真夜中の訪問者
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1.

 風呂から上がった若菜はろくに髪も拭かぬままリビングに入った。肩にかけたバスタオルに水滴が染みこむ。髪にあてていた手を止め、若菜はぽつりと呟きを洩らした。
「なに、これ」
 明るい表情で由紀子が振り返った。
「若菜の婚約祝いじゃないの。母さん、こんな豪勢な食事初めてかも。奮発してワインも開けちゃったわ」
 由紀子の瞳には純粋な喜びだけが宿っている。娘を売ったという罪悪感は欠片もない。もっとも、彼女には娘を売ったという意識はないのだろう。若菜が深く考えすぎなのだと笑われたのだから。
 厚志と共に恋人届を恋人課に提出してきた夜のことだった。
 若菜は絶句したまま食卓を眺める。そこには若菜も食べたことのない豪華な食事が並べられていた。超高級ホテルのフルコースをそのままお持ち帰りしたのではないかと思うほど、食事は阿部家に不似合いだった。
「……これ、お母さんが作ったの?」
「もちろんよ。娘のお祝いごとだもの。誰かに任せるなんてとんでもないわ」
 由紀子は食卓について若菜を見上げた。満面の笑みだ。早く座れと手招きをして訴える。
 若菜は由紀子を少しだけ見直しながら腰を下ろした。
 これほど豪華にはいたらないが、豊富な食事が並ぶのは久しぶりだ。食費が厳しいのもあるが、由紀子自身に体力がないため、普段は手抜き料理ばかり作るのだ。しかし本気で彼女が腕を揮えば結構な腕前だ。花嫁修業として腕を磨いたのだという。若菜は話半分でその話を聞いていたが、味は確かだと認めるため、このフルコースは純粋に嬉しい。ひとまず食費のことは考えないことにして味わうことにする。笑みを浮かべながら箸を取った。
「もう。年頃の娘がいつまでもそんなパジャマ着て。そろそろ新調しなきゃね。厚志君が見たらがっかりするわ」
「勝手に妄想するな!」
 若菜は由紀子の言葉を理解して怒鳴りつけた。しかし鉄の心臓を持つ母親は動じない。
「あー、もう。頭痛い」
 若菜が愛用しているウサギのパジャマは中学生の頃に父親から買って貰ったものだ。中学生にもなってウサギのパジャマはないだろう親父、とは思ったものの、出稼ぎに行っている父に突き返すのも酷な気がして受け取った。基本的に若菜は着れるものがあれば何であろうと頓着しないたちだ。社会人になった今でも新しいものを購入することなくそのまま着続けている。
「ああ、これで一安心だわ。若菜って男慣れしてないから大変でしょうけど、厚志君なら母さんも信用できるし」
 由紀子の無責任な言葉に若菜は頬を引き攣らせた。
「言っておくけど」
 夢見る乙女のような表情で安堵する由紀子をこのままにしておくのが悔しくて、若菜は反論しようとした。しかしその言葉も途中で止まる。由紀子が不思議そうに見つめてくるのを感じながら口を閉ざす。
 ――由紀子さんに余計な心配かけたくないなら黙っておけ。
 恋人届を出したあと、厚志に言われたことを思い出していた。
 ――由紀子さんは本気で喜んでるんだ。俺と結婚する気がない、なんて告げたらどう思うか考えてみろ? 昔馴染みの俺だから仕方ないか、くらいの演技で騙しておけよ。
 実は結構な両親思いである若菜の心情をつく、見事な口封じだった。
 果たしてその嘘に意味はあるのか。厚志と共にいた頃はすっかり丸め込まれて頷いたわけだが、今思えば首を傾げてしまう嘘だ。この契約が契約である以上、いつか契約は終わる。それすれば由紀子は落胆するだろう。それが遅いか早いかの違いだ。
 若菜はワインが注がれたグラスを睨みながらうなり声を上げた。
「どうかしたの?」
「……別に」
 不思議そうに首を傾げる由紀子に、若菜はかぶりを振った。
 嘘の恋人だとしても、とりあえず相手がいることは由紀子にとって安心できるものなんだろうか。由紀子の笑顔を見ながら言い出せず、黙って唇を引き結ぶ。結局は厚志の言う通りになってしまうのが癪に感じて、若菜は不機嫌なまま由紀子のグラスにワインを傾けた。


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 嫌なことは眠ったら忘れる、アッサリとしたタイプだ。
 自分ではそう思っていた。
 若菜は勉強机に向かいながらため息をついた。初恋のことを思い出して今でも怒りが湧き上がる。どうやら自分が思っていたほどアッサリとはできないらしいと苛立ちが募る。
 食事を終えた若菜は、由紀子のテレビ時間を邪魔しないように二階へと上がってきていた。残ったワインを片手にしながら昼間のことを思い出す。まだ半日も経っていないのに様々なことがあった。
「恋人契約、ねぇ……」
 他人に構う暇を作るのが面倒で、これまで告白されても頑なに断ってきた。男嫌いも関係しているが、根本的に、他人に傾ける情熱が足りないのだと思う。
 若菜はワインを注ぎ足しつつため息をつく。
 厚志であれば、他人に使うような気遣いなど無用だ。その点ではありがたい。しかし自分以外の者に時間を潰されること自体が不愉快だった。それは厚志でも他の男でも、たとえ両親でも同じだ。今はひたすら仕事に打ち込み、お金を稼いでおきたい。
 若菜は下唇を尖らせるとワインを飲み干した。机にグラスを置いたまま寝台に移る。腰掛けてボンヤリと部屋を眺め渡す。
 女の子らしさを徹底的に削いだ、事務的な部屋。必要最低限のものしか揃えられていない。辛うじて女の子を思わせるぬいぐるみや観葉植物は若菜が用意したものではない。誕生日に友人から贈られたものや、由紀子の園芸趣味に侵食されたものだ。
 若菜は埃を被りかけているぬいぐるみに手を伸ばし、パン、とうさぎの頭を叩いて埃を払った。
 酔いが回ってきたのだろうか。
 若菜は頭が熱を持って揺れ始めたことに気付き、そのまま横になって眠ろうかと思った。しかしふと思い立ち、若菜はサイドボードに入っていた手鏡を取り出す。それも由紀子が用意したものだ。
 若菜は手鏡を覗き込み、面白くなさそうな顔をしている自分を見る。無理矢理に笑顔を作ってみたが、気持ち悪かった。目が眠たげに見えるのは眠たいからだ。手鏡に映る顔はほとんど無表情で、若菜は眉を寄せた。友人に笑われた鉄面皮は健在らしい。
「別に、不自由はしないけど」
 若菜は手鏡をしまうのも億劫でその辺に投げ捨てると、眼鏡を外して横になった。本格的に眠ろうかと蛍光灯のリモコンを探したが、再び思い立って起き上がった。
 眼鏡をつけて壁時計を窺う。良く夜更かしをする若菜は12時には眠れるよう心がけていたが、今はまだ11時だった。時間はある。
 押入れの扉を開けて視線を巡らせ、目的の物を見つけると手を伸ばした。
 手にしたのは一冊の本だ。
 寝台に戻りながら開いた若菜は懐かしさに目を細める。
 若菜が開いたそれは――個人アルバムだった。
 卒業時に学校から貰えるアルバムは若菜にはない。途中で転校したためだ。今開いているアルバムは、学校のイベント時に購入した写真を自分で挟んだものだった。他にも自分で撮ったものや両親に撮られた写真が、思い出と共に並べられている。
 生まれたばかりの若菜の写真を始まりに、成長過程が収められている。
 大親友だった近所の女の子や男の子たち。幼稚園のパレード。担任の先生。小学校の運動会。近所のおじさんやおばさん。近所の者たちで行った登山などの写真もある。
 今では音信不通になった彼らの写真を眺めながら、若菜は当時を思い出していた。そして、とある1ページで手を止める。
 同性の友だちよりも異性の友だちが多かった幼稚園時代だ。
 楽しそうに笑っている若菜や大勢の友だちが映っている。若菜の直ぐ隣には久しく忘れていた男の子がいる。
「あー、思い出した思い出した。これが厚志だ。うわ、生意気そうな顔」
 昔のアルバムなので写真が少し古臭いが、当時を思い出すには充分な資料だ。
 結果的に仲を引き裂かれた西山とは小学校に上がってから初めて会ったが、厚志とは本当に、生まれたときからの幼馴染だった。
 近所には同年代の男の子たちが沢山いた。遊び友だちには事欠かなかった。
 彼らともまた、小学校へ上がった時点でよそよそしくなってしまったのだが。
「だいたい、勝手なんだよね。幼稚園時代は結構仲良かったっていうのに、小学校上がったら途端にバラバラになるんだもん。前みたいに誘っても断られたりさ。私だって女の子の友だち欲しかったし……あんたらとはクラスも違ってたしね。それに、西山君は断然格好良かったし! ……先に離れたのってどっちからだっけ」
 段々と詳細を思い出してきた。怒りももちろん湧いてきたが、それよりも“懐かしい”という思いの方が強かった。
 若菜はアルバムをめくりながら自然と笑みを浮かべる。望郷を抱き、どこか暖かな気分のまま寝台に横になった。そうしながらアルバムを横目で眺め続ける。
 眠気が徐々に強くなってきた。
 髪はまだ完全には乾いていないが、乾くのを待つまでもちそうにないなと若菜は目を擦った。手を伸ばして蛍光灯を消す。そして若菜はそのまま眠りへと誘われた。

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