不機嫌な彼女
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1.

 最悪な日から一夜明けた。
 出勤準備をしていた若菜はインターホンの音に眉を寄せた。忙しい朝の時間を邪魔されるほど腹立つことはない。現在は部屋の惨状にも頭を抱えている状態のため、苛立ちも尚更募る。正直に言えば、仕事も休んで部屋の復旧に努めたい気分だった。
「どちら様ですか?」
 それでも若菜は鍵をあけて営業用の笑顔を作った。
 次いで、外にあった男の姿に、問答無用で扉を閉めた。
「おい!?」
 存在を訴える声が大きく響く。けれど若菜は無視して鍵をかける。笑顔など見せてしまって悔しい。忘れることにしてリビングへ戻る。
「誰だった?」
「新聞の勧誘」
 台所で弁当を詰めていた由紀子へ、そっけなく返して若菜は新聞を広げた。
 広告までくまなく目を通し、掘り出し物はないかと探す。いつもの日課だ。
 時間も丁度良く過ぎ、朝から苛立つ出来事をすっぱりと忘れた若菜は、機嫌よく家を出た。
 男はまだ玄関前で待っていた。
「おはよう」
 フェンスにもたれながら爽やかな挨拶をするのは斎藤厚志。
 若菜は頬を引き攣らせて見なかったことにする。機嫌は急転直下、無視して歩き出す。しかし行く手は厚志によって遮られた。苛立ちを募らせながら若菜は彼の横をすり抜ける。今度は鞄をつかまれて無視すらできなくなった。
 若菜は苛々としながら振り返る。
「何するのよ?」
「無視して行こうとするからだろ」
「放して。間に合わなくなるでしょう」
 若菜は厚志を睨みつけながら告げた。いつもギリギリの時間で家を出るため、少しでも立ち止まると間に合わない。朝から走る羽目になりそうだ。
 厚志の手を振り解こうとしたが、彼の手は強く、しっかりと鞄をつかんでいた。
 焦る若菜を無視し、厚志は玄関から中へと声をかけた。
「由紀子さん。若菜さんお借りして行きますね」
「はいはい。楽しんできてねー」
「ちょっと待てーっ?」
 返す由紀子も由紀子だ。顔も見せず、厚志の姿すら見せず、簡単に返す。若菜の都合などまったく考えていないことが良く分かる。
 若菜は絶叫したが、厚志は楽しげに笑い声を上げた。
「由紀子さんの承認も取ったし、付き合え」
「本人の了解が一番だろうが!」
 蹴ろうかと思った若菜だが、素早く横抱きにされて悲鳴を上げた。癪ではあったが、とっさに厚志にすがりつく。
「お、いい感じ」
 厚志はそのまま歩き出した。
 動揺から素早く立ち直った若菜は肘打ちを入れようとしたが、その寸前で車の中に投げ入れられた。体勢を立て直したが、焦っていたため天井に頭をぶつける。状況が分からないまま混乱していると車が動き出した。
「ちょ、ちょっと!」
 助手席に放り込まれた若菜は呆然と成り行きを見守るしかない。
 赤信号で停まり、厚志にシートベルトを付けられる段階でようやく正気に戻った。怒鳴り声を上げる。
「何のつもりよ!?」
 厚志は楽しげに若菜を見た。
「知らないのか? 恋人申請をしたら、次の日にはデートに行かなきゃいけないんだぞ。法律でそう決められただろ」
「は? 何それ。マジでっ?」
「嘘に決まってるだろ。バーカ」
 厚志の頬に鞄の角が鋭く埋まった。
「お、ろ、せ」
 車は軽快に走り出していた。辺りは閑静な住宅街だ。車の渋滞を待つにはもう少し街中まで行かなければいけない。
 厚志は車通りが少ない、穴場とも呼べる道路を選んで進んでいる。とはいえ住宅街のなかで高速道路並みのスピードを出せるわけでもない。このまま扉を開けて外に出ることも不可能ではないような気がした。しかし、さすがにヒール靴を履いたまま飛び出して、無事に着地できる自信はない。
 流れていく外の風景を見ながら若菜は歯噛みした。
 会社とは逆方向へ向かっている。出勤時間を考えれば、これ以上遠くへ行くわけにはいかない。タクシーを使っても間に合わなくなる。
 若菜は厚志を睨みつけた。
「いい加減にしてよね。私はこれから会社に」
「会社の番号、何番?」
「は?」
 問い返したが答えはない。
 厚志は、若菜が抱えていた鞄を取り上げると携帯を取り出した。前方への注意は逸らさないまま操作までする始末である。慌てて取り返そうとする若菜だが敵わない。厚志は運転中だというのに、まるで指先に目でもついているかのように間違わない。最低限の機能しか持たない携帯のため操作は簡単だろうが、まるでその機種を知り尽くしているようだ。どこまで器用なんだと半ば呆れた。
 一瞬だけ液晶画面を見た厚志は指を止め、若菜に一瞬だけ笑みを見せた。その笑みが何かなど、今の若菜には分からない。ろくでもないことだろうと推測するだけだ。
 厚志は携帯を耳に当てた。
「もしもし。阿部の身内の者です。いつもお世話になっております。阿部若菜ですが、本日は熱が高かったので休ませたいのですが、よろしいでしょうか」
「ちょっと……」
 事態に気付いた若菜は青褪めたが、厚志には相手にされない。
「申し訳ありません。珍しく体調管理が行き届いていなかったようです。持ち前の気力で、明日には復帰できるかと思いますが……はい、よろしくお願いします」
 取り返そうとした若菜の前で、厚志は通話を打ち切って楽しげに笑った。
「これで問題ないだろう」
 携帯を投げ返す厚志の笑顔を、若菜は呆然としながら見た。


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 助手席には不貞腐れて返事もしない若菜がいた。自分の都合を無理矢理ねじ曲げられて強行されれば誰でも不愉快になるだろう。
「おっ前、心狭いな」
 厚志の左頬は赤くなっていた。腹に据えかねた若菜の攻撃は鋭く、運転していた厚志はろくな防御もできずに綺麗に決まったのだ。
 会社に休みの連絡を入れてから国道へ入り、車はいつの間にか高速道路を走っていた。そこまで連れ込まれれば迂闊に逃げられない。ヒッチハイクでもしてやろうかと思った若菜だが、そのまま誘拐されたら洒落にならないなと思って踏み切ることができない。そのようなニュースを、以前見たことがある。
「ひとつ忘れてると思うが」
 サービスエリアに車を入れた厚志は、携帯を返してから一度も言葉を発しない若菜を呆れたように見ながらサイドブレーキを引き上げた。
 若菜はその音を背中で聞きながら窓の外を見続ける。
 厚志は焦れたように若菜の肩をつかんだ。
 若菜は強い力で引かれ、悲鳴を上げる。厚志の指が肩に食い込んで痛かった。力加減も知らないのかと、怒りは募る一方だ。
 無理矢理ではあるが振り返った若菜は、憎らしい顔を睨みながら低く「何よ」とうなり声を上げた。厚志は表情を険しくさせる。
「お前はそれでも俺と婚約したことになってんだぞ」
「仕方なくっていうことをお忘れなく」
 頭に来ている若菜は、感情を極力抑えた低い声で呟いた。
 怯んだ厚志だが、直ぐに気を取り直して身を乗り出す。それが鬱陶しくて、若菜は肘で押し戻した。
「お前は俺に借金をした。そのために俺はお前が婚約者であることを求める。これは契約だ。今のお前は契約不履行だろう?」
 ――ブツッと何かが切れた音が、若菜には聞こえたような気がした。
「何が不履行。そっちの親戚に顔見せでもしろってわけ? それならやってやるよ。でも今日のは違うでしょう。何で仕事まで勝手に休ませられなきゃいけないわけ。これ以上はただの人権侵害、営業妨害だろうが、馬鹿!」
 若菜は乱暴にドアを開けて外に飛び出た。厚志も慌てて外へ出る。他のドライバーたちが何事かと注目してきたが、そのようなものに構っている余裕などない。
 若菜は直ぐに走り出そうとした。だが通勤用のヒール靴であることに途中で気付く。これで足を挫くとかなり痛いのだ。いっそのこと脱いで走ろうか。そうして高速道路の柵を潜り、何とか一般道まで戻ろうか。
 逡巡した若菜は厚志に腕をつかまれて鬱陶しく振り払う。
 車から少し離れた場所で喧嘩する二人だ。他のドライバーたちにはどう見えていることだろうか。
「触るな!」
「若菜!」
 呼び捨てが妙に癪に障り、若菜はエンジンを掛けっぱなしの車を見た。厚志を乱暴に突き飛ばして運転席に乗り込む。
 運転免許は持っていた。高校卒業時に取ったものだ。
 厚志の車はクラッチを踏まなければならないマニュアル車。操作方法に不安はあるが、乗れないことはない。免許はマニュアルで取った。
「おい!?」
 若菜は運転席に乗り込むと同時に鍵をかけた。オートロックではないのか若菜の操作が悪いのか、全ドアがロックされたわけではないようだ。気付いた厚志が助手席に回りこもうとしたが、若菜がサイドブレーキを落とす方が早い。
「女だからって舐めないでよね」
 若菜は低く呻く。
 アクセルを思い切り踏み込み、ギアに手をかけた。


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 高速道路を使ってどこへ行こうとしているのか。若菜は頬を膨らませたまま視線を窓の外へ向けていた。
「俺が悪かったのは素直に認めるが……要領悪いのな、お前」
 運転席に座るのは厚志だった。若菜は助手席に座っている。
 危うくサービスエリアに置いていかれそうになった厚志は窺うように若菜を見た。若菜はもちろん視線を合わせない。
「車に最後に乗ったのはいつなんだ?」
「……教習所出てから一度も乗ってないよ」
 長い沈黙のあと、若菜は押し殺した声で返した。厚志が笑いを噛み殺す。
「肝心の発車時にエンストで立ち往生なんてな」
 マニュアル車は、発車時にクラッチというペダルと共にアクセルを踏み込んでいなければエンジンが止まるのだ。基本中の基本なので、教習所では何度も繰り返し教える。
 若菜は唇を引き結んだ。
 自分では格好よく逃げ出せたと思っていたため、恥ずかしさは半端ではない。しかもその失敗を厚志に見られたという悔しさは、筆舌しがたいものがある。
「……仕事休ませてまで連れて行くところがスーパーの買い物とか言ったら、殺すよ?」
 厚志は耐え切れないように声を上げて笑い、若菜に睨まれる。慌てて唇を閉ざすが震えていた。
「それでも一応俺の恋人として名乗って貰わなきゃならないからな。それなりの外見に整えさせて貰う」
 厚志は傲然と告げた。

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