ストーカーとコンタクトレンズ
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1.

 結果的にズル休みをしてしまった若菜は恐る恐る職場に顔を出した。
 若菜に気付いた同僚が微かに瞳を瞠り、次いで笑みを浮かべる。
「阿部さん。もう出勤してきて大丈夫なの?」
「インフルエンザ?」
 若菜を注視するなかには疑いなど欠片も含まれていなかった。彼らは純粋に若菜が病気で休んだと思い、心配してくれている。そのことに心を痛めながら若菜はあいまいな笑みを浮かべた。
「はい。もう大丈夫ですけど……ごめんなさい」
 あまりこの話題に触れたくない。若菜は逃げるように職場へ入り、一番奥に座る課長に近寄った。
「課長。昨日は本当にご迷惑をおかけしました」
 彼は入口の声に気付いていたようだ。若菜が近づくのを、穏やかな笑みで見守っている。
「体はもう大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です」
 後ろめたさに視線も弱くなる。若菜は硬い表情のまま課長に頷いた。
 課長は笑顔のまま瞳を細める。
「今日からまた頑張ってね」
「はい!」
 忙しくない時期で良かった、本当に。
 若菜はそう思いながら深く頭を下げる。そして踵を返し、自分の席に戻った。本当に心配してくれる同僚たちに感謝する。同時に、厚志に対する苛立ちを育てながら、パソコンを開いた。


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 休んでいる間に仕事が積まれていると思っていたが、そうでもなかった。拍子抜けした若菜だが、ここでも同僚たちの優しさに触れる。仕事を滅多に休まない若菜が休んだということで、心配した同僚たちが若菜を気遣い、若菜が休み明けに頑張らないようにと仕事を分担消化してくれていたらしいのだ。
 言葉にこそされないものの、同僚たちの優しい雰囲気からそれを感じ取った若菜は嬉しさに胸を詰まらせたものだ。こんないい職場に勤められてて本当に良かったと感謝する。
 彼らの優しさに今日だけは甘えさせて貰い、若菜は定時に帰ることにした。
 声を掛けられたのは、職場から出て角を曲がり、階段に向かうところでだった。
「阿部さん」
 振り返った若菜は青年を見つける。
 萩山大輝《はぎやまたいき》、若菜より1つ年上の先輩社員だ。走って来た彼は爽やかな笑顔を浮かべて若菜の隣に並ぶ。後輩指導も彼の仕事の内で、若菜は入社した当初しばらくは彼のもとで働いていた。
 若菜は笑顔を見せる。男嫌いな若菜だが、彼だけは例外だ。初めての就職で何をしたらいいのか分からず不安だった若菜に、丁寧に仕事を教えてくれた。失敗しても優しく諭し、何が悪いのか悟らせてくれた。
 若菜は性別を意識しないで彼を好きだった。
「今週の金曜に親睦会で飲み会があるんだけど、どうする?」
 大輝が隣に並ぶのを待ってから若菜は一緒に歩き出す。大輝の言葉に呆れた表情を作ってみせる。
「またですか、先輩。先月もありましたよね」
「最近は仕事にも余裕があるし、いいかなーって」
 今年の親睦会幹事は大輝が務めている。企画から店の手配まで、ほとんどが彼の仕事だ。親睦会には毎年2名が選出されており、もう1人も若菜の先輩にあたる女性社員だった。しかし仕切るのはほぼ大輝に任されているようだ。怠慢ではなく、単に性格と役割分担の違いだという。若菜はもう1人の女性社員にも懐いていた。
 親睦会は毎年交代制で、来年は若菜に回ってくるようだ。今から気が重い。
「そうですねぇ。私も最近は忙しくありませんし、今のところ、返事はOKです」
 笑顔で告げると大輝も笑顔を返した。彼が笑うと、暗い廊下にも光が差したように感じてしまう。爽やかな笑顔に素直に安堵する。
 給湯室と玄関と、分岐点である階段まで来た若菜は手を振ろうとした。
「それじゃあ私、帰りますね」
「ああ。下まで送ってくよ」
 大輝はごく自然に階段を下り始めた。慌てて止めようとした若菜だが、大輝はもう先に行っている。抗議したところで無駄に終わるだろう。
 若菜はためらったものの好意をありがたく受けることにした。大輝と共にいると安らげるのは事実なのだから、無理に邪険にすることはない。
 若菜が素直に階段を下りると、それを確認して大輝も再び階段を下り始めた。最初よりも速度は遅い。若菜が追いつくまでその歩調を崩さない。そんなさり気ない気遣いにも若菜は心を軽くする。
 ――こういうところを厚志にも見習って欲しいよ。
 若菜は横に並んだ大輝を見上げた。
 厚志より背は低いものの、弱さは感じさせない。均整のとれた体つきに優しい性格。紳士的な態度をいつも崩さずに、第一印象で気に入られるのが間違いない笑顔の武器を持っていた。
 色恋には無縁でいようと決めている若菜はときどき酷くざっくばらんだ。普段は猫を被っているので滅多にそのような行動は見せない。しかしときおり見せるそんな行動に、周囲は無意識に若菜を女扱いしないところがあった。若菜にしてもそちらの方が自然に呼吸できるので楽だ。
 しかし大輝はどんなときでも若菜を女性扱いして気遣いを忘れない。それは若菜だけではなく、他の女性に対しても同じだ。社内で彼に憧れる女性はかなり多い。若菜はさすがに黄色い悲鳴を上げるまではいかないが、たとえ女性扱いされても大輝の態度には嫌味がなく、素直に好感を抱いていた。女性扱いが過ぎて恥ずかしいときもあるが、不満には思わない。
 入社当初、大輝受け持ちの新人が若菜ということもあり、その状況に嫉妬心を燃やした女性社員から若菜は様々な嫌がらせを受けていた。あいにくとそのような嫌がらせに動じない若菜はどんどんと大輝の指導を吸収し、今では彼と並んで仕事をできるほどに育っている。そうなると他の女性社員もあからさまな嫌がらせはできなくなり、現在ではほぼ皆無になっていた。やはり時間の経過は偉大らしい。
 若菜に嫌がらせが集中したのは、大輝に恋人がいないから、という理由も関係している。もしも恋人がいたなら、ただの後輩指導にここまで女性たちの醜い嫉妬心が絡むこともなかっただろう。ふとしたキッカケで、大輝が縁談を断り続けていると聞いていた若菜にとってはため息をつきたい気分だ。若菜としても仕事に打ち込むため縁談を断り続けているので、大輝を責めるわけにはいかないのだが。
「その後……変わったことはない?」
「え、はい?」
 若菜は我に返った。大輝をまじまじと観察していた自分に気付き、次いで大輝と視線が合って気まずくなる。思わず視線を逸らせて苦い気持ちになった。変に思われなかっただろうかと眉を寄せる。好感を持っている人間に嫌われるのは辛い。
「えーと、何でしたっけ?」
 恐る恐る顔を上げた若菜は笑われた。その明るい笑い声に救われた気分になって、若菜は視線を大輝に向ける。大輝は少しためらってから耳打ちした。
「ストーカー」
 大輝に耳を寄せた若菜は表情を強張らせた。気付いた大輝は不味いと悟ったのか、直ぐに謝る。
 若菜は慌てて手を振った。
「ああ、違うんです。平気ですよ。もう現われなくなりましたし」
「そう? 良かった」
 大輝は一瞬、探るように若菜を見てから安堵した。
「はい」
 優しい大輝の言葉に笑顔を返しながら、若菜は胸を痛めた。
 ――お世話になっている先輩に嘘をついた。
「大輝先輩が助けてくれたので大丈夫です」
 少し前のことだ。若菜は道端で告白された。相手は見ず知らずの男性だった。どうやら通勤途中に若菜を見かけて一目惚れしたらしい。
 こんな自分に一目惚れする奴なんているんだ、と若菜は驚きながら嬉しくもあり、しかし猫を被った外見に惹かれるなんてと落胆する部分もあり、男に対する申し訳なさを覚えながら断った。厚志にも宣言した通り、男嫌いだ。誰とも付き合うつもりはない。仕事に打ち込んで両親を養うのが若菜の夢だ。
 告白され、断るまでは良い。一時は若菜の心に残るだろうが、あとは仕事の忙しさに埋もれて忘れていくだろう。罪悪感もまた薄れていくはずだ。
 しかし問題はそこからだった。
 男は諦めなかったのだ。
 若菜を尾行する。家の周辺を徘徊する。隙を見て若菜に迫る。
 特に気に留めていなかった若菜だが、次第に鬱陶しさを覚え始めていた。そんな頃、男はとうとう若菜の会社にまで姿を現した。私生活を会社にまで持ち込みたくない若菜は当然ながら怒る。しかし男も諦めない。なんとか食い下がろうとするが、若菜の中で目の前の男はすでに“迷惑男”へと成り下がっていた。恋人になれようはずもない。それが男にはなぜ分からないのだろうか。
 皆の出勤時間が刻々と迫り、皆の前で愁嘆場を演じたくない若菜の苛立ちは高まっていく。男を強引に外へ追い出そうとしても、彼の力だけは本物であり、女性である若菜では敵わない。一体どうすればいいのだと頭を悩ませた頃に大輝が出勤してきたのだ。
 大輝は若菜と男を交互に見比べた。そして瞬時に状況を判断すると二人の間に立ち、興奮する男をあっさりと撃退した。若菜の中で大輝が不動の地位を獲得した瞬間だった。
「でもストーカーってタチが悪いって聞くから、心配だったんだ。阿部さん、ちょっと抜けてるところあるから」
「ひどいですよ。自分ではしっかりしてるつもりなんですから」
 わざと明るく告げる大輝に、若菜も便乗して明るく笑った。
「また何かあったら頼ってきてね。いつでも駆けつけるよ」
「ありがとうございます」
 会社の玄関口まで辿り着いた若菜は振り返り、大輝に手を振った。
 大輝はしばらくその場に留まって若菜を見送ろうとしたが、肝心の若菜がそれを許さず、早く中に戻って下さいと怖い顔を作ってみせる。大輝は笑って階段を戻っていった。
 大輝のうしろ姿が消えてから、若菜は笑みを崩して小さなため息をついた。
 ――ストーカーは大輝が追い払ったあとも現れた。大輝に追い払われたことで頭に血が昇ったのか、行動はエスカレートした。
 それは若菜にとっても同じことだ。会社にまで現われ、大輝に迷惑をかけたことが若菜の逆鱗に触れていた。その日、自宅に戻った若菜は由紀子と対策を練り、その日の夜に現れたストーカーを見事に警察送りにした。騒がれることを好まない若菜は最後まで警察沙汰を渋っていたのだが、背に腹は代えられない。近所ではちょっとした騒ぎになった。
 表沙汰にしたくなかったため、親しい友人にも隠していた事件だ。大輝が今でも心配していると知って、心が痛む。
 若菜は会社を後にしながら頬を緩めた。
「それにしても大輝先輩っていい人だー」
 瞬時に比べてしまうのは厚志だった。若菜は鼻を鳴らす。乱暴で強引なだけの厚志とは大違いだ。
 若菜は軽い足取りでバス停に向かった。本当は車が欲しかった。その購入のために資金を貯めようとしていた。しかし車のローンを組むどころではない話になり、若菜は嫌な気分を思い出して顔をしかめた。
「ああついてない」
 もしも、と若菜は考えた。
 借金の相手が厚志ではなく大輝だったなら、若菜の人生は変わっていたかもしれない。
 そう想像して若菜は眉を寄せた。
 あり得ない想像だ。いくら頼っていいと言われても、お金のことで他人に迷惑をかけたくない。本音をいえば厚志との恋人契約も大輝に相談したかったが、ことがお金に関わるだけに、ためらわれた。大輝であれば本当に100万円を出してしまいそうな気がする。
 ――嫌いになりたくなければ金銭の貸し借りは決してするな。
 誰だかが言っていた台詞が脳裏をよぎる。
「人間、お金が一番ってわけじゃないけど、世の中に一番必要なのはお金だもんね」
 若菜は憂鬱なため息を吐き出した。

 
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