ストーカーとコンタクトレンズ
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4.

 厚志に抱えられて帰宅した若菜を見た由紀子は、驚きに双眸を瞠って、両手を頬に当てた。
「あらまぁ若菜」
 由紀子の表情は喜色に輝く。
「ちょっと待て」
「おめでとう厚志くん」
 由紀子が何を想像しているのか悟った若菜は制止の声を上げたが、遅かったようだ。感激して瞳を潤ませる由紀子は厚志の背中を押す。
「さぁ入って入って。今日はお母さん、奮発するわ」
「違うんだって!」
 若菜の声など聞きもしない。一度思い込めば他人の言葉など耳に入らない性格なのだ。思い込みが激しく、早とちりをしやすい母。それが自分にも受け継がれているのだと、若菜は忌々しく舌打ちした。
 由紀子をやんわりと制したのは厚志だった。
「違いますよ、由紀子さん。恐怖で動けなかったようなので、運んで来ただけです」
 若菜は思わず厚志を見上げた。そこには先ほど見た真剣な表情があるばかりで戸惑ってしまう。いつもの憎たらしい顔はどこへ行ったのかと、苦々しく思いながら視線を逸らす。
「恐怖?」
 厚志の言葉であるなら素直に聞くのか、由紀子は微かに表情を翳らせた。
「失礼します」
 厚志は廊下に若菜を下ろすと靴まで脱がしてくれた。
 若菜は厚志の行動を享受しながら、強張った足を静かに伸ばす。
「この前までしつこく押しかけて来てた奴がいたでしょ。そいつに殺されかけたの」
 目の前にしゃがみこむ厚志の頭部を見つめながら告げる。
 由紀子が驚いたように悲鳴を上げた。
「若菜。まだあんな男と関係があったの?」
「誤解招く言い方やめてよね! どんな関係があったって言うの!」
 若菜は由紀子を怒鳴りつけた。いつもの調子が戻ってきたようだ。
 立ち上がった若菜は憮然としたまま厚志に礼を告げた。
 厚志は驚いたような表情を浮かべ、若菜が決まり悪そうにしているのを見ると微笑んだ。若菜の手をつかんで唇を寄せる。手の平に唇の感触を受けた若菜は硬直する。
「無事で良かったな」
 今日は変な日だ、と若菜は思った。厚志が大輝のように優しく思える。
 伸ばされた厚志の腕に身を寄せようとしたが、目頭が熱くなっていることと、由紀子の視線を感じて、慌てて身を翻した。背後から二人の声が追いかけて来る。けれど若菜は顔を真っ赤にさせたまま階段を駆け上がり、早く一人になりたくて部屋へ戻った。


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 薄暗い神社。それを背景に佇む男。黄昏時の光を受けて鈍く光った包丁。
 若菜は寝台に横になりつつ、そんな風景を思い出していた。
 心の奥底で麻痺していた苦い恐怖が全身を包んだ気がして、若菜は両目を見開いて唇を引き結んだ。
 まさか今回のような事件に発展するとは思いも寄らなかった。示談だけで済ませてしまったのが悔やまれる。本当に殺されるかと思った。声を上げることもできなかった。
「最悪だ……」
 若菜はぽつりと呟く。
「だから男なんて嫌いなんだ。力で全部解決できるっていう勘違い馬鹿が多過ぎるんだから」
 すべてがそうではないと知りつつ若菜は呟いた。体を反転させて枕に顔を押し付ける。目頭が熱くなり、涙が浮かんでくることが分かった。同時に睡魔が押し寄せてくる。
 若菜はこのまま眠ろうかと思った。しかし男の歪んだ笑顔が脳裏から消えない。このまま眠ったら、男が夢の中まで追いかけて来るだろう。
 若菜は体を起こしてスーツを脱いだ。これだけでも着替えようと思う。
 厚志が侵入したせいで散らかった室内を見渡しながら、若菜は疲れたようにため息をつく。手近にあった普段着へ着替え直した。
 着替え終わったところでノックの音がする。
 若菜は声を上げようとしたが、それを待たずに扉が開けられた。
「ストーカーだって?」
 入ってきたのは厚志だった。
 彼は部屋の惨状に顔をしかめたものの止まらず、そのまま若菜に近づいてくる。
 若菜は不機嫌さを隠さず睨みつけた。声は知らず冷たくなる。
「まだ帰ってなかったの?」
「いいだろ別に」
 いくら助けられたとはいえ、厚志も男なのだ。
 若菜は心の奥底に沈殿した不愉快な何かをぶつけるように毒を吐いてしまう。直ぐに自己嫌悪したが、訂正しようとは思わなかった。
 厚志は戸惑ったように眉を寄せて歩調を緩めたが、思い直したように若菜の側まで近づいた。
「何の用なのよ? 見たら分かると思うけど、今は物凄く機嫌が悪いからね。用がないならさっさと出て行って。私はもう寝るから」
 厚志は呆れたようにため息をついた。
「まったく。こんな女のどこが良くてストーカーなんて付くんだか」
「うるさいな! そんなのこっちが知りたいってのよ!」
 若菜は怒鳴りつけた。どうやら恐怖は抜けたようである。厚志を睨み上げると苦笑された。
「外でもそっちの本性を出してれば寄ってこないんじゃないのか?」
「冗談言わないでよね。そんなことしたら私の人間関係が破綻するじゃない。今までの努力が全部パアよ」
 力説すると厚志は更に笑う。若菜は彼の笑顔を忌々しく睨みつける。早く出て行けと念じるが、その気配は一向にない。
 若菜は厚志の顔を見ながら不思議に思った。今では恐怖などすっかり失せている。気分が高揚していて、向かうところ敵なし、といった気分だった。こうなれば、なぜ先ほどの男を倒せなかったのかと疑問に思う。今なら蹴りの1つでも見舞ってやれそうだ。
「ほら、さっきのやつ」
 若菜の胸中を露知らず、厚志は小さな箱を取り出した。コンタクトレンズだ。
「要らないって言ってるでしょう」
 若菜は片手を腰に当てて唇を尖らせる。
「なに言ってるんだ。眼鏡があると邪魔だろう」
「ぜんぜん邪魔じゃない!」
 伸ばされた厚志の手を振り払うが、彼は構わず反対の手で若菜の眼鏡を取り上げた。
「この前のデータ通りに作らせた。合わなかったら言え」
「ちょっと!」
 眼鏡を取られた若菜は瞳を細めて叫ぶ。コンタクトレンズの箱を強引に押し付けられて途方に暮れた。眼鏡がないせいか、気持ちまでもが萎んでしまう。厚志の姿がぼやけて判然としない。急に1人で世界に取り残されたかのように感じた。
「まぁ入れてみろって」
「……嫌だって言ってるだろうが」
 楽しげな厚志の声に、若菜は不愉快さを募らせた。
 目の中にレンズを入れるなど冗談ではない。もし慣れてしまったら、つけたまま眠ってしまいそうな予感に満ちている。なるべく欲しがらないように、考えないようにしてきた。眼鏡であればつけたまま眠っても顔に型がつく程度で済むが、コンタクトレンズをつけたまま眠ると目が痛くなると聞いたことがある。
 若菜の脳裏からは殺されかけたことなど消えていた。迫る厚志から逃れることで精一杯になっている。
「せっかく作ってやったっていうのに、それじゃあ作り損だろうが」
「頼んだ覚えなんて全然ない!」
 厚志は器用にコンタクトレンズを取り出して指につけ、若菜に強引に迫る。若菜は冗談ではないので全力でその指を阻止する。
「いいから付けてみろって」
「い、や、だ!」
 若菜は何とか逃げ出そうと、抵抗を試みる。
「ぎゃあ!?」
 腕にばかり注意がいっていた若菜は、足払いをかけられて見事にすっ転んだ。無防備になって厚志の両腕に抱えられる。気付けば眼前に厚志がいた。眼鏡をかけていない若菜にも、表情が分かるくらいの至近距離にいた。
 若菜は瞬間的に顔を赤らめる。厚志が意地悪げな笑みを浮かべる。そんな表情までも読み取った若菜は悔しさに唇を引き結んだ。自分が男に不慣れなんだと実感してしまう。厚志相手に顔を赤らめるなんて屈辱だ、と胸中で叫ぶ。
「この……っ」
「このまま押し倒されるのと、黙ってコンタクトつけるのと、どっちがいい?」
 ニヤニヤ笑いを強め、楽しんでいるとしか思えない厚志の言葉。
 若菜は多少あった感謝の念を完全に忘れて怒鳴りつけた。
「いい加減にしやがれ馬鹿野郎ーっ!」
 近くにあった、幼少の頃から愛用しているアルバムをつかむと力任せに叩き付けた。
「若菜、どうしたのっ?」
 1階にいる由紀子が驚くほど、いい音がした。

 
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