奴は敵
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2.

 若菜は男を残して歩きながら、可決されたときのことを思い出していた。
 慣れないことをすると心が疲れる。今日が休みで本当に良かったと思う。
 どうせ断ると分かっているのに着物を用意した母を恨めしく思う。着物など着ているせいで、余計に疲れた気がする。
 若菜はまとう着物を見下ろした。
 成人するとき由紀子がなけなしの貯金で購入したものだ。
 若菜としては、日常生活にあまり需要がない着物にお金などかけるのはもったいなく、レンタルにしようと訴えたのだが、由紀子は頑として譲らなかった。誰かの結婚式や同窓会、お正月にも着る機会はあるでしょうと、強引に購入を決めたのだ。
 背が低いため柄が大きな着物は似合わない。若菜がまとうのは上半身から裾にかけて小さな花が細かく描かれ、赤から紫へと見事なグラデーションをかける、鮮やかな地色の着物だった。
 価格だけは妥協できなかった若菜が『訳あり大処分市』に由紀子を誘導して購入したものだ。それでも由紀子が満足する質で、若菜が納得する価格の物があったのだから、大収穫と言える。どの辺りが『訳あり』なのかは注意して見ないと分からないほどだ。着物の見事さは、若菜でも感嘆して見惚れるほどだった。
 若菜は眼鏡の位置をずらした。成人式で、友人に「化粧した顔に眼鏡は似合わない」と切って捨てられたことを思い出す。なんでコンタクトにしないのだと、友人たちの不満そうな声がいつまでも追いかけてくる。
 かなりの近眼で、眼鏡のレンズは分厚い。外すと輪郭を捉えることすら危うくなるが、色だけは鮮やかに認識できる。まるで眼鏡が曇っていたのではないかと思えるほどだ。だが、日常生活でそこまで鮮やかな色を見たいわけではない。必然的に、眼鏡を外すことはない。
「若菜!」
 名前を呼ばれて振り返る。置き去りにした男が追いかけてくるところだった。
 若菜は思わず眉を寄せる。呼んだのは別の人だろうかと捜したが、周囲に人はいない。となれば、呼び捨てにしたのはこの男、ということになる。奇妙な不快感を覚えた。
 慇懃に進めてきたが、逆に厄介ごとになってしまったのだろうか。初対面の男に呼び捨てにされて何も思わないほど、若菜は無頓着ではない。
「まだ何か?」
 若菜は淑女声を払拭して低い声を出した。
 男が目を丸くする。
 そんな様子を若菜は半眼で見つめた。親しい友人には大いに笑われたものだが、初対面の者には大きな猫を被る癖がついているらしい。
「あ、えーと」
 男はためらうように視線を逸らしたが、意を決したように口を開いた。
「俺と付き合ってくれない?」
「お断りします」
 若菜は低い声のまま断った。
 先ほどまでの言葉を聞いていなかったのかと、笑みを消して睨みつける。用件がそのことならばもう聞き入れない。直ぐに立ち去るべく踵を返す。けれど、男に腕をつかまれた。
「待てって!」
「触るな!」
 つかまれた瞬間、強い悪寒が全身を走った。思わず若菜は乱暴に振り払う。男は驚いたように双眸を瞠った。
 そんな様子に若菜は罪悪感を覚えた。舌打ちしたいのを堪えて口を開く。
「言ってませんでしたけど、私、男嫌いなんです。触られると問答無用で殴りたくなります。触らないで下さい」
 これは警告、と告げると男の瞳が戸惑ったように揺れた。
「なら、逃げないで欲しい」
「初対面の男に馴れ馴れしくされるのも嫌いです」
 育つ苛立ちに、言葉にも余裕がなくなっていく。
 そんな自分を不思議に思いながら若菜は告げた。いつもならこれほど苛立ちを募らせることもない。しかし、目の前の男を見ていると、それだけで憤りが湧いてくる。眼光は鋭くなっているだろうことを自覚しながら、若菜は直そうとせずにそのまま男を睨み続ける。
 ――斎藤厚志。
 見合いの席に着く前、由紀子から渡された情報を思い出した。
 心のどこかに引っ掛かりを覚える名前だが、“斎藤”の名字などありふれている。昔の同級生に同姓同名がいたのだろうと、気にしない。
「やっぱりそっちが本性だよな」
「は?」
 男が苦笑した。若菜は眉を寄せる。
「本当に変わったのかと付き合ってみてたら、最後の最後でそれか」
「……なんの話」
 男の雰囲気が変わった気がして若菜は身構えた。
 言葉になど耳を貸さず、そのまま立ち去ってしまえば気付かずに済んだのかもしれない。けれど若菜はそのまま黙って男の言葉を待っていた。これが間違いだったのだと、後から思い出しては叫びたくなるのだが、今の若菜にそれは分からない。
「免除申請は俺も賛成だ。由紀子さんからお金を使わせないで欲しいと頼まれていたからな」
「由紀子って……お母さん?」
 突然出された母の名前に双眸を瞠る。予想もしていなかった名前だ。
 厚志は肩をすくめて若菜の右手を取った。嫌悪感が湧くが、若菜はそのままにする。母の名前がなぜここで絡んでくるのか、知ることが先だった。
「母の知り合いですか?」
「まぁ、知り合いといえば知り合いだが」
 含みのある言い方に若菜はますます混乱する。苛立ちを覚えて奥歯を噛み締める。薄笑いを浮かべる男の態度が気に障る。
 場所は店の玄関口だった。そこで問答を続けていれば、必然的に従業員の好奇心を集めてしまうものだ。現に若菜たちは、先ほどから渡り廊下を過ぎていく仲居さんたちに注目されていた。こそこそと耳打ちして去っていく彼女たちの姿を見れば居た堪れなくなってくる。いつまでも手を放そうとしない男を睨みつける。
「いい加減に思い出さないか? お前との縁談が舞い込んできたときに連絡があったから、断らずにわざわざ場所も選んで来てやったっていうのに」
 男の言い方に怒りが湧いた。まるで若菜が悪いと言っているようだ。このような縁談は若菜としても願い下げだというのに、男の言葉は上から目線だった。本当に先ほどまで一緒にいた人物と同一人物なのかと疑ってしまう。
「由紀子さんと契約をした」
「契、約?」
 若菜の背中を冷たいものが流れ落ちる。
 なにしろこれまで、由紀子が絡んでいたことで良い思いをしたことがない。
 高校の卒業式に、生徒は成人服を着て行くのだと思い込んでいた由紀子は、卒業式の前日に制服をクリーニングに出した。卒業したら全員二十歳になるのかよと若菜は怒鳴りつけた。
 自転車のブレーキがおかしいから明日は自転車屋さんに持っていくと若菜が告げれば、自分で直して驚かせようと思ったらしい由紀子がブレーキにオイルを垂らして滑りを良くした。翌日、若菜は驚いた。ブレーキが効かずに死にかけた。
 すべて好意から出る由紀子の行動だが、哀しいことにすべてが裏目に出ている。
「なんの契約」
 今まで降りかかった様々な災厄を思い出しながら若菜は尋ねた。本音を言えば、何も聞かずに帰りたい。しかしそうもいかない。何も知らずに死にかけるのはもう嫌だ。
 厚志が楽しげに笑った。
「恋人契約。わざわざ免除申請してお金を減らすより、いっそのこと俺たちが婚約して恋人申請するという契約」
「……は?」
 言葉は若菜の思考を滑り落ちた。
「そういう訳だ。これからよろしく頼むな、阿部若菜」
 若菜の手をつかんだままだった厚志は、その手を強く引いた。若菜は倒れこむ。抱き締められ、契約成立とばかりに頬に口付けられた。
「ぁんのババア……――っ!」
 全身を包んだ悪寒に身を震わせて厚志を突き飛ばす。
 両手を拳に握り締めながら、怒りに震えた。

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