不機嫌な彼女
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3.

 若菜は二階の会場へと案内された。
 眼鏡がないことに不便を痛感していた若菜は息が上がっている。ようやく立ち止まり、落ち着こうと胸を撫で下ろす。
 眼鏡がないので雰囲気しか感じ取ることができないが、会場には大人数がいるようだった。黒い塊が忙しげに動き回っている。
「何?」
 そのとき、つかまれたままだった手を引き寄せられた。転びかけた若菜は直ぐに引き上げられる。まるで荷物の扱いだ。ここに来るまで振り回され続けた若菜は頭痛を覚え、眉間に皺を刻む。
「こちらでございますよ」
 島田の声にうながされて、厚志はさらに進むらしい。
 どうせなら私はここに置いて、厚志1人で行って欲しい。
 若菜はそう思ったが、思い通りにはいかないらしい。為すがままについて行くとどこかの部屋に入ったらしく、周囲の喧騒が途端に遮断されたのが分かった。どこを見ても白い空間だ。机が並べられているが、詳細は分からない。
「ほら座れ」
 声と共に若菜は肩を押された。尻餅をつくようにして倒れこむその先は椅子だ。転ぶのかと思った若菜は安堵したが、疲れが全身を駆け巡る、両膝に手をついてうな垂れた。
(眼鏡がないだけでこうも疲れるとは思ってなかった。眼鏡の存在って素晴らしい)
 一種の現実逃避をしてみたが、若菜は直ぐに引き戻された。
「阿部さま。こちらが見えますか?」
「はい?」
 島田に呼ばれて顔を上げる。遠くでは黒い物体がしきりに腕らしきものを振っているように見えた。恐らくその黒い物体が島田であろう。
「これから阿部さまの視力検査を行います。しっかりとこちらを確認して下さいね」
「はぁ?」
 確認、と言われて若菜は戸惑った。
(貴方の顔すら分からないのに何が視力検査。黒い棒が揺れ動いてるくらいにしか見えないよ。人間と棒を間違えるくらい視力悪いっていうのに、何なのよ)
 沸々と静かな怒りをたぎらせていると、隣に立っていた厚志がおもむろに手を伸ばしてきた。若菜は視界が明瞭としないため過剰反応する。体を震わせて身を引いた。
「ほら。眼鏡だ」
 厚志の声が一瞬でも優しく聞こえたのは弱気になっていたからなのか。そんな自分に気付き、若菜は腹を立てる。差し出された眼鏡をむしり取った。
 眼鏡をかけると視界が明瞭となる。与えられる情報量に眩暈がする。何度か瞳を瞬かせて情報に慣れ、遠くに島田がいるのを確認する。彼はホワイトボードの横に立っていた。
 ホワイトボードに貼られた大判の紙は、視力検査の紙に見えた。
 ここで若菜はまたしても眼鏡を奪われる。
「ちょっと!?」
 強引な行動で髪も乱れている。
 いい加減にしろよなと怒鳴りかけた若菜は島田の声に呼び戻された。協調性のありすぎるチームプレイだ。
「ではいきますよ、阿部さま?」
「見えるわけないじゃん」
 嬉しげな島田とは対照的に、若菜はもう自棄混じりに呟いた。気付いた厚志が苦笑する。島田を近くまで呼び寄せた。
「では阿部さま、改めまして」
 近くまで来た島田は軽く咳払いして仕切りなおす。
「私が持つこの紙が、はっきりと見えましたらそう仰って下さいね」
 島田は何かの小さな紙を振ったようだ。しかし若菜には分からない。何の反応も返さないでいると、黒い棒が近づいてきた。その棒は段々と距離を縮め、島田の姿を形づくる。しかし彼が持っているという紙はぼやけすぎていて何だか分からない。
 島田がさらに近づいてくる。身を乗り出そうとした若菜は、隣で見守る厚志に止められた。背筋を伸ばせと軽く叩かれる。
「おい。まだ見えないのか?」
「うるさい。私は目が悪いんだよ」
「限度があるだろう」
 2人のやり取りに島田は笑ったようだが、若菜には彼の笑顔が見えなかった。
「あ、はい、見えました」
 島田がさらに近づいてきて、若菜はようやくストップをかけた。
 隣で厚志がため息をつく。若菜と島田との距離は、およそ子どもの歩幅で2つ分だ。幾らなんでも近すぎる、という呆れのため息だった。若菜は綺麗に無視をする。
「では、これはどちらの方向に穴が開いているか、見えますか?」
 島田が指しているのは視力検査に使用する、一般的な“C”の文字だった。
「……右」
 島田は頷いて半歩下がる。紙を背後に隠し、回転させて再び掲げる。
「……上?」
 島田は再び頷いて半歩下がる。紙を背後に隠し、回転させて再び掲げる。
「分からねぇ」
「馬鹿野郎」
 本気で悩んだ若菜だが、すかさず頭をはたかれた。
 若菜は今度こそ怒鳴り返す。
 島田の朗笑が響くなか、視力検査が終わった若菜はようやく眼鏡を返された。


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「で、何の意味があるわけ。人の視力検査なんてして。新しい眼鏡でも作ってくれるってわけ? でもそんなの要らないから。これで充分だから。貰ったって売りさばいてやるからね」
 若菜は一息で鬱憤を吐き出した。
 島田は現在、若菜の検査結果と共にどこかへ消えている。つまり若菜は厚志と2人でこの部屋に残されていることになる。仕事を休んでまで連れて来られた先は視力検査。何ともやりきれない思いだ。近くの眼科では用が足りなかったのだろうか。
 若菜は怒りに拳を震わせる。
「ていうか、昨日の今日で何でここまでセッティングできるわけよ」
「行動は迅速に」
 椅子に腰掛けた厚志は不遜な態度で若菜の怒りを聞き流している。その態度が若菜の怒りを煽るが、厚志は気付いていないようだ。
「俺も久しぶりにはかってみるかな。ほら若菜。お前がやれ」
「はぁ?」
 若菜は投げ渡された棒を慌てて受け取ると睨みつけた。厚志は片目を隠して準備をしている。島田はまだ戻らないようだ。たとえ若菜が1人でこの部屋から飛び出したところで、車の鍵は厚志が持っている。財布が入った鞄も車のなかだった、と遅まきながら若菜は気付いた。
「何で私が厚志のために何かしてやらないといけないってのよ!」
 若菜は怒鳴りながらも島田が立っていたホワイトボードに向かった。
 そんな背中を見送り厚志が笑う。
 若菜はホワイトボードに辿り着いた。そして首を傾げる。視力検査の紙は何枚かあるらしい。一番上になっていたのは一般的に使われる視力検査だ。
「あ」
 1枚剥がした若菜は目を瞠った。下からは可愛らしい視力検査の紙が出てきた。小学校用のようだ。恐らく低学年の子どもたちが飽きないように工夫して作られたのだろう。通常は“C”や平仮名で構成されている視力検査の紙だが、若菜が見つけた紙には、代わりに犬や猫、車や飛行機など、分かりやすい絵が描かれていた。とても懐かしい気持ちになる。
 若菜は子ども向け視力検査の紙を一番上にすると、棒を持って厚志に向き直った。
「厚志にはこれで充分よ」
 本当は自分で使ってみたいだけだった。
 厚志は苦笑して「まぁいいや」と呟く。そんな一言に頬を引き攣らせた若菜だが、許してやることにした。先生になった気分で咳払いする。
「ん」
「犬」
 無難なところから、と真ん中辺りの犬を指せば楽々と答えられる。何の迷いもなく正確だ。若菜は何となくムッとする。
(いいよね。眼鏡かけてなくてもこんな小さいのが楽々見える奴って!)
 若菜は小さくなった下の段の鶏を指した。視力検査では2.0の箇所だ。眼鏡をかけた若菜でもそこまで見えることは稀だ。しかも正解だ。若菜はとても悔しくなった。
「違う」
「あ?」
 本当は正解だが、悔しくて否定する。どうにかして不合格にしてやりたい。
 訝る声を上げた厚志に向き直った若菜は告げた。
「これは山田さんちの鶏」
「は?」
 厚志が唖然とする。
「はい、次」
 若菜は無視して隣の豚を指した。
「……豚だろ?」
「違う。これは佐藤さん家で飼ってる豚」
 厚志は奇妙な顔をする。若菜は隣の猫を指差した。厚志が少々躊躇って答える。
「工藤さん家で飼ってる猫」
「違う。これは工藤さん家で――飼ってた猫の面影を宿した野良猫」
 厚志は腹を抱えて笑い出した。


END
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