ストーカーとコンタクトレンズ
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5.

 結局、若菜は力に負けてコンタクトレンズをつけた。
 顔をしかめたまま焦点を合わせようと何度も瞳を瞬かせる。そんな若菜を見ながら厚志が笑うが、自分のことに精一杯の若菜は気付かなかった。
「目がゴロゴロする」
「乾燥してるからだろ」
 厚志が目薬を取り出す。
 視界の端でそれを見た若菜は、どこまで用意がいいんだこの野郎、と一瞥しただけで受け取らなかった。目薬すら苦手だ。
 部屋の扉が開いて由紀子が顔を覗かせる。先ほど上げた若菜の怒声と大きな音に、様子を見に来たのだろう。由紀子は振り返った若菜を見ると目を丸くした。
「いつの間にコンタクトなんてつけて」
「今だけだ!」
 眼鏡がないにも関わらず焦点があっているため、分かったのだろう。
 若菜が怒鳴ると由紀子は肩を竦める。厚志と視線だけを交し合って部屋を出て行った。
 若菜は不愉快な気分のまま鏡を見た。
 鼻に眼鏡の重さがないことが不思議だ。ついつい癖で眼鏡を押し上げようとしてしまうが、そこに眼鏡が存在しないため、指は眉間を突いただけだった。
 様子を見た厚志が笑い出す。
「度数は問題ないか?」
「別に」
 若菜は不機嫌ながらも頷いた。検査したばかりのためか、現在使用している眼鏡よりも度数が合っている。部屋を見渡し、眼鏡装着時よりも散らかった惨状を詳細に目撃し、顔をしかめる。
 瞳が痛んで涙が浮かんだ。硬く瞼を閉じると痛みが増した。目が余計に悪くなりそうな予感だ。
「慣れるまで違和感はあるらしいがな」
「慣れるまで入れててたまるか」
 若菜は鏡を見ながらコンタクトを取ろうとした。
 ――指が目に触れる直前、指が近づく距離と同じだけ顔が後退した。
 馬鹿みたいだと自分で思った瞬間、後ろで見ていた厚志が爆笑した。
「黙れ!」
 腹が立って怒鳴りつける。今度こそ、と覚悟を決めて鏡に向き直り、瞼を押し広げる。
 ――先ほどと同じことが繰り返された。
「くっそ。腹立つな!」
 いつまでもコンタクトを取れない自分に苛立ちが増す。コンタクトを入れるときは眼鏡がなかったせいもあり、慣れないながらもなんとか入れることができた。しかし今回はコンタクトを使用しているため、近づいてくる指が詳細に見えるのだ。余計に身構えてしまう。外部からの接触を体が勝手に拒否しているようだ。
 閉じようとする瞼に舌打ちすると、背後にいた厚志が肩を震わせた。若菜が睨みつけても効果はない。
「ほら、取ってやるから」
「元はと言えばお前が悪いんだろうが」
 何度か試して失敗した若菜の前に厚志が座り込んだ。若菜は苛立ちながらも逃げはせず、黙ったまま厚志に顔を差し出す。瞼を押し広げられて、厚志の指が近づいた。
「……おい」
 寸前で逃げる若菜に厚志が呆れた顔をした。
「だから無理だって」
 唇を尖らせると厚志は舌打ちする。若菜は思い切り強く頭を押さえつけられた。
「った」
 指の影が映ったと思ったときには、目の前に座る厚志の顔はぼやけていた。
「終了」
 もう片方も同じように取られる。溜まった涙を拭き取られる。
 目の前の厚志はもう明瞭さをなくしてぼやけている。反射的に瞳を細めて見ようとすると、額を叩かれた。
「目つきが悪い」
「なら眼鏡を返せ」
 立ち上がる厚志のすねを軽く蹴りながら告げると、ようやく眼鏡が返された。直ぐに眼鏡をかけると視界は明瞭となる。若菜は安堵の息をつく。
 コンタクトよりも眼鏡の方が自分には合っているようだと思う。
「俺の前以外ではつけるなよ」
「つけられるわけないだろうが」
 二度と御免だと告げると笑われた。
 厚志は箱にコンタクトを収めると若菜に投げ渡す。
「そうそう。つけたって自力で取れないんじゃ意味ねぇよな」
「……コンタクトの意味は取る取らないじゃなくて、見る見えないだろうが」
 悔しくて反論したが、厚志には笑われるだけだった。


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 食事の用意ができたわよと、1階から由紀子の呼ぶ声が聞こえた。
「そういえばお前、告訴するのか?」
 部屋を出た若菜は眉を寄せながら振り返った。その問題もあったのだと思い出した。言われるまで男のことを思い出さなかったのが不思議だ。
「……しない」
 若菜は険しい表情で呟く。確かに恐ろしい体験だったが、今では「訴えてやる」という強い気持ちが消えていた。代わりに「面倒だ」という気持ちが大部分を占めている。
「どうせ証拠不十分とかって、また軽くあしらわれるのがオチだし」
「ストーカー容疑はそうかもしれんが、殺人未遂でなら充分じゃないか?」
 若菜はきょとんとして「ああ」と頷いた。少しだけ考え、再び首を横に振る。
「やっぱりいいや。裁判ってお金がかかるって聞いてるし」
 リビングの扉を開けた途端、良い匂いが鼻をくすぐった。食卓には豪勢な料理が並んでいる。今回は由紀子も腕を振るったらしい。
 当然のように食卓につく厚志を見ながら、若菜はため息をついた。
「あの男にこれ以上関わるのって馬鹿らしいし」
「じゃあ、そう伝えておく」
 厚志は苦笑したが、先ほどの騒動で体力を使い果たしていた若菜は力なく頷いた。
 由紀子も台所から戻って食卓につく。2人のやり取りを興味深そうに観察しているだけで、何も言わない。そして2人の会話が終わると首を傾げる。
「ねぇ貴方たち」
 何の他意もなさそうな由紀子の声に、若菜と厚志は揃って顔を向けた。
「可愛い孫はいつできるの?」
 若菜は表情を凍らせた。


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「じゃあそろそろ帰りますね。ご馳走さまでした」
「厚志くんさえ良ければいつでも来ていいのよ? 婚約者ですもの」
「私の意思は?」
 婚約者である若菜よりも積極的に厚志の手を握り、由紀子は瞳を輝かせていた。
 厚志は車の前で、笑顔のまま握手を受け入れて頷いている。
 一番遠くでその様子を見守っていた若菜の声は黙殺された。
 時計の針がそろそろ10時を回ろうとする深夜。厚志を見送るため、由紀子と若菜は外にいた。
 当初、若菜は外に出るのを渋ったのだが、強引な由紀子には抗いきれずに屈服した。風はまだ冷たかった。薄いシャツのまま外に出てきた若菜は体を震わせる。スーツ姿の厚志がそれに気付いて苦笑する。
 夕食を一緒に摂り、風呂まで入った厚志の髪は柔らかそうだった。若菜は忌々しい気分でそれを見る。いったい誰の下着を出されたのか、是非とも問いかけたい。
 厚志を風呂に勧めたのは当然ながら由紀子だ。厚志は最初、着替えを持ってきていないからと断った。しかし由紀子は、着替えなら貸してあげるわよと強引に進め、終いには厚志の服を剥ぎ取ってまで風呂場に追い込んだ。厚志の悲鳴を背中で聞き流しながら、若菜は黙々と食事に没頭した。
 風呂から上がった厚志は上半身裸で、それを見た若菜が頬を染めるという展開は残念ながらない。むしろ、自分よりも先に入った厚志の背中に、嫌がらせも込めて冷たい両手を押し当てたりしていた。さらには厚志が入った風呂のお湯を張り替える。
「お父さんの後には入りたくないってほざく娘かお前は」
「誰がお父さんだ。厚志が入っただけでお湯が穢れてるような気がするんだ。余計な出費を返せ馬鹿」
 というやり取りまで繰り広げた。艶めいた話には決してならない2人だ。2人の脇では由紀子はつまらなさそうに見守っていた。
「若菜。今週の土曜日、空けておけよ」
「は?」
「じゃあ由紀子さん。おやすみなさい」
「はい。また来てね」
 突然話に引き戻されて声を上げた若菜だが、厚志は由紀子に挨拶をすると車に乗り込んだ。聞き返す間もなく去っていく。
 若菜は怪訝な表情のまま、厚志の車を見送った。


END
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