ストーカーとコンタクトレンズ
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3.

 若菜は車で入れない細い路地を選んで家へ向かう。自宅まではもう直ぐだ。
 当初こそ若菜の名前を呼んでいた厚志だが、何の応えもないと悟ると諦めたようだ。車を置いて追いかけるにしても間に合わないと考えたのだろう。
 若菜は樹木が立ち並ぶ神社へ踏み入った。
 町の片隅にある小さな神社だ。普段の参拝客は滅多にいない。この場所が人で溢れる唯一の時期は、元旦の初詣くらいだ。
 家の直ぐ近くにあるというのに、若菜はこの神社へ足を運んだことがなかった。近くにあるからこそ足が向かないのだろうか。いつでも来ることができると思うと、改めて来ようとする気が失せる。
 若菜は見たことのなかった神社の本殿を見つけて足を止めた。そのまま通り抜けようとしていたが、足は自然と本殿に向く。途中に財布を出していくつか小銭を握り、賽銭箱へと投げ込んだ。鈴を揺らせると重くて低い音が神社に響く。
 今の若菜が願うのは1つだけだ。
「厚志の暴走が止まりますように」
 単なる気休めにしかならない参拝だろうが、若菜はひとまず「本気で叶えてよね」と本殿を睨んだ。そして周囲を眺める。
 敷地内に1歩足を踏み入れるだけで高い樹木に陽射しを遮られ、風も冷たい。夏はいいが、冬はあまり訪れたくない。
「寺とか神社って、薄暗いのばっかりだよね。樹が沢山あるから仕方ないけど、これがあるから来る気が起きないっていうのもあるかな」
 若菜は呟きながら、小さな神社を探索した。樹齢何十年かの大きな樹が存分に枝を広げている見つけて振り仰ぐ。
 冬のせいか色は暗く、夏に見るよりおどろおどろしい。巫女や神主になればまた違った見解を得られるのだろうか。どちらにしろ若菜には、この場所で働くことには向いてなさそうだった。
 若菜は肩を竦めて歩き出した。
 こういった領域に樹が多いのは、根が地面から気を吸い上げて、幹を通って枝へ渡り、その先から大気に放出する役目を持っているからだと聞いたことがある。放出された大気は浄化されており、それはこの聖域を守る役目へと繋がっているらしい。だから神社や寺はとても静かなのだ、と。巫女や神主は、その音を聞き取るのが役目らしい。
 落ち着くと言えば落ち着くが、やはり暗闇というのは不安を掻き立てる。余計な寄り道をしているせいで周囲が暗くなっていくのも早い。
 参拝も終わったことだし、早く抜けてしまおうと若菜は足を速めた。
 湧き上がる不安には気付かないふりをして、先ほどまで一緒だった厚志を思い浮かべた。
「だいたい、なんでコンタクトなわけよ」
 静か過ぎるのが不気味で、若菜はあえて声を出した。もしかして会社を休ませてまで島田の元へ向かったのは、コンタクトレンズを作るためだけだったのだろうかと思う。
「まさか、ねぇ? 眼科ならこの近くにも沢山あるし、わざわざあんな遠くまで行くほどのことでもないよ。金持ちの考えることって分からない」
 神社の敷地を抜けると夕暮れだった。冬の終わりの太陽が山の稜線に沈んでいく。あと10分もしないうちに陽射しは消えるだろう。そんな空を少しだけ眺め、若菜は現実に立ち返るとため息をついた。結局はいつもと同じ帰宅時間になってしまう。
「あーあ。意味なーい」
 階段を下りながら呟いた。ここからは自宅も眺めることができる。視線を向けた若菜は顔をしかめた。
「最悪。先回りされてるし」
 自宅の前には黒い車が停めてある。先ほどまで若菜が乗っていた車だ。追いかける代わりに待ち伏せしようと思ったのだろう。
 どうしようかと眉を寄せた若菜だが、なぜこちらがそんなことに頭を悩ませなければいけないのだと唇を尖らせた。たとえ自宅前に厚志がいても、無視して部屋に入ればいい話だ。その前に厚志とひと悶着はあるだろうが、ひたすら無視に徹しよう。
 そんな決意をしていた若菜は、ふと、背後に人の気配を感じて振り返った。
「……え?」
 視線の先には男の姿があった。
 それだけなれば驚くことはない。ひとけのない神社とはいえ、人とすれ違うこともあるだろう。
 若菜が驚いたのは、男の顔に見覚えがあったからだ。
 由紀子と一緒に捕まえ、警察に突き出した男。2度と若菜の前には現われない、と誓約書を書かせた男。若菜の脳裏に悪夢が蘇る。
 若菜よりも上段に立つ男は若菜を見下ろしていた。その顔は生気を失ったようにやつれている。事件は明るみに出されなかったが、男は会社をやめざるを得なかったのだろう。それについては同情する余地もない。自業自得だ。無精ひげを生やした男は以前よりも頬がこけていて、髪の毛もざんばらだった。普段着であろうTシャツは皺くちゃでよれよれだ。
「あんた」
「阿部若菜……」
 フラリ、という言葉が正しい動作で男が駆け下りてきた。
 若菜と男との距離が縮まる。
 若菜は呆気にとられて男を見ていた。彼が包丁を握り締めていることに気付き、ようやく危機感を覚えた。彼は明らかに若菜の名前を呼んだ。包丁を持ったまま素通りなどしないだろう。
 ――殺される。
 若菜は鞄をその場に投げ捨てた。両手を握り締めて構える。しかし足がすくんで動けない。いつもの威勢はどこへ行ったのかと思うほどだ。男に勝てる気がまるでしない。武術を本格的に習ったこともない。見よう見まねで遊んだことはあるが、真剣なときに使ったことはない。厚志のときとは明らかに空気が違う。
 もし普通の場所で襲われたなら、助けを呼びながら走って逃げることも可能だっただろう。しかし若菜がいるのは神社から続く階段だった。それも、下まではかなり長い。叫んでも声が届く範囲に家屋はない。足を踏み外したらあっさりと地面に叩き付けられるだろう。
「冗談じゃない!」
 若菜は震えるまま舌打ちした。男が振り上げる包丁に視線を固定して、死に物狂いで避ける。
 一振り、二振り。
 男は憑かれたように攻撃を繰り出していく。
 若菜は怪我をする直前ギリギリで攻撃を避け続けた。
 頬が引き攣るのを感じると共に余裕のなさも感じ取る。
 ――かわしきれない。殺されるのも時間の問題だ。
 若菜は目頭が熱くなるのを感じた。視界が悪くなるのに気付いて慌て、奥歯を噛み締める。
(これだから男なんて……!)
 若菜のなかに苦い思いが再燃する。
(誓約を簡単に破るのは別に構わないけど、逆恨みだかなんだかで殺されちゃいい迷惑だよ……!)
 若菜の脳裏に「会社員、ストーカーに殺される」という新聞記事が浮かんだ。余裕なのかもと思わないでもないが、現実は厳しい。
「痛っ」
 若菜は悲鳴を上げた。
 刃ではなく、柄が腕をかすめた。骨に食い込むような痛みに若菜は腕を引き、その勢いでバランスを崩した。
 視界が宙を舞う。つかむものを探すが何もない。
 この階段には手すりがない。安全面で住民たちから苦情が上がり、手すりを設けるよう町内会で審議している最中だった。
 若菜は無重力に陥った。途中、刃物を振り回していた男が、愉悦に歪んだ瞳で自分を見ていることに気付いた。
 悔しさを覚える余裕もない。
 若菜の足は階段から離れ、悲鳴を上げることもなく、そのまま落下した。
「若菜!」
 真剣に鋭く大きな声。だいぶ落下した若菜は、硬い何かにぶつかった。
 落下の恐怖に暗転していた視界が色を映す。失いかけた意識が「生きている」と囁いた。衝撃はあったが、コンクリートではない。抱きしめられた若菜は耳元で安堵する誰かの声を聞いた。恐怖で固まっていた若菜は動けない。ただ、抱き締めてくれるその暖かさが、泣きたいほど嬉しかった。
「あの野郎!」
 階段下で若菜を受け止めたのは厚志だった。自宅から神社が見えて、駆けつけたのだろう。厚志は若菜を座らせて立ち上がった。
 上段にはまだ男がいた。
 彼は厚志の出現に呆然としていたが、厚志が殺気さえ込めて駆け上がると怯えたように逃げ出した。包丁などその辺に投げ捨てて情けない悲鳴を上げる。
 厚志の怒声と男の悲鳴が遠ざかる。二人の姿は階段の上に消えていく。
 若菜はその場に座り込んだまま呆然としていた。足が震えているのに気付いて手を伸ばすと、その手も震えていた。死を覚悟した瞬間の恐怖にまだ囚われ、若菜は拳を握り締める。唇を硬く引き結ぶと涙が出てきた。
「生きてる……」
 呟けるのが不思議なくらいだ。厚志が来なかったら若菜は確実に死んでいただろう。
 喉が干上がって、唇も乾燥している。
 若菜は俯いて肩を震わせた。抱き締められた瞬間に感じた、確かな安堵が胸を震わせる。
 周囲は完全に夜へと移行していた。陽は山の向こうへ隠れている。
 誰も通らない神社の階段下で、若菜は動こうとせずにただ座り込んでいた。スーツが汚れることなど構わない。追いかけていった厚志は無事だろうかと、ようやく心がそこに辿り着いた。麻痺していた心が再び恐怖に染まる。もし厚志に何かあったら、どうすればいいのか。
 青褪めた若菜が立ち上がろうとしたときだ。
「若菜!」
 恐怖から救い上げる声が頭上から降ってきた。
 若菜が振り仰ぐと、視線の先には厚志がいた。乱れたスーツは格闘の証だろうか。どこにも怪我はない。素早く階段を駆け下りてくる。
 厚志は地面に膝をつくと若菜を覗き込んだ。真剣な表情のなかに、つい先ほどまでふざけていた様子は欠片もない。本気で心配してくれているのだと気付いて、若菜は唇を震わせた。厚志が微かに眉を寄せる。滲んだ涙に気付かれたのだろう。
「あいつは?」
 若菜は慌てて涙を拭って問いかけた。伸ばされかけた厚志の腕が止まる。
「――心配ない。今頃は警察だ」
 若菜は視線を厚志の手に移す。誰かと連絡を取り合ったのか、携帯が握られていた。彼は無造作にポケットに携帯を突っ込むと、再び若菜に視線を向ける。
「怪我はないのか?」
「あ、厚志がいたから、平気」
「そうか」
 若菜は不意におかしさが込み上げてきた。妙な気分だ。厚志に本気で心配されるとは思ってもみなかった。不思議に嬉しい発見だ。
「じゃあ家に戻ろう。立てるか?」
「絶対無理。腰抜けて立てない」
 若菜はかぶりを振った。恐怖は晴れたが、足に力が入らない。重たい空気が嫌で、わざとおどけた声を出してみる。しかし向けられる厚志の瞳から真剣さが抜けることはなかった。
 厚志は小さく「そうか」と頷くと、戸惑う若菜を軽々と抱き上げた。世に言うお姫様抱っこだ。
「うわちょっと。それ無理!」
「何が無理だ?」
「下ろしてよ!」
「歩けないんだろう? 遠慮するな」
 若菜はおどけたことを早くも後悔した。遠慮ではなく恥ずかしいのだと心のなかで叫び、下りようとした。しかしそうすると厚志の腕が強くなるばかりで不可能だった。
「下ろしてって!」
「早く家に帰りたいだろうが」
 若菜は奥歯を噛み締めて厚志を睨んだ。顔を背けて前を見る。
 こんな姿を近所の者たちに見られたらどう思われるだろうか。
 誰もがカーテンを閉めていてくれることを願いながら、若菜は黙って厚志に身を任せた。家は本当に直ぐそこなのだから、こんな恥ずかしい格好をしているのも直ぐに終わるだろう。
 厚志に頭を寄せると抱えられる腕の力が強まったが、若菜は何も言わない。歩く震動と、包み込んで守られるような暖かさに心が震える。こうしていると眠気さえ覚えてきて、瞼を閉ざす。
 助けられた恩を感じながら、若菜は厚志の肩を強くつかんだ。

 
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