相互理解努力
前へ目次次へ
5.

 賑やかしいネオンライトが点滅する中心街。東京と比べれば閑散としているが、それでも地元民にとっては明るく活気のある夜の街。酔っ払いと化した中年男の声と、若い女性の声が地べたを這っていた。
「阿部若菜ぁっ。もう1軒行くぞぉー!」
「どこまでもお供させていただきまっす、課長!」
 何がおかしいのかキャラキャラ笑う女性は、阿部若菜だった。彼女の前には千鳥足になって赤い顔をしている課長がいる。2人も明らかにテンションがおかしいが、上機嫌だと嫌でも分かる。
 若菜は満面の笑みを浮かべながら課長を追いかける。その足取りは他者と異なりしっかりしている。
「ねぇ。阿部さんってあんなキャラだった?」
「まだそんなに飲んでないはずよね?」
 若菜の背後でそんなやり取りが交わされるが、若菜は気付かない。笑顔を少しも崩さないまま街を眺める。声は聞こえているが、言葉を理解していない。
 若菜はそのまま空を見上げた。
 夜闇はどこへ行ったのか、眩い明かりばかりが目に映る。そんななかで星など見えてこない。ネオンライトに潰されていた。
 まるで自分の足が地についていないように、ふわふわとしている。いつもなら寒いと言ってコートを引っ被る若菜だが、今だけは熱すぎた。体中が火照っている。視界が揺れて、自分がどこを歩いているのか分からなくなる。しかし舗道に刻まれた点字版を真っ直ぐに歩くことはできるし、周囲から心配されることもないため、普段通りに見えているのだろうと考える。
 自分では酔っていると自覚しながら、それでもまだ大丈夫、と思った。1人で先に歩いて行ってしまった課長を、追いかけようと顔を上げる。
「阿部さん。大丈夫?」
 走ろうとした若菜は後ろから腕を引かれた。振り返ると萩山大輝がいる。表情は曇り、若菜を見る目は憂えていた。耳打ちされた若菜は最大級の笑顔を向ける。
「私はいつでも大丈夫ですよ?」
「いや……」
 大輝は困ったように笑う。なぜそんな顔をされるのか分からず、若菜は首を傾げた。
 頭の深いところが痺れているようだ。正常な思考が働いていないような気がする。しかしまだ歩けるし、自分でこんなことを考えられているのだから、まだ完全にまずい状態まではいっていない。まだ大丈夫だろう。
 何の根拠もない『大丈夫』を胸に刻んで、若菜は大輝を見た。
「大輝先輩っていつも優しいですよね」
 大輝の瞳が困ったように揺れた。
 若菜は微笑んだまま手を伸ばす。大輝の頬に触れると、彼は驚いたように目を丸くする。同時に、その様子を見ていた他部署の女性社員たちから小さな悲鳴が上がった。次いで、課長が振り返って様子を見て取り、物凄い勢いで戻ってきた。
「こぉら萩山大輝ぃっ! こんな往来でなーにをしとるか!」
「俺ですかっ?」
 大輝は抗議したが、酔っ払いには何を言っても通じない。赤ら顔の課長は若菜を後ろ手に庇って大輝を睨んだ。
 若菜は正常に働いていない頭で、ただ事態を見守る。
 目の前には課長の背中。学生時代はテニスをやっていたという課長は、社会人になっても運動を欠かさないという。そんな言葉に似合う筋肉質な体だ。薄手のシャツに筋肉が透けて見える。
 若菜は無造作に課長の背中に手を当てた。物凄い勢いで課長が驚く。
「課長ってばかなり鍛えてますねー」
 何を叫ぼうとしたのか。振り返った課長は若菜を見て絶句する。
 何が起きたのか、理不尽な説教を受けていた大輝は敏感に悟って苦笑した。
 若菜は何の他意もない笑顔で課長を見つめる。目の前に見たこともない筋肉があったから触っただけ。何が問題? と首を傾げそうな雰囲気だ。始末に終えないとはこのことを言うのかもしれない。
 課長はやや酔いが醒めた顔で眉を寄せた。困ったように頬をかくと大輝と顔を見合わせた。男同士の間で何が通じ合ったのか若菜には分からない。若菜は、猛然とダッシュしてきた女性社員に拉致られた。
「若菜!」
「な、なんですかっ?」
 それは比較的仲が良い先輩だった。大輝と若菜の関係を窺って疎ましく思うことのない貴重な人物だ。彼女自身に恋人がいて格好よい女性を演じているので、醜い争いに縁がなくても納得がいく。
 高岡美智子。実は大輝と同期で高校も一緒だったという。
「なに、じゃないでしょう!」
 強引に連れ出された若菜は詰め寄られた。鬼気迫る勢いだ。美智子の顔は険しい。少し遠くで、課長と大輝が呆気に取られたように美智子を見ていた。
「あんたがこんなに酒癖悪いとは思わなかったわ。普段は鉄壁のガードしてるっていうのに、飲んだらボロボロじゃないの」
 若菜は少しだけムッとした。
「なに言ってますか。私は誰にも負けませんよ」
「今の若菜じゃ、私とのタイピング勝負にも勝てないわ」
 断言した美智子を若菜は睨む。キーボードの早打ちは若菜の得意分野だ。そして美智子にとっては苦手分野。以前、面白半分暇潰し半分で、課長がタイピング速度対決を催した。そこで美智子は圧倒的な差をつけて最下位になった。それほど、美智子のタイピング速度は遅い。他の仕事は何でもそつなくこなす美智子だが、機械類が唯一の弱点らしい。
「もう帰りなさい。これ以上いたら大輝に食われるわ」
「だから、食われるくらいなら私からかじりつきますって」
 美智子は顔を覆った。若菜は自分でも何を言っているのか分からないまま課長たちの元へ戻ろうとする。しかし美智子はかなり強い力で若菜を止めた。普段と明らかに違う若菜の様子に、もう駄目だと悟ったのだろう。片手を挙げて合図を送る。
「阿部さん帰りまーす」
 声を張り上げると課長はつまらなさそうな顔をする。しかし先ほどの若菜を思い出したのか簡単に許してくれた。てっきり駄々をこねて止められると思っていた若菜は驚いた。課長の隣にいた大輝を窺うと、彼も同じく「その方がいいね」と頷いている。
 まだ残っていたかった若菜はうなった。しかし大輝に絶大な信頼を置いている若菜は、彼がそう言うのなら仕方ないかと諦めることにする。
「若菜。家までちゃんと帰れる?」
「大丈夫ですって。そこまで酔ってませんもん」
「私たちの前では大丈夫を装って、裏路地入ったら転んでそうな雰囲気なのよ、若菜は」
 ひどい台詞である。若菜は顔をしかめたが、美智子の視線が真摯だったので反論はしない。
「俺が送って行こうか?」
「大輝は幹事でしょう。誰が課長の面倒見るのよ」
 近づいてきた大輝に、美智子は声を潜めたまま冷たく返した。毎年の幹事にはそんな副業も必要だったらしい。大輝は肩をすくめる。
「だ、大丈夫です! 直ぐにタクシー拾いますから」
 若菜はだんだんと大事になってきそうな雰囲気に慌てて告げた。気づかいはありがたいが、あまり心配されるのは却って心苦しい。本当はタクシーなどもったいないから歩いて帰ろうと思っていたことなど隠して言い募った。嘘も方便だ。
「本当ね?」
「はい!」
 美智子の声は不審そうだ。探るように若菜を見つめたが、それ以上は追及しなかった。あっさりした挨拶をすると、大輝を引き連れて課長たちの元へ戻って行く。
「じゃあね」
 止まっていた団体は若菜を残し、次の店へ行くべく歩き出した。
 途中、心配そうに振り返る大輝や課長に、若菜はその場で手を振りながら見送った。彼らの姿が完全に見えなくなってから肩の力を抜いて歩き出す。
 課長の側にいたときは気を張りつめてテンションを高めていたのだが、独りになると冷静になった。落ち着いた思考を取り戻しながら頭痛に顔をしかめる。確かに、不自然だったかもしれないなとため息を吐き出した。普段の若菜を知らない者が突然のハイテンション状態を見れば、それはやはり驚くだろう。若菜は「失敗した」と呟いた。
「まぁ、なんとかなるよね」
 酔いに侵食された頭を小さく振る。
 大通りに面した明るい舗道。酔っている状態でヒールを履いて、長時間歩くのはきついだろうか。アルコールがまだ抜けないため、視界が揺れる。
 先ほど美智子たちに掲げたタクシー利用宣言は早くも撤回する方向だ。しかし自分の状態を把握できないほど酔っているわけでもない。タクシーを使った方がいいと感じるものの、現実的な部分で「貯金が減るのは嫌」と何かが抵抗するのだ。今は携帯という便利なものもあることだし、大通りを外れ、疲れて倒れても大丈夫だという妙な安心がある。
 都会の喧騒から外れた田舎の大通り。大通りと言っても東京のように人が溢れかえっているわけではない。本当にまばらな人々が、ネオンライトだけは明るいビルの下を通り過ぎていくだけ。車は通るが車間距離は異常に長い。
 そんななかを歩き出した若菜は、それだけで楽しい気分になってきた。普段はこのような時間帯に外を歩かないから、いつもと違う日常を楽しめる。こんな体験ができるから飲み会の夜はちょっとだけ楽しみだ。
 ヒールを履いているので一歩一歩、慎重に歩きながら笑みを浮かべる。家までは何時間くらいで着くかなと試算しかけて、ふと。
 若菜の隣に車が並んだ。気付いた若菜は背筋を凍らせる。
 ――痴漢。ナンパ。連れ込み。拉致。殺害。
 一瞬にして不穏な想像が膨らむ。中学生の頃、車内から見たくないモノを見せられた経験がある若菜としては非常に深刻な問題だ。あれから結構トラウマになっていたりするものだ。
 若菜は強い恐怖に襲われた。耐え切れず、絶叫する寸前、運転席に見慣れた顔があることに気付いた。
 体中から力が抜ける。
 若菜は安心してその場にへたり込んだ。


 :::::::::::::::


「素直にタクシーを使わないからそういうことになる」
「それは反省してる」
 また都合よく姿を現した厚志へと、若菜は唇を尖らせながらそう答えた。
 先ほどへたり込んでしまった情けない姿を見られた羞恥心が不機嫌さを装わせる。視線は外へ向けられていた。あくまで強がる若菜に厚志は小さな笑みを浮かべるが、視線を外に向けている若菜は気付かない。
「ここから家まで歩いたって3時間はかかるだろう」
「3時間だったら歩けない距離じゃないじゃない。迷いどころだわ」
「挙句にさっきのザマなら最初からタクシー使っておけ」
「だから! それはもう反省してるってば!」
 何度も何度も同じ事を繰り返すなと怒鳴りつけると、厚志は笑う。今回は圧倒的に若菜が不利だ。厚志を睨みつけたまま体を元に戻す。
 車が帰宅とは違う道を通っていることに気付いて首を傾げた。
「ねぇ。私の家ってこっちじゃないんだけど」
 街の中心部から外れた、閑散とした商店街。走っているのは出待ちのタクシーばかりで、一般車両は見当たらない。さらには人の往来もなかった。ここを歩いて帰ろうとしていた若菜は眉を寄せる。街灯があるから平気だろうと思っていたが、想像以上に暗闇が濃い。狭い路地から何かが飛び出してきそうだ。
 厚志は若菜の家に向かうというよりも、家から遠ざかるような道を選んでいた。
 訝って厚志を振り返ろうとし、通りに団体を見つけて思わず座席に沈み込む。通りで賑やかな声を上げている団体は、先ほど別れたばかりの課長たちだった。アルコールが入っている彼らが車内の若菜に気付く可能性は少ないが、思わず隠れてしまう。
「何やってんだ?」
「会社の人たちがそこにいたの!」
 シートベルトを潜ってまで座席の下に潜り込んだ若菜を、厚志は呆れたように見下ろす。次いで視線を外へ向けた。少し進んでから「過ぎたぞ」と告げる。赤信号で停まり、若菜を座席に引き上げるとシートベルトを装着させた。夜間パトロールは結構厳しい。
「あーあ。私も最後まで騒ぎたかったなー」
「そんなフラフラで何言ってやがる」
 バックミラー越しに同僚たちを見ながら呟くと容赦ない声が飛んだ。若菜はムッとして厚志を睨む。この話題になると自分の前は確定しているため、別方面から問いかけた。
「だいたい、良くあんな都合よく現れたよね、厚志。そっちこそストーカーしてんじゃないの?」
「眠れないからさまよってただけだ。こんな色気のない奴ストーカーして何の楽しみがある。もうちょっと胸を養え」
 青信号に変わり、ギアを入れ替えようとした厚志は容赦なく殴られた。

前へ目次次へ