奴は敵
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4.

 今でも初恋を覚えている。
 小学校一年生のときで、若菜の一目惚れだった。
 幼稚園の頃に一緒に遊んでいた男友だちとはクラスが離れてしまって寂しかった。由紀子と一緒に教室に入ったものの、母親は子どもたちを席に着かせると出て行ってしまう。始業式のため、体育館へ移動するのだ。教室に残された若菜は担任が来るまでの時間が異様に長く感じられて心細く、辺りを見回した。
 初恋の人に出会ったのはそんなときだ。
 隣の席だった彼はニコリと笑って握手を求めてきた。
「友だちになろう?」
 と。
 それが凄く嬉しかったのを覚えている。勢い良く頷いたことも覚えている。
 のちに、後ろの席になった女の子からも同じことを言われて嬉しかった。けれど一番最初に声をかけてくれた男の子に、若菜は一目惚れをした。そしてその日から、下校を一緒にする日々が始まったのだ。
 教室では色々と元気に話しかけていたけれど、下校で二人きりになると気軽に話しかけることはできず、ただ黙々と彼の後をついていった。それでも時折こちらを気遣うように彼が振り返ると、それだけで満たされる。一緒にいるだけで幸せで、最初のような笑顔を向けられるともっと幸せになれる。手を繋ぐこともできない初々しい初恋だったが、壊れるのは案外早かった。
 それまで一緒に遊んでいた男友だちと遊ばなくなり、初恋の人とばかり一緒にいるようになった。その方が楽しかったのだ。
 しかしそれが男友だちの嫉妬心に火をつけたらしく、横槍を入れられた。周囲の目を気にし始めた微妙な年頃の初恋相手はあっさりと身を引いた。
 ――あっさりと身を引かれたことが胸に突き刺さって、それはいまだ抜けず、そのままになっている。
 そう、思い出した。
 若菜は夢の中でそう思う。
 初恋相手の名前は西山勝俊。そして、初恋の邪魔をした男たちのリーダー的存在だった男の名前は、斎藤厚志。大人になった現在は、由紀子が借金をした相手。そして若菜の恋人候補に名乗りを上げた男の名前だ。
 できれば一生思い出したくない記憶だった。
 小学校を途中で転校することになった若菜は、過去は全部忘れて新しく生きようと思っていたのだ。
 せっかく忘れていたのに――ああもう、どうしてくれようこの気持ち。


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 意識を浮上させると低い震動を感じた。流れる景色から、どうやら車に乗っているようだと悟る。体を動かそうとすると窮屈で、シートベルトをさせられていると気付いた。
 眉を寄せる。
 本格的に状況を把握しようと起き上がったとき、隣から声がかけられた。
「なかなかに壮絶な母親だな」
 運転席にいたのは厚志だ。着替えたようで、今はどこにでもいるサラリーマンに思えた。皺のないスーツがとても良く似合っている。
 どうやら若菜が倒れていた間にも話は進んでいたらしい。目の前には署名の済んだ恋人届が置いてある。車は市役所へ向かっているようだ。
「……誰が着替えさせたの」
 若菜はまず怒りを堪えて聞いた。
 嫌でも目に入る鮮やかな着物の代わりに、今は普段着としているTシャツを着ていた。自分で着替えた記憶はないため、誰かが着替えさせたことになる。笑う厚志を睨みつける。
「俺。って言ったらどうする?」
「運転席から蹴り落とす」
 現在、制限速度を守って60キロで走行中だ。確実に後続車に轢かれるだろう。
 厚志はおかしそうに声を上げて笑った。その横顔には昔の面影が残っている気もしたが、まったくの別人にも見えた。赤信号で停車すると、若菜に視線が向けられる。
「着替えさせたのは由紀子さん。俺は車で待機。お前が起きたらまたうるさいからって、目が覚める前に事を済ませる予定だったらしい」
「なんつー母親……」
 若菜は力なく脱力した。由紀子の行動を聞かされても、もう怒りすら湧かない。
 車のボードに上げられていた一枚の紙に視線を移す。
 先ほども見た、恋人届だ。それを市役所に提出すれば、それだけで若菜と厚志は恋人だと認められる。これからは政府からの縁談要請も来なくなる。
 法案内容を思い出しながら、若菜は複雑な気分だった。
「まぁ、借金を返して貰うっていうのは最初から考えてなかった」
「え?」
「俺もこの縁談制度が面倒になってきたって言っただろ? 適当な奴を見つけて契約してもらおうかと思ってた。そんなときにお前との縁談が来たんだ。だから、あの金は契約料として受け取ればいい。若菜が契約を受けるなら返さなくてもいい」
 若菜は予想外の申し出に瞳を瞬かせるとうなった。
 厚志の提案はかなり美味しい話だ。100万円とは大金である。返すとなればそれなりに大変になるだろう。特に阿部家は火の車であるため、余裕は本当にないと言っていい。宝くじが当たったような感覚だと思えばいいのだろうか。とても助かる。
「それって、いつまでの契約で?」
 厚志は笑った。若菜が乗る気を見せたのがおかしかったのだろう。
(そりゃ自分でも確かに現金だとは思うけど仕方ないじゃない。世の中金よ、金。そればかりじゃないけど稼げるときに稼ぐのは基本よ)
 若菜は胸中で妙な言い訳をする。
「……いいわよ、受けても。鬱陶しい意味では私も一緒だし、引き受けてやろうじゃない」
 本来なら若菜が頭を下げるべきことなのだろうが、あくまで尊大な態度で告げた。厚志は満足そうに微笑んで頷く。
「――けどひとつ、言っておきたいことがあるんだけど」
 これでひとつ肩の荷が下ろせたぜと、安心した様子を見せる厚志とは裏腹に、若菜は硬い表情を見せた。この状況を易々と飲み込む気はない。このままでは厚志に借金という負い目を抱いていくことになる。それを封じる意味で、若菜は続ける。
 厚志は運転しながら横目で若菜を見て、不思議そうにしている。若菜は硬い表情を変えぬまま彼を見つめ続けた。
「私、幼馴染に初恋を壊された思い出があるんだけど」
 ぴくり、と厚志の横顔が不自然に引き攣った。それは何気ない変化だったけれど、見極めるために厚志を見ていた若菜は見逃さなかった。そして確信するのだ。やっぱり、と。
「斎藤厚志。東京生まれ。小学校は皐月林卒業。そして幼馴染の初恋をぶち壊した経歴がある、と」
 厚志は嫌そうにうなった。
「いつから思い出してたんだよ。さっきまで他人行儀を崩さなかったくせに」
 呟く厚志は忌々しそうだ。そんな様子に若菜はひっそりと笑みを零す。
「ここには親父の関係で引っ越して来たんだ。お前がこっちに来てたこと、すっかり忘れてたしな」
 不可解な台詞に眉を寄せた若菜だが、聞き流すことにした。再び赤信号となり、車が停まったことを確認する。
 若菜は厚志に改めて体を向けた。ギアを握る彼の左手に、自分の拳を振り下ろした。
「痛……っ!?」
 痛い、どころではないと思う。若菜は鼻を鳴らして前を見た。
 信号は直ぐに変わる。青信号になったが進まない車を不審に思ったのか、後続車がクラクションを鳴らした。反撃しようとしていた厚志は慌ててギアを入れ替え、発車させる。恨みがましい視線を向けられても構わない。不機嫌を装って、顎を逸らして見せた。
「私は厚志に借金っていう貸しがあるけど、厚志にだって私に貸しがあるってこと、覚えておいてよね」
 これまでのことを思い出しながら若菜は両腕を組んだ。
 縁談の席で淑女を演じていたときから、厚志には分かっていたのだ。それを思うと悔しい。自分を知っている者に見られていたと知るほど恥ずかしいこともない。
 殴られた意味を理解できたのか、厚志は苦笑まじりのため息を零しながら肩を竦めた。
「執念深いな」
「お前に言う資格はない!」
 一瞬で頭に血が昇った若菜は、今度は彼の肩を叩こうと手を上げる。しかし厚志は読んでいたのか、さすがに止めた。簡単に腕でガードする。
 殴るという行為は必然的に手が痛くなるものだが、硬い男を殴ればさらに痛いらしい。若菜は歯を食いしばって痛みに耐える。呆れた視線を向けられると、非常に悔しかった。
「――そういう訳だけど、ひとまず恋人にはなってあげる」
 ちょうど車が役所に着いたところだった。厚志は慣れたハンドルさばきで、一度もやり直すことなく停めてみせる。車の運転は自然そのものだ。ペーパードライバーをせざるを得ない若菜は非常に羨ましい。
「あれは今思い出しても物凄くムカつくから、絶対に妥協はしてやらないけど」
 厚志が肩をすくめた。
「あれは西山が根性なしだっただけだろう」
「そうよ」
 初恋相手を侮辱されて怒るどころか、若菜はあっさりと肯定した。厚志が驚いたように瞳を瞠らせたが、若菜は動じない。
「私はあれで悟ったの。男をあてにするなんて冗談じゃないって。だから、自分でひとり立ちするしかないのよ、この世の中は」
 昔の武士道精神を持つ者など存在しないだろう。
 いったいお前は男に何を求めてるんだと突っ込まれそうなことを脳裏に浮かばせながら、若菜は厚志を睨みつけた。
「私にとって厚志は敵よ、敵」
「……敵?」
 不思議そうに繰り返した厚志の口許には、徐々に笑みが浮かんでくる。面白がっているのだ。
「そうよ。目には目を。歯には歯を。ハンムラビ法典」
 真剣な眼差しを厚志に向けて親指を立てると、厚志は次の瞬間、腹を抱えて大笑いした。ハンドルに頭を乗せて、堪えきれないように笑う。肩が大きく揺れている。
「ってことは、俺はお前に何で仕返しされるわけだ?」
 涙を滲ませた瞳が若菜に向く。その表情から笑みが消えることはない。次は何を言うつもりなのか、わずかな期待すら感じられる。
 若菜は厚志の表情に一瞬だけ言葉を詰まらせたが、うろたえるのは悔しくて、笑顔の仮面を被った。厚志の笑みが深められる。
「同じよ。もし厚志が誰かと付き合おうとしたら、一回だけ私がぶち壊してやる」
 言い切ってから若菜は顔をしかめた。これではかなり嫌な女だ。
 そうは思っても後には引けず、厚志を睨み続ける。
 対して、厚志は興味なさそうに「ふーん」と呟いただけだった。体を反転させると、後部座席から鞄を引っ張り出す。取り出した封筒に、ボードの上に置きっぱなしになっていた契約書を入れる。
「じゃあそれまで当分、若菜はこの契約を続けるってことになるけどな」
「それこそ望むところよ。私がその契約を続ける限り、厚志は他の恋人を作るなんてできないでしょう。私にとっては条件もいい。見てなさいよ。絶対に後で泣かせてやるから」
「へぇ。お前、あのあと泣いたんだ?」
 簡単に逆鱗に触れる台詞に若菜は肩を怒らせた。
「うるさいな、泣いたよ悪かったな! 私だってあの頃は今よりもっと弱かったんだよ!」
 若菜は厚志から鞄を奪い取った。憤然と車を下りると市役所へ向かう。
 背後で車の鍵がかかる音がした。小さく振り返れば厚志が悠然と追いついてくるところだ。若菜が幾ら早足を心がけても、厚志の方が断然足が長いので、簡単に追いつかれてしまう。
 若菜は厚志を睨みつけた。
 何の脈絡もない睨み付けに厚志は戸惑ったようだが、若菜は説明しない。視線を前に戻してそのまま歩く。
 1年ほど前に新設された恋人課。
 そして――ここに、阿部若菜と斎藤厚志による恋人契約が締結された。


END
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