振り解いたのだろうか。混乱していて分からない。
 薄い服一枚を身にまとい、冷気が体を包む。肌に触れる固い壁は拒絶するように冷たさを伝えてきて、白亜は嗚咽を上げながら拳を握り締める。
 振り返った蓮夜の瞳が昏く沈んでいたことが酷く悲しかった。
 その場所から程近い光へとぼんやり歩き、外の風を浴びる。教会が正面に見える。二階の渡り廊下。
 曇った光が降り注いだ瞬間、込み上げた衝動に任せて吐き出した。石畳みの片隅に小さくなり、衝動が止まるまで繰り返す。
 喉が灼かれるように痛い。
 ようやく落ち着いた頃には周囲は闇へと移行していた。
 緊張状態から解放されて痛みが復活し、眉を寄せながら呆然と空を眺めた。
 暗澹とした赤雲が垂れ込めている。その色は連想させるには充分で、白亜は石壁に背中をつけながら奥歯を噛み締める。
 肌には打撲のような痣が至る所に及んでいる。触れると鈍い痛みが脳髄にまで走り、奥歯を噛み締めて痛みを堪える。痣を擦ったが消える訳もない。増した痛みに襲われるだけだ。
 もし痛みが消えたとしても――記憶に刻み込まれてしまった。
 誰を憎めば良いのか分からなくなって、取るべき道を見失う。最善の道はどこにあるのか見えてこない。
 ああそうか、とぼんやり思った。
 最善の道なんて最初からない。誰も傷つかない道などあり得ない。彼らにとっての最善と、私にとっての最善はきっと、天と地ほどに違うのだ。見ている物が違うのだ。同じ道を行くことは出来ない。
 最善であるからといって幸福だとは限らない。それならば――と、白亜は息を整えた。
 教会の大鐘楼が視界に映る。白亜となってから今まで一度も鳴らされたことのない鐘は、ただ静かに赤い闇を映し込んでいた。鳴らされるべき時はもう近いのだとでも言うように、早足で駆け抜けていく空模様に合わせて闇の形も変わっていく。
 立ち上がろうとすると痛みが走った。尻餅をつき、乱れた呼吸を整える。
 訳が分からず嗚咽が胸を衝いた。母親の胎内で眠るように手足を折り畳み、肩に力を入れて衝撃に耐える。
 消えてしまいたかった。


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 導かれるようにして時が加速していく。
 これで、最後だ。
 何度繰り返したか分からないその言葉を、白亜は再度胸の奥で繰り返した。
 統率者を失った組織がどうなるのか、壊滅的に追い込まれた世界がどの道を辿るのか、子どもたちがどこへ行くのか――すべては外の出来事で心に入る余地はない。最初から最後まで、私の中には夜人と蓮夜と、そして取り巻いていた組織という世界だけ。彼らだけが私のすべて。
 だから、これで最後。
 滑るように廊下を走り抜けた。体が軽くてどこまででも走って行けそうな気がした。意識が消えてしまう前に、白亜は鼓動も忘れてひた走る。
 暗闇に沈んだ廊下を駆け抜け、直ぐに目的の場所へと辿り着く。
 遠くへと走って行こうとする紅葉の姿。
 蓮夜から夜人のことを聞かされ、助けようと決意して走っていた。ずいぶんと昔のことのようで懐かしさすら湧き上がる。
 これで、最後。
 もう一度、白亜は強く心に刻んだ。
 遠ざかろうとする紅葉に追いつき、白亜は手を伸ばした。緊張と後悔で紅葉の呼吸は早く荒い。小さな体からピリピリと警戒心を放っている。けれど背後から近づいた白亜には気付かない。紅葉にはまだ大きな拳銃がその手に握られていた。自分の手に馴染み、違和感を持たなくなったのはイツからだっただろうか。
 思いながら白亜は手を伸ばし、紅葉の体を押さえつけた。
 小さいとはいえ結構な力で抵抗されるのは分かっていたので全力をかける。
 紅葉は直ぐに恐慌をきたした。
「嫌っ、放して!」
 こちらが誰であるのか知ろうともせずにもがく紅葉。
 彼女の持つ銃が白亜の額に勢い良く当たり、痛みに顔をしかめて力が緩む。その隙を突いて紅葉は更に逃げようとしたが、分かっていた白亜はその腕を先回りしてつかんだ。
 カチリという金属的な音がした瞬間、耳元で発砲音が響いた。
 吹き出した炎が白亜の耳を焼く。あまりの熱さに痛みが胸を衝く。
 白亜は意識が一瞬飛んだことに気付き、倒れるのを必死で堪えた。聴覚が死んだように、音が遥か遠くへ行ってしまった。内側から湧いてくる熱と苦痛に顔を歪め、白亜は目の前で怯える紅葉を睨みつけた。
「馬鹿なことを、紅葉……っ!」
「だっ、て……っ」
 背中を壁に預け、見上げてくる瞳は直ぐに滲んで涙を零した。彼女の膝が笑うのを、冷めた感情で白亜は見下ろす。音が遠くなったり近くなったり、頭の奥でグルグルと反響しているようだった。
「だって、夜人が……っ!」
「知っていたわ、そんなことっ!」
 湧き上がる苛立ちのままに怒鳴りつける。渦巻いていたノイズが更に強さを増して脳裏に反響する。怒鳴ったはずなのに泣き出したい。そうかと思えば直ぐに目頭が熱くなる。悔しさに白亜は奥歯を噛み締めた。倒れそうだ。
「逃げなさいと言っているでしょうっ。それなのにどうして貴方は……っ!」
 天秤が傾くのはどちらにか。
 掻き消してしまいたい過去の古傷。聞き分けのない、無知な子ども。
 今ここで紅葉を連れ出せばメビウスは壊れる。彼女が大人しくこちらの言うことを聞いてさえくれれば、夜人は助かるのだ。蓮夜が紅葉を連れ出すこともない。
 それなのに。
「私は、夜人が死ぬのは、嫌っ」
 その言葉を聞くや否や、白亜の手は勝手に振り上げられていた。
 意識せずに殴ったのだと理解したのは、紅葉が石壁に叩き付けられ呆然と見上げてきてからだ。
 ――何も知らず。何も理解せず。
「どうして……邪魔するの?」
 呟きながら、白亜は殴った手を包み込む。知らずに涙が零れていた。
 紅葉が見上げてくる、その表情がどうしようもなく癪に感じられた。
「夜人を助けに行くですって……? そんなこと、許さないわっ!」
 何も知らない者が決定権を持つのは非常に不愉快だった。
 体験していないくせに。彼らの想いを何も知らないくせに。第三者として、傲慢に君臨していたのだ。梨香の言葉が鮮やかに蘇る。
「貴方になんて、夜人は助けられないっ。黙って私の言葉を聞きなさい紅葉っ!」
 つかみかかろうとした白亜は、銃口を向けられて怯んだ。
 紅葉の瞳は既に決意しているように、真っ直ぐに白亜の瞳を捉えている。
「私は夜人を助けたいっ!」
「きゃあああっ?」
 悲鳴を上げてしゃがみ込む。そうでもしなければ、白亜は正確に額を撃ち抜かれていた。
「邪魔をしているのは白亜の方だっ!」
 死を間近に感じて動悸が高まり、しゃがみ込んだまま床に視線を落としていた白亜は切り捨てられたことを知る。視界から紅葉の足が消える。顔を上げると走っていく彼女の後姿が映る。引き止めようとしたが、紅葉は振り返りもしない。
 あの時も、紅葉はこうして白亜から離れた。
「……だって、知らないんだもの。考えることなんて思いつきもしないんだもの」
 涙が廊下に染みを作る。
 紅葉がどこへ行ったのか知っているけれど、追いかけたくはなかった。彼の瞳を見ることがたまらなく恐ろしかった。
「行かなきゃ……」
 ポツリと呟いて立ち上がる。
 先ほどまでの時間が嘘のようにユックリと流れていた。
 胸に手を当てて鼓動を確認する。まだ歩ける、まだ生きている。
 何に安堵しているのか分からないままため息を零し、白亜はそっと天井を見上げた。
 微かに明滅し、電子音を発するそれに怯えた時もあった。
 ――選択の時は過ぎ去った。それなら私は、夜人のもとへ行こう。

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