相互理解努力
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3.

 慣れたくもない警察署に赴いた若菜は疲労していた。
 色々と気遣う島田の声も今は負担でしかない。早く家へ帰りたいと思う。
 そうしてようやく帰宅してみれば、ここ数日で見慣れた大きな靴が玄関に揃えてあった。最終兵器はこいつかとため息も出ない。
「だから何でいるかな、私の家にお前は」
 リビングへの扉を開けたとたん、真っ先に映るのは厚志の姿だった。スーツの上着を脱いでしっかりと寛いでいる。そんな姿に脱力する。若菜は鞄を投げて頭をかいた。
「お疲れさまです。厚志さま」
「いや島田さん。こいつを労う必要はないです」
 若菜の後ろに従っていた島田が挨拶した。厚志が応えて片手を挙げたが、そのやり取りを遮るように若菜も片手を振った。そのようなことをしても島田の忠誠心は相当に篤いようで、心を入れ替える気はなさそうであるが。
「さぁさぁ若菜も帰って来たことだし、夕飯にしましょうね。若菜、手伝って」
 一連のやり取りを見守っていた由紀子が立ち上がった。若菜が帰って来るまで、彼女は厚志を捕まえて話に花を咲かせていたらしい。ずいぶんと機嫌が良い。
 厚志は両手を後ろに着いて足を伸ばし、寛ぎきっているように思えた。
「あのな……」
 若菜はその姿に呆れてため息ばかりつく。厚志の視線が向けられたが、いつもと違い覇気のないその視線に「おや」と片眉を上げる。しかし若菜が問い質す前に厚志は直ぐにその様子を払拭させた。若菜にニヤリと笑いかけ、島田には「ご苦労だったな」と声をかける。
 いつもと同じ態度に若菜はなんとなく安堵しながら憤慨した。
「あのね! これ以上厚志のわがままだけで島田さんに迷惑かけるな!」
 殴ろうとすると、厚志は笑いながら若菜の腕をつかむ。
「それで。警察では何だって?」
「……別に。ひと通り説明は受けたけど、最初から聞き流すつもりだったから覚えてない。ほとんど私と関わりなさそうだったから問題はない」
「なんだそれは」
 厚志と共に島田も笑う。2人に挟まれるような格好となり、若菜はもう部屋に戻ってしまおうかと踵を返しかけた。
 厚志が再び腕を引く。
 振り返るとさらに腕を引かれ、若菜は無言のまま厚志の横に腰を下ろした。直ぐに厚志の腕が伸ばされ、頭を撫でられる。まるで子どもにするようだ。
「生きてて良かったな」
「それは、まぁ、感謝してるけど」
 若菜は大人しくその状態を甘んじながら頷いた。釈然としないのはなぜだろうか。
 窺うように厚志を見ると憂いの光があり、若菜は鼓動を早まらせた。自分が何かいけないことをしてしまったかのような物を感じた。口を開こうとしたとき、キッチンから由紀子に呼ばれる。
「ほら若菜。早く手伝ってー。せっかく頑張ったのに、引っくり返したらもったいないじゃない」
「自分で気をつけて運べばいいでしょうーっ?」
 若菜はいつもの癖で素早く立ち上がり、怒鳴りつけていた。気付いたときにはもう遅い。慌てて厚志を振り返れば、そこにはもういつもの厚志がいるだけだ。先ほどまでの表情は消えている。
 若菜は顔をしかめて厚志を見ていたが、視線に気付いた厚志が怪訝そうに見上げてくると、慌ててキッチンへ逃げ込んだ。追及されるのが恐ろしい。
 キッチンでは業を煮やした由紀子が1人で皿を運ぼうとしていた。若菜は慌てて両手を伸ばす。落としそうなほどの料理が抱えられていた。
 間一髪。
 若菜が手伝わないとなると、由紀子は途端に失敗が頻発する。悪意はないらしいが、本当かどうか、疑わしいものだ。
 今回もギリギリで皿を受け止めた若菜は盛大にため息をついた。毎度のことながら由紀子の不器用さには涙が出る。安堵していると、由紀子は悪意のない笑顔で「助かったわ」と胸を撫で下ろす。
「……あのさ。なんで最近はこんな豪勢な料理ばっかりなわけ」
「婚約者が来てるんですもの。母さんの腕の見せどころじゃない」
「お母さんが結婚するわけじゃないんだからさ」
 顔を輝かせる由紀子にボソリと呟いたが、地獄耳は聞き逃さない。由紀子は何を思いついたのか嬉しそうに微笑んだ。新たに盛り付けた料理皿を手にしたまま、若菜の顔を覗き込む。
「危な」
「そうよね。結婚するのはお母さんじゃないものね。じゃあ次からは若菜がご馳走してね」
「……は?」
 落ちかけた大皿を元に戻した若菜は胸を撫で下ろしたが、次なる由紀子の言葉に目が点になった。途中の台詞を聞いていなかったため、意味が繋がらない。それでも非常に嫌な予感を抱きつつ問い返した。
「なんだって?」
「明日から母さんは食事を作らない!」
 呆ける若菜を前に、由紀子は宣言した。
「若菜ももう21なのだし、花嫁修業してもいいくらいなのよ。目の前に目標があった方が、若菜も頑張るだろうし」
「ちょ、ちょっと?」
 若菜は慌ててかぶりを振った。早く頭を回転させないと、この由紀子では手遅れになってしまう。
「明日から食事作らないって、それ困る!」
「どうして? だって母さんが作ってたら、若菜はいつまで経っても作ろうとしないじゃない。母さんが作るのやめて、その気になるの待ってようと思ったら2日くらいは平気で絶食するし――結局あのときは母さんが根負けして」
「いや、そういう問題じゃなく!」
 若菜は必死に言葉を探す。決意した由紀子はなかなか意見を覆さない。この時点で覆らせないと、もしかしたら由紀子は若菜に料理を作らせるため、1人で里帰りにまで及ぶかもしれない。
「だああ、嫌だよ私!」
 面倒なことはとにかく嫌。仕事で手一杯なのに料理の献立など考えてられない。母親がいるんだから、もう少しは甘えたい。
 そんな勝手な理由で言い募ったが、どう考えても若菜の方が分が悪い。このご時世、料理くらいできるのが常識なのだとしても、若菜はわがままを通したかった。
 凄まじい勢いで脳内をフル回転させるが、うまい言葉は浮かんでこない。どうしよう、とひたすらうなっていると意外なところから助けが入った。
「由紀子さんの料理が食べられなくなるのは困るなぁ……。俺、由紀子さんの料理も楽しみにして来てるし」
 横から割り込んできたのは厚志だった。何気なく若菜を庇うような発言だ。今までのやり取りを聞かれていたのだろう。厚志と島田がいることをすっかり忘れていた若菜は紅潮する。子ども染みた醜態を晒したことが恥ずかしかった。
 若菜を助けるためなのか、それとも本当にそう思っているのか、厚志は由紀子に微笑んだ。悪魔の笑みに見えたのは若菜の気のせいだ。
 案の定、由紀子は舞い上がった。
「本当、厚志くん? そう言ってもらえると嬉しいわ。そうよね。私が突然料理をやめたら、本当に、若菜のまずい料理しか出なくなるものね。それで厚志くんが倒れたりしたら困るわ。若菜の料理レベルが上がるまで、私も腕を揮い続けようかしら」
「……聞き捨てならねぇ……っ」
 非常に理不尽だったが、若菜は拳を震わせるだけで必死に耐えた。せっかく由紀子がやる気を取り戻しているのだ。口を挟めばお鉢は再び若菜に回ってくる。
「若菜の腕が由紀子さんレベルに近づくまで、よろしくお願いします」
「はい! 任せてちょうだい、厚志くん」
「なんでお前にお願いされなきゃいけないんだー!」
 若菜の怒りは、島田に無言で宥められた。

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