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巡るメビウス

 【一】

 祈りは届かない。彼らに触れることが出来るのは人の熱だけ。
 想いを織り込んで、幻を見続けて、望むものを他者の中に抱き続ける。
 彼らが私の中に見続けてきた物があるのなら、私はそれを本物にして返したい。

 貴方が幸せをつかみますように。

 それもまた、経験していない者が紡ぐ勝手な祈りだけれど。
 私は彼らになることは出来ないから、祈り続ける。壊れた夢を紡いで、誰かの想いを優しい調べに変えて。




 ――紅葉を見送った白亜は、組織を遠く離れていた。
 目指した場所は良く分からない。すべての始まりと終わりを知る場所へと、ただ無心で足を運んでいた。滑るように景色は流れ、白亜にとっては運命の分岐点である扉が目の前に佇む。
 焦ることもなく、白亜はそっとその扉を押し開いてみた。
 白亜の脳裏に過去が過ぎる。
 紅葉として蓮夜に連れてこられ、開いた扉の向こうには夜人がいた――白亜として開いた今、その扉の向こう側には……知らない男がいた。
「だ、れ……?」
 白亜は瞳を瞠らせる。
 場所は少し広い空間のようだ。男は真正面の壁に背中をつけ、白亜のように驚きを示すことなく佇んでいる。外からの光を受けて、眩しそうに瞳を細めたくらいである。
 悠々とした態度は何にも関心を示さないように思えたが、彼が向ける視線は強い力に満ちていて圧倒された。
 夜人がいると思っていたのに。紅葉がここへ連れてこられる前に、夜人をここから離さなければと思っていたのに。
 白亜は視線が絡んだ男を見つめて呟いていた。
 男は十字が刻まれた服を纏い、腕組みをして白亜を見つめている。その服装が牧師を連想させて足が強張ったものの、負けじと眦を強くして男を見つめ返す。
 光も差さない闇の中で何をしていたのだろう。
 ふと鼻についた異臭に顔をしかめ、視界端にあった塊に視線を向けた。
 白亜が開いた扉から真っ直ぐに光が伸びている。その光から逃れるように薄闇に沈んだ先には、うずくまるようにして時を止めている少年の体。
「左京……?」
 広がる血はもう黒ずんでいて悪臭を放っている。闇に慣れた視界で見渡せば血飛沫がこびり付いている。そこは惨劇の広間だ。
 梨香が倒れた部屋はここだったのかと、白亜は指先が冷たくなるのを感じた。
 その部屋になぜ、この見知らぬ男がいるのだろう。記憶のどこを探っても、この男に関する情報は得られない。彼が放つ異質さに慄くだけである。どこか、自分に近い雰囲気を醸す彼に、これ以上近づいてはいけないのだと警告が過ぎる。
 白亜は無意識に一歩後退しようとしたが、男の瞳が微かに細められただけで呪縛されたように硬直した。
「哀れなものだな」
 男は腕組みをしたまま、その場から動くことなく白亜を眺める。
 白亜は瞳を瞬かせた。
「けれどようやく得心がいく。なるほど、そういうことか」
 勝手に一人で納得し、酷薄な笑みを浮かべる男を不思議に見つめる。
 何を言っているのだろう、と眉を寄せた白亜の視界に、翡翠の光が微かに揺れた。体を強張らせて振り返れば、そこには伽羅がいる。
 充分に太陽の光を含んだ暖かさと、光苔のような柔らかさを含んだ優しさ。
 左京の直ぐ傍に立った伽羅は手を伸ばし、左京の頬に触れた。絶望に身を沈めた少年を静かに見つめて瞳を閉ざし、小さな体を抱え上げた。
 萌葱色の服がベタリと汚れたが、伽羅は構わないように頬を寄せる。
「死人なれば妾にも弔うことは出来ようよ」
 伽羅の唇から零れたのは微かな旋律。どこか異国の雰囲気を醸す、鎮魂歌。
 死後硬直も終わり、再び軟らかさを取り戻していた少年の体はそのまま消えた。
 腕の中で消えた小さな存在を、伽羅は何を思っているのかそのままの状態で見下ろして瞳を伏せる。長い睫毛がゆっくりと頬に影を落とした。
 伽羅の声は不思議だ。
 望郷の想いを掻きたてて落ち着かなくさせる。幸せだった頃を思い出して今を諦めたくさせる。吹雪の中で優しい眠りへと誘われるようだ。
 その腕が温かいことを知っているから余計に焦燥は強くなる。
 白亜は自分がその声を虚ろに聴いていることに気付いて唇を引き結んだ。
「これは、何? 伽羅……どういう事なの?」
 あの瞬間はもう間近に迫っているというのに、まだ知らない要素に白亜は拳を握り締めて伽羅を見つめた。
 白亜の視線を受けて、伽羅は無表情のまま見つめ返すだけだった。
 視界の端では男がそのやり取りを、どこか楽しそうに見つめている。
「妾がここに現れることは知っておったろう? それとも白亜。そなたは変えることに成功したのかえ?」
 スッと闇を通り抜けて光へとその身を移し、伽羅は微かに瞳を細めた。
 そちらへ向かおうとした白亜は、再び視界の端に誰かが動いた気がして振り返る。今までとは全く違う場所で動いた影に驚いた。もう時は止まらないのだ、と。
「……夜人」
 呆然と、呟いた。
 白亜が託した宝石を首から掛けて、立っているのがやっとのような満身創痍で、夜人が階段を下りきった所だった。
 夜人の双眸が瞠られる。
 白亜ではなく、その奥にいる男を認めて。
 まるで、白亜が視界に入っていないかのように呆然と、夜人はそちらに進んだ。音を立てて扉が閉まる。
 白亜が開いた光は一切が遮断され、包まれた闇に唇を引き結ぶ。白夜のような薄暗さに包まれていたため、暗闇に慣れるまでは時間がかかる。
 鼻先で動いた風に、夜人が自分を通り過ぎて男の前へと行く様が感じ取れた。激しく高鳴る胸に手を当てて、見えないそちらへと不安に顔を向ける。
「なぜ、貴方がここにいるんです」
 震えを殺したような夜人の声が響いた。手を伸ばそうとしていた白亜は驚いて手を止め、開きかけた唇も結ぶ。暗闇に朧な輪郭が浮かび出した。
 ぼんやりと見える夜人の横顔は怯えを含んでいるようで、初めて見るそんな彼の表情に、白亜は何も言えなかった。
「さぁ、なぜかな」
 対峙した男は揶揄るような態度を崩さず、壁に背中を預けたまま夜人を見た。その視線は白亜に移り、伽羅に移り、そして閉ざされた。
「その男は常に傍におったよ、夜人。そなたには認識できておらなかっただけじゃ」
「……伽羅」
 夜人が険しい視線を伽羅へと送った。
 受けた伽羅は穏やかに微笑み、細い指をスッと上げると夜人の胸元を指差した。
「白亜から託されたであろう、夜人。それは妾たちを繋ぐ唯一の糸よ。難儀な者に惚れおったものよのぅ」
 楽しげに喉を鳴らせ、伽羅は男へと歩いた。
 血生臭い部屋の中で、彼女だけが唯一清らかであるような光をまとっている。
 その様を瞳に映しながら、白亜は呆然としていた。伽羅の言葉を蒼白に受け止めながらかぶりを振り、振り返った夜人の瞳を見る。
「白亜?」
 不思議そうに夜人が呼ぶ。伸ばされた腕は白亜を呼ぶように向けられたが、白亜はその手を取ることが出来なかった。静かに後退する。
 少しでも変えたくて、彼を護りたくて、今まで自分が持っていた宝石を彼に託したというのに。
 それは伽羅の干渉を受ける要因となった。結局巻き込んだ。
 白亜の脳裏に、いつか行った屋上が蘇った。
 蓮夜が現れた瞬間に姿を消した伽羅。それは、蓮夜が正常な時の中を生きていると知っていたからなのか。そして夜人の前では遠慮なく姿を現していたのは、正常から外れた時の中を巡っていると、知っていたからなのか。
 麻奈の前に現れたのは――白亜はかぶりを振った。
 変えたくて託したのに。それは定められたことだった。
「……紅葉」
 伸ばした手は取られない。夜人は少しだけ哀しそうに困って笑っていた。
 その表情に白亜は虚を衝かれ、胸が痛んで息を詰まらせる。もしかして夜人はすべて知っているのではないかと、そんな思いが脳裏を過ぎる。
 夜人が宝石に手を伸ばし、首から外す。
 呆然と見ているだけしかない白亜へと渡す。
「ずっと考えていたよ」
 そうやって笑う夜人の表情に、渡された白亜は宝石をしっかりと握りしめた。
 その瞬間、メビウスは完結した。

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