ストーカーとコンタクトレンズ
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2.

 春が近づいているとはいえ寒い。
 特に、若菜が住むこの地方は毎年冷たい風が吹く。雪を降らせる雲は大陸の中央を走る高い山々に阻まれる。代わりに、山では阻みきれない風が冷たさだけを孕んで、若菜が住む町に息吹を浸透させるというわけだ。
 せめて雪が降ってくれればいいのに、と思いながら若菜は空を見上げた。
 雪雲は重く垂れ込めているが、あと一歩が足りないというように沈黙を保っている。東京にいた頃では考えられないほど厚着をしていなければ耐えられない。
 若菜はマフラーを口まで引き上げた。バス停までの道のりが長く感じられる。
「あー……車が欲しいなー……」
 白い吐息が頬を撫でる。それを見ながら鼻を啜る。
 昨日今日と窓ガラスがない部屋で休み、結構なストレスを溜め込んでいる。本気で体調を崩しそうだ。早く家に帰り、温かいものをお腹一杯食べるのだ、と若菜は脳裏におでんやラーメンを描いた。
 厚志のことさえなければ今頃は適当な車を中古で見繕い、ローンを組んでいたかもしれない。
 そう思った若菜は眉を寄せた。
 給料は、車ではなく家計に回される可能性が高い。なにしろ固定資産税が払えなくて厚志に借金をしたくらいだ。車どころではないと、由紀子に怒られたかもしれない。
 簡単に想像できる顛末にため息は禁じえない。
「それにしたって本人の確認ないまま進めるんだから」
 怒るのも当然だ、と思いながら若菜は呟いた。
 もしお金の関係がなく、ただの幼馴染として再会していたらどうしただろうか。やはりそれなりの恨みはあるが、感情をすべて吐露して殴ったらスッキリするような気がする。昔のことは水に流して新しい友情が築けたかもしれない。
 今更、考えても意味がないことだ。
 バス停に辿り着いた若菜は小さくかぶりを振って往来を見つめた。
 バス停には誰もいない。この時間帯、誰もいないとは珍しい。もしかしたら既にバスが行ってしまったのかもしれないと腕時計を見たが、時間には早い。単に寒さのせいで買い物客となるオバさんたちの姿がないだけなのかと納得する。
 視線を上げ、眩暈がしそうな白を見つめる。車道の雪は片付けられていたが、歩道にはまだ雪が残っていた。排ガスで黒く染められ、若菜はあまり好きではない。
 腕時計を再び確認し、ちょうどの時間になったと車道を見る。しかしいつも角を曲がって現れるバスは、今はない。雪のせいで遅れているのだろう。バス利用者には宿命ともいえるバス待ちの時間だ。若菜はため息をついてベンチに腰掛けた。冷たさがコート越しに染みてきたが、若菜は少し体を震わせただけで気にしないよう努めた。
 思い出したストーカーのことを考える。忘却に預けていたのに、大輝の一言で思い出してしまった。記憶に付随して蘇るのは情景ばかりではない。そのとき覚えた怒りまでも再燃する。苦い思い出に顔をしかめる。
 これまで告白されたことは数回あった。しかし、ストーカーになるまで執着されたのは初めてだった。そんな初体験に興味を覚えたが、自分に害を為すだけだと悟ったあとは鬱陶しいの一言に尽きた。会社に踏み込まれる前に警察へ突き出しておけば良かった、と今でも後悔している。そうすればイタズラ電話で由紀子を不安がらせることもなく、大輝に迷惑をかけることもなかった。なぜ面白いかもと思ってしまったのか、今となっては永遠の謎だ。あれは男嫌いを増長させたできごとだった。
「まぁ、もう関係ないけど」
 ストーカーは警察へ突き出されると、途端に弱気になった。お金で解決しましょうと示談まで持ちかけられて、不愉快な気分になった。土壇場で挫けるような男に苛立ちが増す。初恋の人に振られた過去を思い出すまでには至らなかったが、嫌な思いを味わうには充分だ。
 結局、彼には「二度としません」という誓約書を書かせ、提示された金額の2倍を吹っかけて示談を成立させた。彼の母親に泣いて謝られたことにも胸を痛めた。老齢の母親だ。そんな母親がこれほど泣いて他人に頭を下げる様子を見るのは忍びない。男に対する怒りばかりが増していく。
 因みに、その示談で振り込まれたお金は今や家計に組み込まれて残っていない。迷惑な事件だったが、火の車だった阿部家にとっては渡りに船といったところか。重宝させて貰った。
 法的に裁けないことには不安があったが、あのような根性なしの男は、たとえ刑務所に入ることがなくても二度と目の前に現われないだろう。若菜はそう納得し、警官の立会いのもとで誓約書を書かせた。
 若菜は往来を見る。バスはまだ来ない。いくらなんでも遅すぎる。運転手が時間を間違えているのではないだろうか。
「早く帰りたいのに」
 唇を尖らせながら呟いた。脳裏によぎるのは部屋の惨状だった。早く帰り、部屋を片付けたい。だからこそ同僚の気遣いに乗り、定時に仕事を切り上げてきたのだ。もともと面倒くさがりな性格のため、やると決めたときにやっておかないと後回しにしてしまう。そんな自分の性格は良く把握していた。
 結局いつものバス時間になってしまうことに落胆しながら若菜は座りなおす。
 バスが来るまで暇だ。せっかくだから鞄の中身を整理しようかなと思った若菜は、目の前に一台の車が停まったことに気付いた。
 信号待ちで停まったのだろうか。
 若菜は何気なく顔を上げ、運転席にいた人物を見て口をあけた。運転手はそんな若菜を見て楽しげに笑う。唖然と口をあける若菜に意地悪げな視線を向ける。
 若菜はそんな彼を見ながら、今日もまた厄日かと――盛大なため息を吐き出した。


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 運転席にいたのは厚志だった。
 若菜は彼に誘われるまま助手席に乗り込み、ドアを閉めて向き直る。
「なんで厚志が私の会社まで知ってるのよ?」
「由紀子さんに聞いたら丁寧に教えてくれた」
 厚志は何でもないことのようにサラリと答えた。
 若菜はシートベルトを装着しながら頬を引き攣らせる。由紀子の呑気な表情が浮かび、思わず「あのババア」と呟いてしまう。聞いた厚志が楽しげに笑うが、そんな声すら癪に障って、若菜はため息をついた。
「今度は何の用なのよ? 言っておくけど、次に無理やり欠勤させようとしたら、何がなんでも厚志との契約なんて解約だからね」
「借金の返済は」
「闇金にでもなんでも借りて、返してやるわよ!」
 厚志の台詞を遮って怒鳴りつける。語気荒く睨みつけてやると、厚志は肩を竦めた。まるで相手にされないのだと気付いた若菜は顔を真っ赤にさせて次の言葉を探した。赤信号で停まった厚志が改めて若菜に視線を向ける。
「……分かったよ。俺もそんなに暇じゃねぇしな。昨日のは特別だ」
「分かれば、いい」
 てっきり無視されたと思っていた若菜は、次の怒りを飲み込んだ。
 若菜としても、利息が高いところから好んでお金を借りようなど思わない。それこそ借金は雪だるま方式に積みあがり、阿部家は破産の道へ一直線だ。本当はローンを組むのも嫌いだ。しかし、就職して安定した収入を得ることができるようになった今では多少の妥協も仕方ないと感じる。あまりにも高い買い物は本能的に避けてしまうが、今の若菜は本気で闇金に借りれる勢いだった。
 若菜は心を落ち着かせると改めて質問した。
「で、何の用なのよ? まさか、わざわざ迎えに来てくれるだけの用じゃないでしょうね」
「つまんない奴だな。若菜にとってはそっちの方が有難いんじゃないのか? バス代が浮く」
 若菜は声をつまらせた。真実だったので反論は控え、眉間の皺を深くする。
「本当にそれだけで来たの?」
「まさか」
 車は渋滞に巻き込まれることなく順調に進んだ。あと少しで車は自宅に着く。
 そう思っていた若菜は眉を寄せた。厚志はふいに横道に逸れ、人通りのあまりない、細い路地で車を停めたのだ。
 このようなところに何の用があるのか。
 若菜が怪訝に厚志を見ると、彼はボックスの中から小さな箱を取り出した。サイドブレーキは上げられ、ギアはパーキングに入っている。
「……はい?」
 若菜は箱を凝視した。それは四角く、手の平に収まるような小さい箱。まるで、指輪でも入っていそうな箱だ。もちろん実物など若菜は見たことがないが、知識はテレビでも養える。
 若菜は「まさか」と表情を強張らせる。そんな緊張に気付いたのか、厚志は楽しげに唇を歪めて若菜の様子を観察していた。
「……なに?」
 若菜は声を低くすると、硬直したまま厚志を睨んだ。
 この近辺は田舎といえども開拓されてきている。関東と変わらぬ生活水準だ。しかし裏路地を1本入るだけで人の気配は消えてしまう。いつもであれば静かでいいと思うのだが、今このときばかりは人の気配を求めた。
 目を逸らしたら食われてしまうとでもいうように、若菜は厚志を凝視し続けた。
 いつまでも箱を手にしない若菜に業を煮やしたのか、厚志が舌打ちした。自ら箱を開けて若菜の手の平に置く。若菜は言葉を失くしたが、次第に怒りで手が震えてきた。
「なによ。これ」
「見て分からないか?」
 厚志の嘲笑が若菜を逆なでする。
「コンタクトレンズだ」
 当然だ、とでも言いたげなその声に、若菜はブチッと切れて肩を怒らせた。
「見りゃ分かるわよそんなこと! 私が言いたいのは! なんでこんな紛らわしい箱に入れてくるのかってことよ!」
 厚志は飄々としたまま若菜を見つめる。
「どんなものに入ってたっていいだろうが。何を想像してたんだ?」
 若菜の顔が一瞬にして朱に染まる。その一瞬の変化を見た厚志は声を上げて笑った。そこには「してやったり」と言いたげな雰囲気が含まれており、若菜は眦を吊り上げる。動揺を誘うためにわざとそのような箱にしたのだと悟った。
「馬鹿じゃないの!?」
 いつまでも大笑いする厚志を拳で殴り、若菜は鞄をつかむと外へ飛び出した。
「あ、若菜!」
 慌てたような厚志の声が追いかける。
 若菜は肩を怒らせたまま振り返った。厚志が窓から手を出し、小さな箱を振っている。
「どうすんだよこれ?」
「い、ら、な、い!」
 無性に腹が立つ。一文字ずつ強調して怒鳴りつける。厚志は体を揺すって更に笑った。
 若菜は悔しさを押し殺す。真っ赤な顔で怒り心頭のまま、自宅へ向かって歩き出した。

 
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