不機嫌な彼女
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2.

 厚志の口調は完全に人を見下していた。
 今の若菜にそれを聞き流せるわけもなく、人を馬鹿にするのもいい加減にしろよと怒鳴りつけ、容赦ない平手打ちを見舞って機嫌は悪化した。
 肩で息をするぐらい凄まじい攻撃にひと段落をつけたあとは助手席で自分の鞄を漁る。厚志は若菜の怒りをものともしないのか、横から覗き込んできた。
「前に集中してよ! 厚志と心中なんて嫌だから、加減して殴ったんだからね!」
 高速道路を暴走中の車。
 若菜は近づいてきた厚志の顔を強く押し戻し、再び鞄を探り始めた。目当てのものが指に触れ、引っ張り出す。
 1枚の預金通帳。若菜が社会人になってから初めて作った通帳だ。
「うわ、少ねぇ額」
「黙れ猿」
 通帳を開いた途端に飛んでくる声に噛み付く。
 通帳には現在12万円が記載されていた。色々やり繰りして貯めた大切なお金だ。問題は額が多いか少ないかではなく気持ちだ。――現実は遥かに厳しいが、若菜は自分をそう納得させている。
「で。見ても楽しくないそんな通帳を開いて何の確認だ? だいたい予想はつくが」
 いちいち癪に障る物言いだ。若菜は厚志を睨みつけ、なんとか怒りを宥めて通帳に視線を戻す。
「恋人契約ってのはお母さんが借金した返済の代わりでしょ。つまり、厚志に借りた100万を私が返済すれば、そこでこの契約は終了ってことになるのよ」
「まぁな」
 あまり面白くなさそうな声で厚志が同意する。しかし若菜は厚志の内情などどうでもいいので通帳を見たまま続ける。
「この契約がいつまで有効なのかっていう明確なラインはないし、一刻も早く契約を終了させるにはこの方法が手っ取り早い」
「それで?」
「私が100万を返す。それで終わりだ」
 縁談免除という利害は一致しているが、厚志と一緒にいればストレスばかりが溜まっていく。
 若菜は自分の中でそう決定付けて厚志を見た。
「返したって、また免除申請のために金が飛んでくぞ」
「厚志といるよりよっぽどマシ」
 若菜は素っ気なく言い返した。厚志の表情が固まるが、それは直ぐに払拭される。肩を竦めた。
「ま、やってみれば? 何年かかるか分からないがな」
「1年もしないうちに返してやるから……!」
 若菜は宣言して拳を固めた。実家にいるので光熱費や家賃の心配はない。給料の半額は家に振り込まなければいけないが、他にお金を使うものといえば交通費くらいだ。会社の親睦会にかけるお金も大した額ではない。浪費さえしなければ少しずつ貯まっていくだろう。
 若菜は通帳を睨みながら百面相をし始める。厚志もまた、そんな若菜を横目で複雑そうに眺めた。


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 高速道路を下りた若菜は口を大きく開けた。
「うっわ。最悪」
 初めに立ち寄った建物の前で、そんな声を出す。
 専用の車庫へ車を駐車させた厚志は、スーツを整えながら若菜を振り返った。
「間抜けな顔だな。引き締めろよ」
「何だと?」
 厚志は笑い、1人で先に歩いて行く。とても若菜を待つようには思えない。まるで『俺についてこい』とでも言いたげな背中だ。
 若菜は素直について行くのが躊躇われて立ち尽くした。このまま帰ろうかと思う。今度こそ運転方法は間違えない。また、振り返ったときに自分がいなければ厚志はどんな顔をするのだろうと思い、そんな場面を見てみたい気もした。
 若菜の企みが実行される前に厚志が振り返った。
「何してるんだ」
「べっつにー」
 不可解な顔をする厚志に唇を尖らせて、若菜は歩き出す。
 今度は厚志は踵を返すことなく、若菜が隣に行くまで待つようだった。そんな雰囲気を感じて慌て、若菜は走って彼の隣へ行く。
 訪れたのは高級店だった。明らかに一般人は利用しないだろうという外装は格式高く、扉にはドアマンまでついている。外から窺い見える内部はまるで光輝いているようだ。酷く場違いな気がして、若菜は顔をしかめた。
「いいか。これから先、お前は俺の婚約者だからな?」
 わざわざ声を潜めたのは、周りに聞かれたくなかったからだろう。
 若菜は眉を寄せる。無理に連れてきて、この上まだ何かする気かと口を開きかけたが、借金のことが脳裏を過ぎったので大人しく口を閉じた。言いなりになるのは悔しいが、確かに周囲の視線が気になっていたため若菜は頷く。
 厚志が笑みを零して若菜の頭を軽く叩いた。
 身長差があるのは歴然としているが、あからさまに見せ付けられるのは癪に障る。何か言ってやろうと見上げる若菜だが、その先には笑顔があり、なぜか若菜は何も言えなくなった。
「どうかしたか?」
「別に」
 若菜は厚志の手を払うと乱暴な歩調で進んだ。大股で歩いたのに、厚志には直ぐに追いつかれる。そのことにも憮然とする。
 ドアマンの前に行くと、厚志は手慣れた様子で何かのカードを差し出した。受け取った男は相好を崩して深く腰を折る。手を振って案内する。
(この前から思ってたけど、厚志ってもしかして“お坊ちゃま”って奴? 一緒にいたときはそんな気配なくて、住んでた家も普通だったけど)
 首を傾げていると厚志が振り返る。
「ほら、こっちだ」
「ここ、なに?」
 まるでホテルだ。入った先にはカウンターがある。天井は高く造られており、見渡せば遠くにシンデレラ階段があった。シンデレラが下りてくるような、広い階段。様々な配置はホテルを思わせたが、雰囲気はまるで城のようだった。
「色んな店が入ってるところ、だな」
 意味が分からず眉を寄せた若菜は、遠くから誰かが走って来るのに気付いた。
 初老の男性だ。
 必死の形相で走って来る彼の目的は、どうやら厚志のようだ。視線が真っ直ぐに厚志を捉えている。しかし厚志はその場から動かない。黙って彼の到着を待った。
 年寄りを走らせるなんて最低、と若菜は厚志を睨んだが、彼はその視線に気付いていないようだった。
「お待たせして申し訳ありません斎藤さま。予定されていた時刻を過ぎましたので、心配しておりました」
「ああ。ちょっとな」
 男性の言葉はとても丁寧だ。
 若菜は複雑な気持ちになった。この丁寧な言葉を厚志に向けて欲しくない。
 何を言っても無駄なような気がしてため息をつく。視線を床に落としたところで眼鏡を取り上げられた。
「何するのっ?」
「けっこう度が強いんだな」
「返せ!」
 若菜は視力がかなり弱い。裸眼であれば、息がかかるほど近くまで寄らないと見えない。あとは、ぼんやり浮かぶ色で判別するしかなくなってしまう。
「転校してから悪くなったのか? 俺がいた頃にはかけてなかったもんな」
 若菜は隣に佇む灰色の塊を見上げた。手を伸ばして取り返そうとしたが、肝心の眼鏡がどこにあるのか分からなかった。厚志の腕をつかんで倒れないようにするのが精一杯だ。
「斎藤さま。こちらが?」
 先ほど走って来た老人の声がする。窺うようにそっと尋ねられ、厚志は頷いたようだった。
 眉を寄せて瞳を細めても、若菜には老人の顔がはっきりと見えない。もっと良く見ようと顔を近づけていくと、首の後ろをつかまれて引き戻された。
「……だいぶ目が悪いようだな」
「そう思うんなら返して」
 若菜はすかさず手を伸ばす。
「島田。頼んだぞ」
「かしこまりました」
 若菜は背中を押された。もちろん眼鏡は戻ってこない。
「ちょっと!?」
 厚志は動かない。
 若菜は灰色の塊にしか見えないそれを睨みつけた。島田に手を取られる。
「こちらです」
 案内されれば従うしかない。いくら怒っても老人に八つ当たりするわけにもいかず、消化不良の気分を抱えながら奥歯を食いしばる。視界が利かぬ今は手を引く島田だけがすべてだ。彼の手を放してしまえば途方に暮れるしかなく、若菜は逃がしてなるものかと力いっぱい握り締めていた。
「どこに連れて行くんですか?」
「直ぐですよ。阿部さまは、眼鏡はいつ頃からご利用されておりましたか?」
 若菜は再度問いかけようとしたが、島田に先を越された。
「小学五年生……くらいからだと思いましたけど」
 思いのほか柔らかな声音に驚いた。島田は見えていない若菜に合わせているのか、歩調もゆっくりと進む。強引なだけの厚志より、よほどいい。
 若菜はこのときだけ、島田を寄越した厚志に感謝した。
「ではもうかなりの年月を眼鏡と共に過ごされてきたのですねぇ」
「……そうですね」
 妙な言い回しに若菜はうなりかけたが、ひとまず頷いた。
「こちらからが階段ですから、足元にお気をつけ下さい」
「はい」
 島田の腕が若菜を誘導した。手すりをつかむと安心感が増す。若菜は目を凝らしながら1段ずつ足を上げた。
「度の強さは初めからお変わりありませんか?」
「いえ。1年ごとに強くしてます」
 そのたび視力は悪化し、眼鏡の度数も強めていく。悪循環でお金もかかるが、見えないのだから仕方ない。眼鏡に憧れていた時期が嘘のようだ。今では邪魔にしか思えない。
「ほう。ではフレームはどうですかな?」
「……それは、一度も替えたことありませんけど」
 答えながら若菜は内心で首を傾げる。この老人は眼鏡マニアなのかと穿ってしまう。
 島田が驚いたような声を上げた。 「一度も? 小学生の頃から? 頭が圧迫されるのではありませんか?」
「……頭は成長してないので問題はないそうですよ。物凄く腹が立つんですけどね」
 膨れっ面で告げると島田は瞳を丸くした。一瞬遅れて意味を理解し、朗笑を響かせる。その笑い声を間近で受けた若菜は驚き、思わず手を放してしまった。バランスを崩す。靴の先が階段から離れ、若菜の視界が揺れた。
「……っ」
 手は島田をつかもうとしたのだが、遠近もはっきりとしなくて空振りする。
 息をつめて衝撃に耐えるしかない。
 若菜は瞼を硬く閉ざしたが、落下とは違った衝撃が訪れた。硬い床に激突したわけではない。背後に誰かがいたらしい。
「阿呆か」
「どっちが!」
 後ろから上って来た人にぶつかったのかと慌てて謝ろうとしたのだが、横柄な態度だけでそれが誰なのか分かってやめた。代わりに怒鳴りつける。
 若菜は厚志の腕に支えられながら体勢を立て直した。ついでに、踵で厚志の靴と思わしきところを踏みつける。
「痛ぇ!」
 厚志の悲鳴を聞きながら顎を逸らした。
(ご愁傷さま。そっちが馬鹿なこと言うのが悪いんだよ――ていうか厚志、ずっとつけて来てたってこと? お爺さんもそれ知ってたはずだよね。目が見えないわけじゃあるまいし。何だっていうのよ)
 尖ったハイヒールで踏みつけられた厚志は真剣に若菜から離れた。若菜は落ちないよう必死で手すりに縋る。厚志に舌を突き出した。
 二人の様子を見ていた島田が再び笑う。
「結構なお嬢さまでございますな」
 楽しげな島田とは対照的に、厚志は沈黙を通した。若菜としては何よりもまず眼鏡を返して欲しい。
「ねぇ! そこにいるなら私の眼鏡――」
「ほら」
 突き出された肌色に手を重ねた若菜は眉を寄せた。どう考えても眼鏡の感触ではない。眼鏡はどこにあるのだろうと顔を近づけると、後頭部を叩かれる。
「痛いな!」
 どうやら厚志と手を繋いでいただけらしい。わざと大きなため息が零されて、若菜はムッと眉を寄せる。
「手じゃなくて眼鏡!」
「いいだろ。少しは眼鏡がないことに慣れろ」
「は?」
 意味不明な言葉に若菜はますます眉を寄せる。考えるよりもまずは眼鏡、と若菜は再び急かそうとしたが、厚志は直ぐに歩き出した。視力に不自由な若菜を考えない早足だ。引きずられかけた若菜は慌てて追いかける。島田を思い出して振り返ると、彼は苦笑しているような気がした。
「やっぱり俺にはお前みたいな気遣いはできんな」
 若菜が転びかけたのを引き上げた厚志がそのようなことを呟いた気がしたが、自分のことで精一杯な若菜には聞き取れていなかった。
 どうしても呼吸が合わない二人だ。
 そんな二人を、島田は終始にこやかに笑みを浮かべながら見守っていた。

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