相互理解努力
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4.

 由紀子の発言にはいつも驚かされる。突拍子もつかなくて、返す言葉も見つからない。それでも、今回もなんとか切り抜けた若菜は、厚志を伴って自分の部屋へと上がっていた。島田は1階に残って由紀子と世間話に花を咲かせている。
 部屋の扉を開けると、いまだ床に散乱したままの惨状が飛び込んできた。若菜はため息をつく。後ろからは厚志がついて入る。
「時間はあるんだから、人並みに作れるようにはなれよ」
 若菜は振り返って厚志を睨みつける。
「うるさいな。人並みくらいにはできるよ、私だって」
 強く告げて、若菜は思い出す。
 クッキーを作ろうとしてサブレになったこと。ポップコーンを作ろうとしてトウモロコシが黒焦げになったこと。
 当初の予定とは違っても、とりあえずは食べられる。料理の範囲内だ。ポップコーンを作るには専用のトウモロコシが必要だなどと初めて知った。
 若菜は表情が険しくなるのを抑えながら呟いた。
「アレンジを加えようとするのが悪いんだ。レシピ通りにやればその通りのものが確実にできるし、それで失敗したことはない。でもそれだと私がつまらないんだ」
 若菜は胸を張って頷いた。厚志の忍び笑いが響いて唇を尖らせる。
「料理ができないとなれば縁談しても成立しなくなるぞ。そのうち『結婚したくない』じゃなくて、『結婚できない』になるんじゃないか?」
「だから、人並みにはできるって、言ってるじゃん!」
 しゃがみこんだ厚志は散乱したものを拾い集めている。若菜は容赦なくその背中に蹴りを入れた。
「痛ぇな。人がせっかく手伝ってやってるっていうのに、もう少し大事に扱えよ」
「厚志を大事に扱う理由が見つからない」
 若菜は腕を組んで仁王立ちし、厚志を見下ろす。この惨状の原因は厚志にあるのだから文句など言わせない。
 厚志は「はいはい」と肩をすくめると作業に戻った。
「厚志が壊したも同然なんだからね。しっかり掃除してよ」
 カーペットには舞い上がった埃が固まりになって積もっていた。どこから現れたのか不思議な埃だ。それらを粘着テープで取りながら、厚志に軍手を投げ渡す。ついでに隣部屋からホウキも持ってきて、壁に立てかけた。
 割られたガラスのうち、大きな破片はほぼ片づけが完了していた。しかし、簡単には取れない小さなガラス破片はそのままだ。掃除機をかけたくてもその時間がない。次の休みまではこのままにしておくしかない、と思っていた。
 素足で隣に立った若菜を、厚志は不機嫌な表情で見上げた。
「お前な。せめて靴下はけよ」
「スリッパ履いてるから大丈夫。ガラスありそうな場所には行かないし。さすがに素足でガラス踏みつける真似はしないっての」
「どうだか。集中するとそんなこと忘れて裸足になるんじゃないのか? スリッパなんて邪魔、とか思って」
「そ――うるさいな」
 反論しかけた若菜だが、生憎と自分のそんな姿が容易く想像できて、反論できなかった。頬を膨らませることが精一杯だ。とっさに嘘もつけない若菜に、厚志は笑う。それが悔しくて若菜は話題を変えることにした。
「それよか厚志!」
「あー?」
「あんまり家に来ないでよ。お母さんは嬉しそうでいいけど、厚志が来るたび我が家の家計は赤字に近づくの」
 厚志は意味を考えたあと、「あー」と納得して吹き出した。
「なによ?」
「いや。そういう理由かよと」
 若菜はその言葉になぜだかムッとした。持っていたホウキの柄を床にトンとつけて、片手を腰に当てる。
「そういう理由もなにも、私としてはお前が来ると大迷惑だし。本当はゴミ袋につめて出したい気分なんだけど」
 若菜は真顔で告げた。しかし厚志には笑われる。
 厚志は軍手を外すと若菜に向き直り、その頭を撫でた。若菜はわけが分からずホウキで彼の手を振り払う。
「なによ?」
「いやいや。素直な女は好きですよ?」
「やめてよね。気持ち悪い」
 ふざけた口調に鳥肌を立てて腕をさすった。けれど不意に、手を伸ばしてきた厚志の表情に胸を衝かれた気がして戸惑いを覚える。ついつい厚志を窺ってしまう。そこに宿っているのは悲しみに思えた。
 ――そう思ってしまえば殴れなくなった。
 厚志は楽しげに笑うと伸びをした。壁時計を見て顔をしかめる。
「もうこんな時間か」
 その口調に若菜も時計を見やって納得した。
 時計の針は11時を示そうとしている。母親と2人だけのこの家に、若い男が1人、このように遅い時間まで残っていては、近所に何を思われるか分からない。
 意外にも素早く動く厚志のお陰で部屋はだいぶ片付いた。あとは小物を選り分けるだけだが、それは若菜の役目だ。
 厚志は部屋を眺めると満足そうに笑みを浮かべて部屋を出た。
「なるべく由紀子さんにはお金を使わせないようにするよ」
「厚志が家に来なければ一番いいんだけど?」
「それは無理」
 階段を下りながらの会話。茶化し半分で告げた若菜に返って来たのは意外なほど真摯な声だった。思わず若菜は息を呑んで瞳を瞬かせる。振り返った厚志の瞳には、非常に強い意志が含まれているように思えた。
「一応恋人同士ってことになってるし、由紀子さんの料理を食べたいのも本当だしな」
 厚志が嘘をついたことは分かった。けれどそれが何のための嘘なのか。隠して笑うのはなぜなのか。分からないまま若菜もまた、気付かない振りをした。本当に聞きたいこととは別の言葉が口をつく。
「それ、本気で言ってたの?」
「何が?」
「お母さんの」
 厚志は笑って頷いた。
 若菜としては少し意外だった。しかし今度は嘘ではない厚志の表情に心が軽くなる。母親を褒められて悪い気はしない。心の奥がくすぐったくなって視線をさまよわせる。是が非でも追及しようとしていた厚志の態度も忘れよう、と自分が寛大になった気がした。
 立ち尽くした若菜は暑しが階段を下り、視線が完全に自分から外れた頃に胸を撫で下ろした。ありがとうの言葉は胸中だけで呟くことにする。
 厚志が不意に振り返った。
「そういえば若菜。土曜日の件、忘れてないよな?」
「土曜日? 何かあったっけ?」
 首を傾げた若菜は額を叩かれた。階段だったのでバランスを崩しかけ、伸ばされた腕を慌ててつかむ。その腕は若菜を包むように更に伸ばされ、腰を抱えた。視界がグルリと反転する。
「空けておけって言ったよな? まさか別の用事入れてないだろうな。言っておくが俺の方が先約なんだからな」
「う、うわっ」
 腰を抱えあげられ、階段から足が離れた若菜は慌てた。高所恐怖症の気があってしがみつく。耳元で囁かれて瞬間的に顔が火照る。全身に熱が回ったような気がした。
「わ、忘れてない大丈夫オッケー思い出した!」
 若菜は必死に頷いた。厚志の笑い声が響き、簡単に解放される。
 若菜は階段の手すりにしがみつきながら何とか心臓を宥めようとした。腰が抜ける思いだ。厚志の顔を直視できない。けれど厚志は構わず、若菜の腕をつかんで引き寄せようとした。
 若菜は再びの危機感に悲鳴を上げる。視界がまたしても反転する。
「ななな、何するのよっ!?」
「んー。いや、小せぇなぁと」
 後ろから覆いかぶさるように抱きしめられた若菜は、背中に感じた厚志の体温に動揺して必死で逃れようとした。その途中、からかうように囁かれた言葉の意味に眉を寄せる。そして、厚志の手がどこに触れているのか悟る。
 若菜は拳を震わせた。
「訴えてやるぞこの野郎!」
 遠慮など無用だ。若菜は階段だということも忘れて厚志を蹴り落とす。
 途中から階下で見守っていた由紀子は黄色い悲鳴を上げていたのだが、残り数段しかない場所から厚志が蹴り落とされると、それは絶叫に変わった。
 若菜は憤然と階下の二人を見下ろした。

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