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巡るメビウス

 【二】

 そうして再び巡り出す。抜け出すことの出来ない時の輪が。

 私の想いはメビウスとなり紅葉に託され、そして貴方と出会う。
 貴方の希望を繋ぐために。
 それは確かな私の未来。

 最後に囁かれた夜人の言葉と、彼の体が倒れていくのを見ながら、白亜はその場にただ立ち尽くしていた。
「夜人……?」
 小さく呟かれた紅葉の声は、白亜を動かす合図。目の前で倒れた夜人へと白亜は腕を伸ばし、支えようとしたが一緒に倒れた。
「おや、貴方が生き残りましたか」
 蓮夜が笑う。
「どういうことなの……」
 紅葉が問いかける。
 白亜は宝石を手の平に包み込み、夜人の頬を撫でる。まだ温かい。血に濡れて、それでもまだ息がある。見上げてくる瞳は直ぐに光を失い、白亜の腕をつかんだ手からは力が抜ける。誰かが「死ぬの?」と呟いた。
「何をしておるのじゃっ」
 伽羅が叫ぶ。早く、未来を変えるために。今を逃したらもうメビウスは完成するだけだから。
 白亜は夜人から手を外す。渡された宝石を手の内に包んで立ち上がる。消えかけた存在は再び繋ぎとめられた。光を恐れることはない。白亜は静かに足を進めた。
 蓮夜が立つ入口から差し込んでくる光の中へ。
 姿を現した白亜に、蓮夜は双眸を瞠って驚いた。紅葉は気付かない。感情のまま泣き叫んでいる。彼女を導くように、白亜はしっかりと紅葉を抱き締め、その手に宝石を握らせた。彼女が再びメビウスを巡らせるように。
 呆然としていた蓮夜が我に返った。真紅の双眸が憎悪に染まる。衝動のまま、彼の唇が言葉を刻む前に、傍観者に徹していた男が蓮夜に近づいた。白亜の傍を通り抜けて蓮夜に近づく。彼もまた、白亜と同じく時を移ろう者なのかもしれない。目の前に現われた男に、蓮夜の双眸は更なる驚きに塗り変えられた。
「貴方が――なぜ、ここに」
「いい退屈しのぎになった。蓮夜。勝ったのはお前だったのか。しかし裏切る者も持たないお前がどこまで走っていけるのか――足元に気をつけておくがいい」
 押さえつけるような声音に、対峙していた蓮夜が瞳を歪める。憤怒が彼の全身を支配したかのようだ。血の滾る音まで聞こえてくる。
「他でもない貴方が言うのか――裏切り者がっ!」
 怒鳴り声に男は哄笑する。蓮夜が銃を向けたが、弾は男の体を突き抜けた。男に怪我はない。蓮夜はあぜんとする。
 そんな蓮夜に男は微笑みを零した。
「分かっているだろう……? この身に現の武器では傷一つつかぬ。ここから先に、お前は踏み入れさせぬよ。私の最後の務めだからなぁ」
 男に何を囁かれたのか、蓮夜は離れていく男を呆然と見送った。衝動に動かされるまま銃を投げ捨てる。手を伸ばす。男をつかもうとしたが、男はその前に扉を閉めてしまった。置いていくのかと叫んだ蓮夜の声は、扉が閉まる音に掻き消された。
 もう蓮夜の声は届かない。宝石が放つ白夜の光が部屋に静かに満ちていく。
「……いいの?」
 訊ねた白亜に男は笑う。哄笑ではない。まるで好々爺のような微笑みだった。
「そちらを気に掛けたらどうだ?」
 今にも力を解き放たんとばかりに強さを増した宝石。
 紅葉は白亜に抱きしめられながら動かなかった。その心中を思うと穏やかではいられなくて、白亜は歯を食いしばる。紅葉に渡した宝石を確かめる。彼女の手に包み、願いを乗せる。
 ――さぁ、過去に渡って。
 このまま紅葉を引き止めておけば未来が変わることは確実。けれど、白亜は紅葉の背中を押していた。気付いた伽羅が驚愕したように叫ぶ。
「よさぬか紅葉っ。白亜の二の舞になるぞ!」
   叫んだ伽羅に、白亜は「そうだよ」と頷いた。伽羅が双眸を瞠る。
 そんな様を見て、ああそうか、と白亜は納得した。そして、時を移動しようとする紅葉から一歩離れて巻き込まれぬようにし、伽羅を振り返って微笑んだ。
 白亜の脳裏に蘇る言葉。伽羅が発した言葉は、白亜に向けられた言葉だった。
 二の舞を肯定した白亜に、否定したのは紅葉。
「二の舞になんかならないわ!」
 力を発し続ける宝石に慟哭を乗せて、紅葉が叫ぶ。何が起きているのか理解できず、ただ感情のままに「夜人を死なせたくない」と叫んでそれを為す。紅葉の小さな手は、宝石を強く握り締めた。
「だって私は未来を知っている……夜人を助けられるっ」
「紅葉!」
 白亜はその様をただ見ていた。先ほどの言葉どおり同じことを繰り返す羽目になるだろう。分かっていても止めようとはしない。
 伽羅がようやく紅葉を呼び止めようとしたけれどその手は届かない。紅葉は風ごと連れて、その場から消えた。
「紅葉!」
 伽羅はきっと、白亜が新たな未来を歩く姿を見たかった。
 だから紅葉に警告した。だから白亜を脅した。決意が揺らがぬように。そして新たに決意を固めさせるために。
 すべてが分かった白亜は「ありがとう」と呟いた。そして視線を移す。
 宝石を託し、既に過去へと渡った紅葉がいる場所を見つめていた。敢えて同じことを繰り返した。
 宝石が手に戻った瞬間、温かな膜に包まれていたけれど。宝石が離れた今はまるで氷の中に閉じ込められているようだった。徐々に指先が冷たくなっていき、感覚が鈍っていく。分かっているけどとても哀しい。受け止める準備は出来たけれど、この空虚さは消せない。
 白亜はその場に膝をついた。
「……愚か者が……」
 忌々しげであるが、どこか「仕方ない」という諦めも含んだため息。
 白亜は苦笑して立ち上がろうとし、刹那、全身を襲った痛みに双眸を見開いた。
 ああ、来たのだ。
 そんな思いが浮かんだけれど、白亜は奥歯を噛み締めた。
 息を止め、動きを止めて痛みに耐える。背骨が軋み、体中の筋肉が悲痛な叫びを訴えてくるよう。
 咳き込んだ途端に、嫌な音を立てて血を吐き出した。錆びた鉄の味。
 口腔にドロドロとした液体が絡みつき、再び咳き込む。咳き込むたびに吐血は酷くなっていくようだった。
「紅葉に渡してしまったそなたには、もう体を構成する組織を繋ぎ止めよる力がないのよ。ただ人では、時を移動する負荷には耐え切れぬ」
 耳障りな呼吸を繰り返し、絡みつく嫌な味を感じながら白亜は薄く笑った。
 暗がりの中で倒れている夜人へと近づく。冷たいその手に触れて、固いその手をしっかりと握り締める。
「なぜ、変えなかったのじゃ。せっかく妾がここまで助けてやったというに、全く理解できぬ」
 充分に陽光を浴びた芝生の匂いが鼻に付いた。血の匂いがほんのり和らぎ白亜の呼吸が軽くなる。それでも、これは単なる気休めなのだと知っていた。
 夜人の手を握り締めながら床にもう片手を着いて伽羅を見上げた。
「夜人がね……」
 消えていく呼吸の合間に白亜は微笑んだ。
「私を自由にするために生きたんだって、そう言ったの」
 伽羅を映す双眸が熱く、一度瞬きすると一筋が零れた。
 一体どれほどのことを夜人は知っていたのか。本当は何も知らずに口にしただけなのかもしれない。
「私に会えて、良かったって」
 沈んでいく体。消えていく存在。サラサラと細かな砂の音が耳に触れて、白亜は静かなまま伽羅を見上げ続ける。
 すべての時が、手の平から音を立てて零れ落ちていくようで。
「会えて……」
 貴方に会うために生まれてきたんだと、そう言えたらどんなに良かっただろう。
 言葉にしたら安っぽくなってしまう台詞でも、夜人に会えて本当に良かったという想いを込めて。伝えたかった。
 その結果に待つのが夜人の死しかなくても。
 今までやってきたことすべてが無駄ではないけれど、あのとき紅葉を引き止めていたら、会えて良かったという夜人の想いも消えてしまうから。
 吐息が白く溶けていく。
 夜人が生きたことも、自分が生きたことも、嘘じゃない。
 今は助けてあげられなかったけれど、いつか。助けてあげるから。
 いつか、私ではない紅葉が、きっと。
「……そうしてお主は諦めるのかえ?」
 力なく倒れた白亜に、伽羅は問いかけた。
 白亜の傍に膝をついて、眉を寄せる。
 瞳を伏せようとした白亜は薄くなった息で軽く笑った。
「諦める?」
 痛む体を宥めながら、霞む瞳で伽羅に視線を投げやった。
 相変わらず不思議な存在。死の匂いが充満するこの部屋の中、彼女だけは異彩を放ち、そんな情景とは無縁のようだ。彼女だけが極彩色の雰囲気をまとっている。
「諦めたら終わりだよ、伽羅。紅葉は絶対諦めない。しぶといんだ」
 願う気持ちは忘れない。
 諦め悪く告げると微かな笑い声が響き、瞳を凝らすと伽羅は可笑しそうに体を震わせていた。
「ねぇ伽羅、あなた本当は何者なの……?」
 聞き出せなくても良かった。ただ、ふと……最後に、聞いてみたくて呟いた。一瞬でも長く彼女と話していたい。
 伽羅は一瞬きょとんと瞳を丸くさせて微笑を浮かべる。
「妾は伽羅じゃ。そなたには、時を司る番人なる存在とでも言うておこうか」
「番人が護るべき物を失くしたなんて、呆れるわね」
「お主が盗んだくせして何を言うておる」
 怒りではなく、困惑を放つ伽羅に笑みを返そうとして――白亜は再び咳き込んだ。新たな血臭に瞳を閉じて小さく呟く。
「盗んだのは私じゃない、白亜よ」
 屁理屈のようなことを言ってみる。
 盗んだのは一度だけ。路地裏で殺されかけた白亜を助けた伽羅から、強引に奪い取った。
 紅葉は白亜から受け継いだだけだ。先ほど過去と渡った『白亜』もまた、受け継いだ。そしてきっと、次の『白亜』へ渡される。
 そうして紡がれていく、果ての見えないメビウスリング。
 それでも。
「いつか……紅葉は夜人を助けるよ」
 同じ時を何度繰り返そうと、今の私の存在は無駄じゃない。積み重なった矛盾はやがて大きな歪みを輪の中に作り出す。そうしていつか、繋がった道は解かれて新しい道が開けるだろう。先の見えない道は続いているのだから。
 進んだ道が過去になってしまっても、記憶が進むのは未来だけ。この意識が途切れても、何度も時を巡った宝石はすべて知っている。未来は永遠に続くことを。そして、続く限り紅葉は夜人を助ける道を探し続ける。未来はいつでも託され続ける。
「いつか……きっと」
「気の長い話じゃの」
 次の紅葉が未知を開くのかもしれないし、まだずっと先かもしれない。
 けれど。
 眠るように瞳を閉じて。願うから――……。
 一筋の光も失われた部屋から、静かに繰り返されていた呼吸が絶えた。

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