相互理解努力
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2.

「阿部ー、彼氏との連絡なら外でやれー」
「違っ」
 ベシリと頭を叩かれた若菜は慌てて否定した。
 仕事が一段落し、携帯に島田の電話番号を登録しようとしていたときのことだ。
 課長の言葉に一瞬、厚志を想像してしまった若菜は、それを消す意味でも思い切りかぶりを振って否定した。
 課長は笑いながら去っていく。その手には何かのポスターが握られていた。気付いた若菜は慌てて立ち上がり、携帯を引き出しに投げ入れる。
「私がやりますよ!」
「たまには課長もポスターを貼ってみたいもんなんだ」
 うそぶく課長に若菜は笑った。それでも彼が抱えているポスターの筒を1本抜き去り、先にポスター貼り所定の壁へと向かう。他人のために動くのは面倒だが、この職場だけは例外だ。皆が良くしてくれるここでは、自分で役立てることがあるなら何でもしたい。
「阿部は週末の飲み会には出るんだよな?」
「え? ああ、そういえば大輝先輩が言ってましたね」
 若菜は思い出して頷いた。
 古いポスターを剥がして新しいポスターに張り替える。その作業に慣れない課長はもたついている。若菜はそんな彼からもう1枚ポスターを奪って張り替えた。課長が苦笑する。
「良く働いてくれて助かるよ」
「じゃあ給料上げて下さい」
「そういうことは社長に言え」
「社長なんて会ったこともないですよ」
 本音だったが課長には笑われた。男らしい笑い声を上げて職場に戻ろうとする。しかし途中でふと足を止めた。
「前から疑問に思ってたんだが……」
「なんですか?」
 振り返った課長の表情がどことなく真剣味を帯びたものになり、若菜は内心で焦る。今の言葉に問題があっただろうかと振り返ってしまう。
「萩山のことは大輝先輩なのか?」
「はい?」
 言われた意味は分からないが、構えた心配は杞憂のようだった。安堵して首を傾げる。
「名前ですか?」
 課長を窺ってみるが、彼は何を言わんとしているのか悟らせない。貫禄のようなものを感じて顎を引く。課長の顔には、彼による皺も多々刻まれていた。
「やっぱり年上の人を名前で呼んだらまずかったでしょうか。先輩が名前で呼んでくれって言ってくれたので、つい」
 考えてみれば他の社員を名前で呼んだ覚えがない。最初、大輝の名前を呼ぶことにも抵抗はあったのだが、何度も呼んでいるうちに定着してしまったのだと思う。名字で呼ぶよう戻すこともできるが、今更のような気がした。
 見上げた先で、課長は少しだけ笑って首を横に振った。
「気にするな。名前で呼んだほうが親しい気がするしな。俺も名前で呼んでくれて構わないぞ?」
 笑いながら歩き出した課長に若菜は安堵し、笑って「えー」と声を上げる。
「課長は課長以外の者にはなれませんよ」
 大きな笑い声が廊下に響き渡った。


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「お疲れさまです若菜さま」
 にこやかに微笑む島田に、会社から出たばかりの若菜は目を剥いた。
「……早いっすね」
 仕事が終わってから連絡を入れ、そのまま1階へ下りて外へ出た矢先のことだ。連絡を入れたのはつい先ほどだったというのに、もう島田がいることに驚いた。
 そんな驚きを嬉しく感じたのか、島田はイタズラが成功した子どものような表情を見せた。
「この時間に間に合うよう、向こうの会社を出ておりましたので」
「いや、別にそんな……いいですよ? 本当に」
「いえいえ。朝も言いましたが、若菜さまの仕事だけはきっちりさせて頂きますよ」
 若菜は頬をかいた。本業を頑張れ、と言いたい。こういった人種は初めてだ。
 再びお嬢さまのように後部座席のドアを開けてもらい、中に滑り込む。車の前を島田が回りこむのを車内から観察する。運転席のドアを開け、入ってきた島田はバックミラーを確認しながら笑った。
「なんせこの年になりますと、若菜さまのような若い女性に関わる機会もありませんので」
「うわ。セクハラ発言だ」
 決して本気ではない若菜に島田も笑い、車は軽快に走り出した。
 出張帰りの者や定時で帰る者たちを車内から眺めながら、若菜は深く腰かける。本当に毎日送迎するつもりなのかと島田を見るが、彼はただ楽しそうに運転しているだけだった。その温和な表情からは、彼が本当に負担に思っていないのかは読み取れない。
(でもな。やっぱり、厚志の方が変に良心痛まないんだよね)
 車の震動も静かなもので、平らかなところに座っているだけのような感覚に陥る。さすがは高級車か、と若菜は妙なところで納得する。
 島田が何かに気付いたように「ああ」と声を上げた。
「申し訳ございません若菜さま。厚志さまより、警察へ向かうよう指令を受けておりました。どうなさいますか?」
「げ」
 綺麗に忘れていた若菜は瞳を丸くしてうなった。眉を寄せる。脳裏に浮かんだのは、ストーカー被害に遭ったときに相談を持ちかけた警察官だった。
 会社に乗り込まれたあと、素人だけで撃退するのは危険かもしれないと思い、若菜は警察に相談したのだ。しかし相談した先の警察官はやる気がないのか若菜の第一印象がまずかったのか、若菜を一瞥しただけで何の処置もされなかった。こうなれば自分の身は自分で守るしかない。本人を前に突き出せば事件性があるということで警察官も動くだろうと、若菜は闘志を燃やした。由紀子と2人でストーカーを捕らえたあと、誇らしく警察官へと突き出した。
 しかしまたもやここで警察官は怠慢を見せた。
 やる気のない様子でストーカーを引き取り、いかにも面倒そうに調書を書く。うな垂れて落ち込むストーカーに同情したのか、被害者であるはずの若菜に向かって「こいつの気も考えてみろ」と諭しだしたのだ。
 いくら若菜が被害者然としていなかったからとはいえ、その態度には若菜も由紀子も呆れた。若菜はその場で暴れ出そうかと考えたほどだ。最終的には示談となったが、思えば最初に示談を持ちかけたのも警察官からだった。
 ――それほど過去ではないが、すっかり忘れていた嫌な気持ちを思い出し、若菜は迷った。
「まぁ、本署なら……勤勉な警察官もいるんだろうけど……」
 若菜は腕を組んだ。
 何も知らぬ島田は若菜の答えを待っているようで、少しスピードを落として走っている。そんな彼をチラリと見上げ、若菜は小さくため息を落とした。警察へ行くことで島田や厚志が安心するのなら、茶番だとしても行く方がいいのかもしれない。また嫌な思いをするかもしれないが、それは胸の内に伏せておこう。
 若菜はそう思いながら、車を警察署に回すよう、島田にお願いした。

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