真夜中の訪問者
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2.

 たった1日で色々なことが起こりすぎて、気付かぬうちに疲労は溜まっていたようだ。12時を過ぎても眠れないときもあるが、今ばかりは布団にもぐりこんだ途端に眠りに落ちた。
 深く温かな水の中で漂う。そんな感覚に包まれながら、若菜はふと目覚めた。
 体は疲れて眠りを求めていたが、感覚が冴えてしまって休めない。瞼を開けるのも面倒なのだが意識はどうしても浮上しようとする。
 時計を見ようとした若菜は眼鏡を外していることに気付いて眉を寄せた。眼鏡は近くに置いてあるが、それを取るのに動くのも面倒だった。
 高鳴ってきた心臓と、さっさと休ませろと訴える脳の挟間でどちらを取ろうか思い悩む。
 若菜はそんな感覚に覚えがあった。
 玄関の扉が開けられたか、家の周囲を誰かが歩いたか。とてもささいな気配を、ときどき敏感に感じ取ってしまうようだ。
 一度だけその感覚に従って起きたことがある。自分の領域を荒らされてしまうような危機感を覚えて、恐る恐る階下に下りた。そこで、室内を物色していた男を発見した。
 まだ子どもだった若菜は硬直した。男もまた、発見されたことで焦り、そのまま逃げ出した。若菜は追いかけることもできなかったが、幸い何も盗られていなかった。男が入ってきて直ぐに若菜が目覚めたためだろう。その場は無事に済ませることができた。
 しかしこの物騒な世の中、もしかしたら逆上して若菜に手を伸ばしてくる人物が多くなっているかもしれない。そのような人物に会ったらどうしようか。この気配を無視して通り過ぎるのを待つか、それとも警察を呼んだ方がいいのか。
 若菜は眠りに落ちようとする頭で必死に考えた。この際、物が盗まれても構わないのは大前提だ。
 アルコールがまだ残っているのか体が熱い。起き上がる力は欠片も甦らず、若菜の天秤が「眠れ」と傾きかけてくる。
 若菜は感じた気配が何なのか考えることも放棄して眠ろうとした。
 その直前だ。
 風が流れた気がして視線を動かす。
 ――部屋の扉が開いていた。薄暗い部屋の中に誰かの影が浮かんでいる。
 眼鏡を外していた若菜には詳細を見ることができなかったが、恐怖を覚えるには充分な要素だ。
 アルコールで霞んでいた思考が瞬時に冴えた。
 ――殺される。
 心臓が早鐘を打つ。
 闇に浮かんだ影は、若菜の目覚めに気付いたのか近づいてくる。そしてその腕を伸ばしてきた。――首へ。
「黙って殺られてたまるかこの野郎ーーっ!」
 若菜はありったけの勇気を振り絞って布団を投げた。
 暗がりの中で、布団は見事に影を捕獲する。呻き声が聞こえたが、若菜は相手の視界が塞がれている間にけりをつけてしまおうと、近くを手でまさぐった。
(もうーーっ。絶対、鍵掛け忘れてたな、あの野郎ーーっ)
 脳裏に描いたのは由紀子の姿。
 若菜は涙目になって奥歯を噛み締める。手近なところに分厚い本を見つけ、それが何の本なのか確認することもないまま、若菜は夢中でそれを不法侵入者に振り下ろした。
「誰かー!」
 情け容赦など必要ない。
 布団のなかでもがく侵入者へと本をゴスゴスと振り下ろしながら助けを呼ぶ。階段を駆け上がる、バタバタという慌しい音が直ぐに聞こえてくる。部屋の扉は直ぐに開かれた。その向こうには険しい顔をした由紀子が、金属バットを片手に立っていた。
 若菜は、母のその姿を頼もしいと感じて安堵した。平常心を失っている証拠である。
「若菜! どうしたのっ!?」
「泥棒! 変質者! 人殺しーっ!」
 若菜は錯乱したまま侵入者を攻撃し続ける。逃げる、という選択肢は消えていた。
「若菜! どきなさい!」
 由紀子は金属バットをしっかりと握り締めて手で示した。
 若菜は頷き、素早く場所を空ける。眼鏡を探してかけた。
 そして、若菜の攻撃がやっと止んだことで布団から出てきた侵入者は――。
「あ」
 若菜は間抜けな声を上げた。
 布団の中から出てきた侵入者は――斎藤厚志。
「由紀子さん、ちょっと待って……!」
 若菜が呆気に取られている間、布団から出てきた厚志は金属バットを振りかぶる由紀子に驚愕する。慌てて止めようとするのだが、由紀子は両目をしっかりと閉じて何も聞こうとしていない。若菜が止める間もなく、由紀子は金属バットを思い切り振り切った。
 若菜は次の瞬間を予想して首を竦め、顔を逸らす。
 窓ガラスの割れる嫌な音が部屋中に響き渡った。


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 騒動から数十分後。
 正気を取り戻した由紀子は厚志に平謝りしていた。
 若菜はその場に力なく座り込んで床を見つめている。肌を撫でるのは、外の冷たい風。
「申し訳ありません。本当に私、何てことを……!」
 由紀子は床に額がつきそうなほど頭を低く下げて謝っていた。そんな由紀子を、厚志は乾いた笑みを零して複雑そうに見つめている。混乱しているのは厚志も一緒なのか、視線は落ち着かないようにさまよった。
「俺も注意が足りませんでしたし」
 部屋にはガラスの破片が無数に散りばめられていた。厚志がすんでのところで由紀子の攻撃を避けたため、バットは部屋の窓ガラスを力いっぱい叩き割ったのだ。それだけであればガラスはベランダ側に落ちるのだが、バットが重くてよろけた由紀子は、本棚のガラスをも壊していた。本棚の本も幾つか部屋に散乱している。棚に上げていただけの本や鉢植え、CDや筆記用具類も床に投げ出されていた。鉢植えにいたっては土が零れて中からミミズが這い出てきている。
「大した怪我もありませんでしたし……」
 もし由紀子がしっかりと目を開け、狙いを定めて金属バットを振るっていたら謝るどころでは済まなかっただろう。
 若菜は部屋の惨状を見渡し、麻痺した思考のままで壁時計を見上げた。時計の針は12時を回っている。1時間も眠っていなかったのだと知る。
 若菜は視線を厚志に向けた。
「こんな時間に、何してんの……?」
 放心したままの声に、厚志が顔を向けた。
 沸々と湧き上がる怒りのまま若菜は立ち上がる。表情は徐々に険しさを増していく。
 由紀子が迷う素振りを見せ、手にしたままだった金属バットに気付いて複雑な表情になった。
「置いてくるわね」
 若菜の視線に追われるように、由紀子は部屋から退散する。後には若菜と厚志だけが残される。
「勝手に人の部屋に入ってきて、殺されたって文句は言えないでしょうっ?」
「まぁ確かに、俺の不注意だな」
 厚志の口調は由紀子が消えたとたんに変わった。彼はため息をついて部屋を眺める。
 壊された窓ガラスや本棚のガラスに加え、強い風によって惨状は更に酷くなっている。
 これを片付けなければいけないのかと、若菜は頭が痛い。
「どうしてくれるのよこれ。最っ悪」
 怒りのためか悔しさのためか、それとも別のものか。若菜は瞳を熱くさせて涙を零した。
「厚志が来てから全部最悪だよ!」
 涙はとめどなく溢れてくる。泣きたくなんてないのに、なぜ溢れ続けるのか。拭えば更に惨めな気分に陥る気がして、若菜はそのまま睨みつけていた。厚志は悔やむような表情を見せたが、たったそれだけで許せるような現状ではなかった。
 しばらく若菜が睨みつけていると、厚志は間がもたなくなったのか、床に落ちているアルバムを拾い上げた。若菜が武器としていたのはこのアルバムだ。
 若菜が渾身の力で殴っていたせいで、アルバムの表面が微かにへこんでいる。
 厚志は埃を払い落とすと若菜に渡す。若菜はそれをひったくるようにして受け取った。
「ようやく仕事が終わったから、ちょっと」
「厚志がフリーになっても私は寝てるんだよ分かれよそれくらい! 昔っから人の迷惑考えない奴だよね、あんたは!」
 怒りに任せて怒鳴りつけると厚志は傷ついたような顔をした。しかし若菜にはとても同情する気になれない。
「明日のことを言うの忘れてて……悪い。修繕費はこっちで出すから」
 意味不明な言い訳を始めようとする厚志は、若菜が唇を引き結ぶと言葉を止める。苦いうなり声を出して頭を下げた。
 厚志は上等なスーツを着用していたが、先ほどの騒ぎでかなり乱れていた。軽くそれを直すと、内ポケットから何かの束を取り出す。その中から一枚を千切って若菜に渡す。
 若菜が何年ほど真面目に働けばこの金額を稼げるのだろう、という金額が記載された、一枚の小切手。
「うわー、凄い、何この金額初めて見たーっ、違うでしょうが! 馬鹿かあんたは!」
 途中まで棒読みで乗ってみた若菜は次いで厚志に叩き返した。
「誰がそんなもの欲しいと言ったかーっ!」
 正直に言えば欲しいが、そんな現金だと思われたくなくて、若菜は怒鳴りつけた。厚志に蹴りを入れて部屋から追い出す。
「もう帰れよ! 昔っから人の迷惑考えない迷惑野郎だって、知ってるけど、ああもう! 厚志が忘れていようと、私は絶対にあのこと許してやらないんだからね!」
 自分でも何を言っているのか混乱してきた若菜は、やけくそ混じりに叫んだ。極度の疲労と眠気で正気ではいられないのかもしれない。
 部屋から追い出された厚志は何かを言いたげに振り返る。しかし若菜は聞く耳持たず、階段から突き落とす勢いで彼を押す。丁度、階段を上って来た由紀子が、若菜の剣幕に驚いて立ち竦んでいた。
 今の若菜は誰を気遣う余裕も失っている。
 若菜は厚志を1階までの追い立てて玄関に向かわせ、強引に外へ出した。戻る暇を与えず、玄関に鍵をかける。そして荒い呼吸のまま部屋に戻って、部屋の鍵をかけた。
 玄関の扉が開かれることはない。若菜が外を窺うこともない。
 しばらくして、車が離れていく音だけが聞こえてきた。
「あの……若菜」
「疲れた。寝る」
 部屋の扉の前で座り込んでいた若菜は、廊下からかけられた控えめな声を拒絶した。由紀子のため息が聞こえると再び哀しくなる。この惨状を見ると余計に疲労が襲ってくる。
 若菜はひとまず掛け布団に散っていたガラスを叩き落した。
 割れた窓からは冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。カーテンが優雅に踊り、真っ黒な夜空を思わせた。
 若菜は思わず“借家の片隅で借金の取立てに怯える少女”の図を思い描いた。慌ててかぶりを振る。そんな当事者はいない。
 寝台があって良かったと思う。もし直接布団を床に敷いていたら、寝返りも打てない状況だ。
 若菜は頭痛を覚えながら寝台にもぐりこんだ。枕近くに置いていたリモコンで明かりを落とす。直ぐに瞼を閉ざし、すべてを頭から締め出そうとする。
「どんな報復してやろう……ったく」
 暗闇の中でブツブツ呟いていると眠気が湧いてきた。
 明日からはスリッパ生活だ。
 若菜はそんなことを思いながら、眠りに落ちた。


END
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