目次

幾千の星

 昼間に子どもたちと遊びすぎて疲れ果て、眠っていた紅葉は瞼をあけた。壁を壊す音に苦々しい思いが込み上げる。
「紅葉。今は暇だろう?」
 埃と共に入ってくるのは夜人だ。
 紅葉は眠って力が入らない体を必死で起こし、夜人を見る。熟睡中を起こされて不機嫌さは隠せない。ともすれば再び閉じてしまいそうな瞼を必死でこじあけて目を擦った。
「ちょっと来てみろ」
「なによ。私はもう眠いの。明日にしてよ」
 こんな深夜に訪ねて来るなど非常識も良いところだ。夜人に元々常識など備わっているのか怪しいものだが、紅葉は毒づいた。抵抗しても夜人の前では無力だ。寝台から引きずり下ろされた紅葉は欠伸を噛み殺す。
「今が一番いいんだって」
 舟を漕ぐ紅葉とは反対に、夜人ははつらつとした笑顔でそう告げる。そんな彼に殺意が湧く。
「んー」
 しかし殴るような気力も今の紅葉にはなかった。眠りへの誘惑が強い。夜人に手を引かれながら、紅葉は瞼を閉じて眠りへの誘惑に頷こうとしていた。夜人は構わず歩き出し、紅葉も渋々それに従う。
「今なら蓮夜もいないし、誰も起きてないしな!」
「んー……」
 紅葉は生返事を返す。肝心の内容は頭に入っていかない。
 夜人が手を引いているため瞼を閉ざし、少しでも眠気を満足させる。夜人が一緒なら怪我をすることもないだろうと思うのは信頼の証だろうか。
「――っ!」
 紅葉は足を踏み外した。
 一瞬だが無重力に陥って、息を詰まらせる。半覚醒だった紅葉は一瞬にして目覚め、近くにあった何かを反射的に抱き締めた。そのまま押し倒す。足を踏み外した衝撃のまま、心臓が強く早く脈打っているのを感じる。
「な……」
 何が起きたのか把握しようとした紅葉は、動けないほど強く抱き締められていることに気付いて眉を寄せた。
「うーん。寝ぼけてるっていうのは美味しい状況かもしれない」
 そんな声に視線を向ける。
 紅葉が下敷きにしているのは夜人だった。彼はしっかりと紅葉を抱え込んだまま、嬉しげに頬を緩ませている。
 紅葉は瞬時に沸騰した。
「この……っ、どさくさに紛れて何してるのよあんたはーっ!」
 怒鳴ると共に、容赦ない肘打ち。
「いってぇ!」
「人が寝ぼけてると思って!」
「寝ぼけてただろう!」
「黙れ馬鹿!」
 解放された紅葉は直ぐに夜人から距離を取った。
 睨みつけるようにしていたが、裸足に感じた芝生に瞳を瞬かせて辺りを見回す。
 いつの間にか外にいた。昼間とは比べ物にならない暗さだ。そして、少し肌寒い。寝ぼけている間に夜人が連れてきたのだろう。
 紅葉が寒さに体を震わせると、夜人はすかさず自分の上着を紅葉に被せる。
「夜人は寒くないの?」
「男だから」
 紅葉の問いかけに、夜人はそう答えた。
 半袖になった夜人は明らかに寒そうだ。しかし彼が言うのなら『男』とは寒くない生き物なのだろう、と紅葉は思い込んだ。
「上を見てみろよ」
 言われるまま見上げた紅葉は息を呑んだ。
 幾つもの小さな光が紺碧の空にきらめいている。昼間の空しか見上げたことのない紅葉には、初めて見る夜空だった。
「なに? なんで空があんなに光ってるの? あれはなに?」
 夜人に促されながら彼の隣に腰を下ろす。興奮を隠し切れない声で問いかける。
 その様子に夜人は笑ったようだ。しかし紅葉はそんなことも気にならないほど空を凝視していた。赤く染まる頬は寒さによるものだけではない。
「あれは星」
「星?」
 目が慣れてくると、光には様々な色があり、一色だけではないことに気付いた。見れば見るほど映る光が増えていく。
「俺らがいる“ここ”と同じようなのが、空にはいっぱいあるんだ」
「あんな小さい光に人が住んでるってこと?」
 紅葉が眉を寄せると夜人は笑う。
「ここから見ると小さく見えるけど、近くまで行けばかなりの大きさになるんだ」
「ああ……こうして隣にいるのと遠くにいるのとでは、私の目に映る大きさが違って見えるってことね?」
「そうそう」
「じゃあ私たちが今いるここも、遠くから見ればあんな風に光って見えるの?」
 紅葉は興味深そうに地面を眺めた。星と同じように、地面も夜になれば光りだすのかと思った。
 純粋な疑問に夜人は首を傾げる。困ったように「うーん」とうなる。
「光る星と光らない星がある。俺らがいるここは確か、光らない。遠くから見れば青く見えるっていう話なら聞いたことがあるが」
 今はもう青くないかもしれないがな、と夜人は小さく呟いた。
 紅葉は良く分からないまま「ふーん」と頷く。地面を見つめなおし、昔は地面も青かったのかと妙な納得をする。再び夜空を見上げた。
「……綺麗」
「だろう? こんなに天気がいい日じゃないと見れないからな」
「うん」
 普段は温暖化ガスのせいで、頭上は分厚い雲に覆われている。空自体を見ることも困難だ。このように晴れた空を見るのは数週間ぶりのような気さえする。
 食い入るように見つめると、夜人が嬉しそうに笑う。
「ずっと見てたい。でも、昼には消えちゃうんだよね……」
 今までも何回か空を見上げたことはあったが、このような星空というのは一度も見たことがなかった。もう一度見たいと思ったときは、夜人に頼んで連れてきて貰うしかないのだろう。そのことが残念で、紅葉はため息を零す。
「消えるわけじゃない。ただ、昼間は星の光より強い光があるから、あの光が目立たないだけだ。昼間でも、そこにあると分かって目を凝らせば、見えてくるものがある。同じ場所で光り続けてるから」
 紅葉は夜人を振り返った。穏やかな声音の彼がどのような表情をしているのか気になった。
 視線の先には、声と同じく穏やかな笑みを浮かべた夜人がいる。空を見上げていた。
 その表情が胸を衝つもので、紅葉は鼓動が早まるのを感じながら「そっか」と頷いた。
「今まで空の向こうにこんな綺麗なものがあるなんて知らなかった。ありがとう、夜人」
 滅多にない素直さに夜人は驚いたようだ。けれど嬉しげに満面の笑みを浮かべる。次いで、大きなくしゃみをした。決まらない男である。
「男は寒くないんじゃないの?」
 それなのになぜくしゃみをするんだろう、と紅葉は不思議そうに首を傾げた。
 夜人が「当然よ」と鼻を啜ることしかできなくても、それは自業自得。



 次の日の夕方、箱庭に迎えに来た蓮夜が厚着をしているのを見て、
「蓮夜はどうしてそんなに厚着してるの? 夜人は寒くないって言ってたけど」
 と首を傾げた紅葉に、
「寒いからに決まってるだろう。私と夜人を同じ基準に置いて考えるな」
 と不愉快そうな声が返されたことは、また余談である。

目次