奴は敵
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1.

 鹿威《ししおど》しの澄んだ音が静かな山々に広がっていく。綿帽子をかぶる目の前の絶景と冷たい冬の空気が心を癒していく。鹿威しの音が吸い込まれ、再び鳴り響く。
 ――鹿威しというのはあれだ。高級和食料理店のテレビCMで見る、日本の文化だ。竹筒に水が溜まっては純朴な音を響かせるものだ。
 ミニチュアで蓄えた知識はあるが良く知らない。万年貧乏なので高級店など入れない。それなのに現在はこうして実物を拝む機会に恵まれているのだから、人生とは謎である。
「山はお好きですか?」
 ひたすら山ばかりを眺めていたからだろうか。背後からそんな声がかかった。
 若菜は片眉を上げる。先ほどからあえて彼の存在を無視していたが、声をかけられてまでその態度は貫けない。外聞がある。引き攣りそうになる頬を持ち上げ、できる限りの笑顔で振り返る。
「登りは好きですけど、下りはいつの間にか駆け下りる羽目になるので苦手です」
 ため息つきたいのを我慢して告げる。
 視線の先には長身男性の姿があった。袴姿だが、若菜は気にしない。なぜなら若菜自身も成人式でしか目にしないような振袖をまとっていたからだ。笑える立場にない。自分のことを棚上げできるなら「何この男」と冷ややかに距離を置けるだろう。
 生憎、そうはならないのが現状である。
 若菜はため息をつきたい衝動に襲われて我慢した。
 目の前の男は、扱き下ろすのが躊躇われるような容貌をしていた。顔の美醜に頓着しない若菜でも、素直に“格好良い”と思わせる。
 男は若菜の返答に面食らったような顔をし、顔を背けた。肩が小さく震えている。笑いを堪えているのかもしれない。
 若菜はさほど不愉快にも思わず眺め、再び視線を山に戻した。
 先ほどまで側にいた母親の姿はここにない。
「あとは若者たちだけで――」
 使い古された文句を恥ずかしげもなく使って立ち去った。
 若菜はよっぽどその足をつかんで引き止めたかった。
 思い出しながら視線は鋭くなる。
(なーにが“若者たちだけで”よ。私にその気はないって知ってるんだから、適当な理由つけて断ってくれてもいいじゃない)
 若菜は拳を握り締める。
(先月の申請忘れてた私が偉そうに言える立場じゃないけど、それにしたって神経疑う。このまま私が結婚なんてしたら誰が阿部家を支えていくの。私はこんなところにいるより、帰って仕事がしたいだって。今なら時間外手当もしっかりつくし)
 男には聞こえないよう不穏な呟きを洩らす。表情には表れない。親友からも笑われるほど表現力が欠けているらしい。全開で笑うか怒るかしない限り、周囲には伝わらない。そこで備わったのは演技能力だった。
 若菜はそんなことを思い出して憮然とする。
(いつも全開で笑っていられるか)
 作った微笑みは消えていた。若菜は睨みつけながら山々を観察する。そうしながら、この場を断る穏便な言葉を考える。
「若菜さんは今まで結婚を考えなかったんですか?」
「ええ。今は仕事で精一杯ですので」
 背中で全力拒否を訴えているのだが、男には気にした様子もない。きっととんでもなく鈍い男なのだろう。若菜は舌打ちしたくなる。再び笑みを浮かべ、振り返って男に頷く。
(だって考えてもみなさいよ。高校卒業で就職できたのは上出来。でもこのご時世、リストラなんてものに遭ったら次の保証はないのよ)
 若菜は、現在も就職活動中の友人を思い出した。
 彼女によれば面接で「これから結婚しますよね?」と断る会社もあるらしい。また別の、結婚した友人の話によれば「これから子どもを産みますよね?」と来るらしい。
(だから何。子どもを産んじゃいけないっていうの。この少子化の時代に)
 思い出すにつれて腹が立つ。
 さらに付け加えるなら「小さいうちは子どもも手がかかるんじゃないですか」「そろそろ年齢が厳しいんですよねぇ」というパターンもあるという。
(ふざけてる。なら働きたい女はどうすればいいっていうの。男にはそんなこと言わないくせに。これって男女差別じゃないの)
 若菜は側にいる男の存在など忘れて怒りに没頭した。沸々と湧き上がる怒りは静かに高まっていく。それに比例して表情も険しくなっていくが、端からはあまり変化のない表情だった。
(だから今のうちに頑張って稼いでおかないと。何しろ私の家は貧乏なんだから)
 唇を引き結んで自分の世界に入った若菜は、右手で力いっぱい握り拳を作った。男に笑われようと気にしない。
「仕事に打ち込む女性、俺は好きですよ」
「そうですね。私も頑張る女性は好きですよ」
 同意すると沈黙が返って来た。
 男はひとつ咳払いして若菜の隣に並んだ。
 若菜は不愉快に眉を寄せる。大きな男の影に隠されてしまいそうだ。
「結婚は考えないんですか?」
「両立できるほど器用ではありませんので、考えたことはないですね」
 若菜はここぞとばかりに断言した。穏便に断る方法などもう知らない。男の戸惑う気配を感じ取る。
「えーと……それでは、この縁談を受けたのは……」
「仕事が忙しくて免除申請するのを忘れていました。それに、免除申請には五千円もかかりますし、もったいないんですよね」
 若菜には珍しく、初対面の人に強気で吐き出していた。先ほどまでの怒りの延長だ。
 さすがに男は絶句したようだ。
 若菜は隙を逃さない。背筋を伸ばして男に向き直る。
「そういう訳ですので、この縁談は不成立にして下さい。お手間とお時間を取らせてしまい、申し訳ありません」
 二の句を告げさせずに若菜は頭を下げた。頭を上げると、もう男を見ることもなく踵を返す。ここで声をかけたりしたら、同じことの繰り返しだ。新しく制定された法律によって、このようなことは日常茶飯事だ。残された男に同情するなど似合わない。若菜は若菜で切羽詰っている。
 若菜は真っ先に来月の免除申請を済ませて来ようと心に決めた。
(ったく。よくも面倒な制度作ってくれたもんだわ)
 鹿威しが響く和風庭園を足早に通り抜けながら、若菜は苛立ち交じりのため息を吐き出した。


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 休日の昼下がり。
 テレビを見ながら居間で寝転がっていた若菜は、母親の声に顔を上げた。
「若菜。結婚推進案が可決されたらしいわよ」
「うわ。最悪」
 若菜は顔をしかめて床に打ち伏せたあと、苦々しい想いを抱きながら起き上がった。
 少子化が進んで人口が減り、国が国として機能しなくなる危機を目前に控えた時代だ。政府は一つの案を提示した。即ち“結婚推進案”。世間に発表されたときには凄まじい議論を呼んだものである。
 若菜は唸り声を上げた。
 可決によって何が変わるのかといえば、二十歳以上の独身者に、定期的な縁談が与えられるようになるということだ。一ヶ月に一度の頻度で縁談はやってくる。若菜のように結婚願望がない者にとっては迷惑極まりない法律である。
 もし付き合っている人がいるのなら、婚姻届ならぬ恋人届けを提出し、政府に“恋人”であると認めてもらわなければならない。そうすれば縁談の話は来なくなる。しかし、もし別れてしまえば再び縁談が来る。笑えることに、別れた後には“失恋療養期間”として二ヶ月の縁談特別免除も設けられていた。
 政府公認の出会い系とでも言えば良いのか。若菜のようにどうしても縁談したくない者には縁談免除申請が認められるが、申請には手数料五千円も必要となる。政府はどうしても結婚者を増やしたいらしい。働き始めたばかりの若者に、金銭的な余裕があるとは思えない。
 結婚しないつもりで縁談を受けるか、懐が痛むのを覚悟で五千円を払い続けるか。恋人など必要とせず働き続けたい若菜にとって、かなり不利な条件だ。
「それって、いつから実施?」
「結構早いわよ。来月から」
「はやっ」
 由紀子に近づき、若菜も新聞に目を通した。
「うわ……本当だ」
 新聞には大きな見出しが一面を飾っていた。新しい法律に誰もが希望を見出しているらしい。
(って言ってもどうせ大人たちばっかりで、新米大人の意見なんて滅多に取り上げられないんだろうけどさ)
 法案は可決され、実施される日も決まった。年金課や教育課と同列に並ぶ“恋人課”が新設されるらしい。公務員募集の倍率がとんでもなく高くなったことまで、新聞には載せてあった。
 恋人課ができるということは、教育課長や総務課長と同じく、恋人課長もできるということだ。絶対に慣れそうにない名称である。聞いたら吹き出すかもしれない、と若菜は思った。
「若菜は来月からどうするの?」
「免除申請するに決まってる」
「あらそうなの? もったいない」
「冗談じゃないよ。そんな面倒なこと」
 むしろ私の代わりにお前が行け、と言いたい気分で若菜は手を振った。由紀子の残念そうな声など無視をする。市役所の窓口が人で溢れ返るだろうことを想像すると、それだけで気分が悪くなる。
(私にとっちゃ結婚するよりお金貯める方が先決なの。男なんかと一緒にいてもつまんないし、乱暴だし、不愉快だし。五千円は痛いけど、こうなったら仕方ない)
 若菜は苦々しい思いを振り飛ばすようにかぶりを振った。思考を変えたくて辺りを見回す。テーブルの上にハガキを一枚見つけて眉を寄せた。
「今月の光熱費、また滞納してるの?」
「だって、お父さんの給料、来月じゃないと入ってこないって言うんだもの」
 ハガキを手にして問いかけると、由紀子は決まり悪そうに歯切れ悪く呟いた。首を傾げて可愛らしく微笑まれても、若菜の表情は強張ったままである。
「だからっ、なんで……ああもういい!」
 胸の燻りを言葉にすることなく自己完結する。自分の鞄を手繰り寄せ、先日受け取ったばかりの給料を取り出した。察した由紀子は居住まいを正してそれを待つ。
「……ん。今月の給料」
「はい。いつもご苦労さまです」
 若菜は給料の半分を由紀子に渡した。高校卒業して直ぐに就職した若菜には大層な金額だ。贅沢をすることもないので、給料の半額を渡したとしても生活に支障はない。
 由紀子は深々と頭を下げて給料を受け取った。
「来月も頑張ってね。若菜」
「なんか、ムカつく」
 若菜はため息をついた。
 手元に残った半額の給料を握り締めて、“結婚推進案可決へ”と大きく見出しが載った新聞を睨みつけた。

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