相互理解努力
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1.

 強張った四肢を伸ばして欠伸をし、起き上がった若菜は部屋の惨状を見て顔をしかめた。
 いい加減にしっかり片付けなければと思う。
 窓ガラスだけは壊された次の日に届けられたが、部屋の片付けは自分でしなければいけない。毎日毎日、疲れることばかりで片付ける暇もない。
 それでも昨日は厚志が側にいてくれて助かったと思う。黙っていればストーカーに対する恨みばかりが育ち、会社に行ってもどこか他人に怯えなければならない日々を過ごす羽目になっただろう。喧嘩でもしていれば気が紛れる。まさか厚志がそこまで計算して側にいたわけではないだろうが、厚志がいない今、若菜はそこだけ感謝する。
 壁時計を見ながら着替えていた若菜は、階下から呼ぶ由紀子の声に眉を寄せた。厚志の前でとんでもない爆弾発言をしてくれた恨みはまだ消えていない。
「孫なんて作ってたまるか」
 少しだけ不機嫌な顔となって階下に下りる。
 若菜は玄関に見知らぬ老人を見つけて足を止めた。白髪を後ろに撫で上げて綺麗にまとめ、スーツに身を包む老人だ。
 若菜は彼に見覚えがあった。視力検査をした島田だ。
「おはようございます、若菜さま」
 島田は皺が強く刻まれた顔で優しく微笑む。挨拶と共に、深々と腰まで折る。
 若菜は瞳を瞬かせた。
「えーと……島田さん、ですよね?」
「はい。覚えておいででしたか。嬉しいです」
「だって、おとといのことだし」
 若菜は混乱したまま顔をしかめた。なぜ島田がこんなところにいるのだろう、と思う。寝起きで頭が働いていないのだろうか。パチパチと瞳を瞬かせる若菜を、島田は心得ているように頷いて口を開こうとした。
「あら島田さん。中に入っていて下さいって頼んだのに。若菜。早く仕度してしまいなさい」
 島田の声を遮るように玄関が開き、由紀子が顔を覗かせた。彼女の腕には大量の大根が抱えられている。自宅裏の小屋から取ってきたのだろう。冬の間、小屋は天然の冷蔵庫になる。必要なときだけ家に入れれば冷蔵庫を占領することもなく、電気代もお得だ。
(いや、今はそんなことに意識飛ばしてるわけじゃなくて)
 大根から視線を逸らせて、若菜はかぶりを振った。
「若菜を迎えに来てくれたのよ。いつまでも待たせていたら可哀想じゃない。早く仕度してらっしゃいって」
「は?」
 若菜は目を丸くした。急かす由紀子と島田を見比べ、戸惑うばかりだ。そんな心境を察したのか島田が苦笑する。
「厚志さまから言い付かって参りました。今日から若菜さまの送迎をさせて頂きます。どうぞよろしく」
「……は?」
 握手を求められた若菜はひとまず応じた。温かな島田の手は本物だが、いまいち状況が分からない。
 動こうとしない若菜を由紀子が怒る。
「ほら。ご飯の仕度はしてあるから、早く準備を整えて来なさい!」
 由紀子の表情は本気の怒りに満ちていた。大抵のことには寛容な彼女だが、他人に迷惑をかけることだけは許さない、という性格だ。厚志に借金するのは迷惑ではないのかと、若菜としては声を大にして問いかけたいが、若菜の婚約者なら身内も同然で、本当の他人よりは線引きが曖昧になっているのだろう。皺寄せはいつも若菜に降りかかる。娘にも迷惑かけないで欲しいと願うのは欲張りだろうか。
「送迎って……もしかしてお金取ります?」
 由紀子の視線を気にしつつ島田に確認する。もしかしてこれは借金を膨れ上がらせようとする、厚志の新たなる嫌がらせなのかと勘繰ってしまう。
 島田は一瞬、何を言われているのか分からないように瞳を瞬かせた。意味が染みこむと明るい笑い声を上げる。
「いいえ。そのようなことはいたしませんよ。ご安心ください。厚志さまの善意ですから」
「はぁ。そうですか」
 善意、という言葉は都合よく聞き流した。
 若菜は再度、由紀子に急かされてリビングに入った。脳裏には憎たらしい厚志の顔が浮かんでは消える。今度は何を企んでいるのかと、やはり警戒心は湧いてきた。


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 仕度が整うまで島田は玄関にいた。冬の玄関はとても寒く、由紀子は何度も彼をリビングに促したのだが、彼は頑として動かなかった。仕方なく由紀子は小さな暖房機を玄関に置いたのだが、それだけで玄関の冷たさは拭えない。けれど島田は特に嫌な顔をすることもなく、若菜を玄関で待ち続けた。
 人が待っているということで、いつもより落ち着かない気分で仕度を整えた若菜は、島田が送迎に使うらしい車を見て頬を引き攣らせた。
 黒塗りの車だ。縦に長く、安定感と高級感が漂うもの。
 島田は後部座席のドアを開いて若菜を招いた。若菜が乗り込むと静かにドアを閉めて、運転席へと戻る。まるでどこかのお嬢さまになった気分だ、と若菜は落ち着かない。
「お作りしたコンタクトはいかがですかな?」
「えっと」
 バックミラー越しに笑いかけられた若菜は言葉につまった。
 正直、コンタクトなど要らないのだが島田に告げるのはためらわれた。彼こそ善意で作ってくれたに違いない。
「何か不都合がございましたら遠慮なく仰ってください。直ぐに対応させていただきますから」
「はぁ」
 若菜はあいまいに頷いた。一瞬、なら厚志が不都合ですので直ぐに対応してください、と言いたくなったが、冗談が通じるか分からないので口を閉じた。早くコンタクトの話題から逃れたくて、視線を逸らす。
 暖房が入っているのに曇らない窓を見た。ガラスに細工がしてあるのだろうか。黒ガラスは外を透かしていたが、外から見たときには内部が見えなかったなと思い出す。このガラス1枚をとっても、何十万もするのだろう。
 何もかもが若菜の日常とはかけ離れたものだ。
 シートベルトをはめた島田は静かに車を走らせた。
 若菜は流れていく風景をしばらく眺め、再び島田に視線を戻す。
「島田さんって、厚志の何……なんですか?」
 妙な質問だとは思う。しかし、どう言えばいいのか分からない。
 結局はそんな質問となり、島田は笑う。
 島田は少し考えるように小首を傾げ、落ち着いた声音で話し出す。安心できる声だ。老人とは皆こんな話し方をするのだろうか、と若菜は思った。
「既に私は定年退職が決まっている身ですが、厚志さまが再雇用して下さったんです。若菜さまにお会いした後に、厚志さまが『どうせ退職が決まってるなら今も後も同じだろう』と引き抜いたのです」
 相変わらずの強引さに若菜は眉を寄せた。厚志のやりそうなことだ。
 そんな心情が手に取るように分かったのか、島田は笑って声を震わせた。
「しかし私も仕事に誇りを持っていますから、中途半端に会社を辞めることはできません。それで、上司と相談し、来年度のために今から見習いということで、兼業させて頂いているんですよ」
 今は若菜の送迎のみ。本格的に厚志に雇用されるのは来年度から、ということだろうか。
 若菜を送り届けたあと、島田は本来の職場に戻って普段通りの仕事をこなすのだろう。高速道路を経由しての兼業。高齢な島田にはかなりの負担に思えたが、バックミラー越しに見える島田の表情は活き活きと楽しそうであり、若菜は沈黙を保った。
「でも兼業って……よく会社が許しましたね」
 兼業が許されないとは、法律で決められていなかっただろうか。それともあれは、公務員にだけ定められたものだっただろうか。
 若菜は思い出すように眉を寄せて首を傾げた。
 そんな若菜に、島田は皺だらけの顔で微笑んで片目を瞑り、とても楽しそうに頷いた。
「秘密ですよ、若菜さま」
 イタズラっぽく輝く島田の瞳に、若菜はきょとんとする。
 一瞬後に意味を飲み込んで、若菜は大きく笑い声を上げた。


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 会社へは15分で到着した。バスであればその倍近くかかっていたのだから、やはり自家用車があれば便利だなと、若菜は時計を確認しながら思った。
「お帰りはいつ頃になりますか?」
 会社の駐車場に停めた島田は、若菜が動く前に素早く外からドアを開けた。どこかのご令嬢になった気分で、若菜は複雑に笑う。
「不定期でよく分かりません。私のことはいいですから、島田さんは会社に行って下さい」
「いいえ。これも私の仕事ですから。お帰りが近くなりましたら、私の携帯に連絡を下さい。直ぐに飛んで参りますよ」
 島田は片目を瞑って笑いかける。しかし若菜は島田のように『いい人』を使うことには抵抗があり、申し訳なく思う。これが厚志であれば遠慮なくこき使えるのだが、上手くいかないものだ。
 本当にいいですから、と断られる気配を察したのか、島田は少しため息をついた。頑固な若菜を諭す最終兵器を出すかのように、真剣な表情で見つめる。若菜の背筋が自然と伸びる。
「これは口止めされておりましたが――厚志さまは、若菜さまが危険に巻き込まれることを心配されているんです」
「はい?」
 若菜は首を傾げた。
 島田は神妙な顔つきだ。まるで仏のような顔だ、と若菜はどこかずれたことを思う。
「聞けば、昨日は襲われたということではありませんか。そのようなことを聞かされてしまえば、私とて心安らかではありません。必ず、お迎えにあがりますよ」
 若菜は目を瞠る。昨夜の厚志を思い出した。
 あれから直ぐに島田に連絡を取り、送迎を決定したのだろうか。深夜を回っていたろうに、厚志の行動力には呆れるばかりだ。
「携帯はお持ちですね? 私の番号は名刺にございます。まだお手元にございますか?」
「ええっと、ああ、はい」
 若菜は慌てて財布を取り出した。朝に渡された名刺を取り出そうとする。
 買物時のレシートを財布のなかにしまっておくのが癖になっており、名刺を取り出す間際にレシートが何枚か舞い落ちた。
「げ」
 慌てるとレシートはさらに遠くへ飛ぶ。肩にかけた鞄もずり落ちて、若菜は俊敏に動けない。
 顔をしかめて鞄をその場に置き、追いかけうとした若菜だが、その前に島田が動く。老人とは思えぬ素早い動きで舞い落ちるレシートをキャッチする。
「はいどうぞ、若菜さま」
 一瞬にしてレシートを集めた島田は笑顔で若菜を振り返る。
「あ、ありがとうございます……」
 渡されたレシートを財布に戻した。少し呆然としている頭を振って、当初の目的だった名刺に目を通す。
 ――島田雅道。
 会社名と会社の電話番号、携帯番号が記載されている。
「こちらの携帯におかけ下さい。直通ですので」
 若菜は嬉しいのと申し訳ないのと、複雑な気分で頭を下げた。
「じゃあ、終わったらかけますね。ありがとうございます」
「若菜さまのためでしたら、骨身を惜しまず働きますよ」
「惜しんでください、頼むから」
 反射的に返すと島田は笑う。
「ええ。分かりました。では行ってらっしゃいませ」
 頭を下げる島田に手を振り、若菜は踵を返した。
 会社のエントランスへ向かいながら居た堪れない気持ちとなる。
(……毎日これは、ちょっと辛いかもしれない)
 高級車で乗りつけたのは誰なのかと、周囲から好奇の視線が突き刺さっていた。
 若菜は小さくため息をついた。

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