奴は敵
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3.

 理不尽な契約を黙って了承するほど、若菜は内気な性格ではなかった。
「本人の承諾なしの契約なんて無効だ!」
 声を荒げた若菜に厚志は笑う。そしてとんでもない物を取り出してきた。
 若菜が決して断れない何か。
 それは。
「……借用書……?」
 鞄から取り出された封筒。そこから出された薄い一枚の紙。
 いったいそれが何だというんだ、と怒りを滲ませたまま睨んだ若菜は、内容を理解した途端に青褪めた。
 取り出された紙の見出し部分には、太文字で“借用書”と記載されている。
 借用書とはあれである。AさんがBさんにCを借りたことを、忘れないでBさんに返しましょうという約束事を記した証明書である。
 若菜の理解度数が幼稚園児にまで下がったが気にしない。
 そんな証明書を厚志がこの場面で取り出したということは、その借用書が若菜に絡むことは必然。視線を滑らせていくに従い、段々と状況が飲み込めてきた若菜の手は震えていた。
「……契約者、阿部由紀子。取扱者、斎藤厚志。……借用物……ひゃく、万円。担保……阿部、若菜……?」
 最後まで読み上げたものの、言葉は脳まで達しなかった。蒼白になった若菜はただ喉が震えたのを感じた。自分で何を言っているのか分からない。視線を上げると実に楽しげな厚志が映る。現実逃避なのか、その笑顔が誰かを彷彿とさせた。首を傾げた若菜は直ぐに現実に戻される。
「で、その代わりにこの契約。俺もいい加減に鬱陶しくなってきたからな。毎回免除するのも面倒くさい」
 若菜はそのまま引き破りそうな面持ちで借用書を握り締めていた。厚志はそれを取り上げると肩を竦める。
「お前にとってもいい契約だと思うが? こっちだって本気でお前に恋人を求めている訳じゃないし」
「……その前にちょっと待て」
 恋人契約へとそのまま話が流れかけたのを悟って若菜は遮った。まだ正常に働かない頭を軽く振り、封筒に戻された借用書を指差して言い淀む。
「その、今のをまとめるけど」
 若菜の声は弱々しい。
「それって、私のお母さんがあんたに、借金したってこと……よね?」
「飲み込みが早くて助かるぜ」
「その金額が100万円ね?」
 再び厚志が頷く。
「サラ金から借りるよりはいいと思うが。俺は利子なんてつけないし」
「えーと?」
 まとめながら再び混乱してきた若菜はうなって頭を抱えた。
 本当は分かっている。ただ、現実を認めたくなくて混乱しているだけだ。
 若菜は両手を下ろすと呟いた。
「私……お母さんに売られた?」
「売られたって言い方は違うと思うが」
 さすがに若菜の様子を心配に見た厚志が身を屈める。声は少しだけ焦って聞こえた。宥めるように若菜の両肩に手が置かれる。その手はやはり、女とは違って大きいなと、まったく別の方向に意識を飛ばした若菜は両手を硬く握り締めた。
 現実味のない悪夢のような出来事だ。これまで由紀子がしでかしてきた中で、最も嫌な出来事だ。
 親に売られたと、テレビドラマのように泣くのもいいだろう。
 しかし若菜は生憎と、泣いて諦めるような性格ではなかった。黙ったまま享受するような性格でもない。負けず嫌いで自立心旺盛で結構な頑固者。そんな自分の性格は自覚している。更に言えば、虚勢を張るのも得意だ。
「あの野郎……ぶちのめす!」
 低く低く、声を絞り出す。
 厚志を見上げた若菜の目は据わっていた。


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 店の外に停められた厚志の車に乗り込み、若菜は有無を言わせず発進させた。自宅まで行くよう指示を飛ばしながら、由紀子をどうしてやろうかと不穏な考えを渦巻かせる。
 自宅までは1時間ほどで着いた。
 玄関の扉を開け、気合を入れて由紀子を問いつめる。
 その返答は簡単なものだった。
「だって固定資産税が足りなかったんだもの」
 若菜が握り締めた拳を震わせるくらいにケロリとした返答だった。
「知ってるでしょう若菜。うちは貧乏だし、母さんは借金が嫌いなの」
 ブツリと若菜が切れたのも無理はない。
「私だって知ってるし嫌いだけど! ならこれは借金とは言わないのか!」
 厚志から取り上げた借用書をテーブルに叩きつける。
 親と子どもの立場がまるで逆だ。若菜は苛々と由紀子を睨みつける。
(この母がしっかりしないから私が必要以上にしっかりしなきゃいけなくなってくるんだ! ああもう、本当に腹が立つ!)
 怒り心頭の若菜を目の前にしても由紀子は微笑んでいた。両手を組んで軽く顎の下に当てるその仕草が憎らしい。若菜の怒りなど日常茶飯事になっているので、動揺もしないのだろう。図太い神経である。
「貴方たちが無事に結婚してくれれば借金はチャラよ、若菜」
 若菜は怒鳴ろうとしたが言葉が出てこなかった。由紀子の瞳は真剣だ。本気でそう思っているだろうと窺える。若菜は息を吸い込み、そのまま目の前が真っ暗になる。気付いたら背後で成り行きを見守っていた厚志に支えられていた。頭が痛い。
 若菜がどれほど嫌がり怒っても、由紀子には受け流されて周囲には追い詰められる。どうやら本気でこのまま恋人契約を遂行せざるを得ない状況に陥ったようだ。
(貧乏って嫌よね)
 あまりに頭に血が昇り過ぎたらしい。薄れ行く意識の中で、若菜はそう思った。そして直ぐに否定した。
(こんな母親の性格が一番嫌だ)
 最後の最後でそう訂正し、若菜はそのまま倒れた。

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