相互理解努力
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6.

 中心街からかなり外れた海に、2人はいた。
 海といっても砂浜はない。眼下に打ち寄せた波が白く砕けるような、断崖絶壁だ。有名な観光名所のため安全対策は抜かりない。崖付近へは近づけないよう頑丈な柵が設けられている。
 この辺りにしか生息しない珍しい生物や珍しい花々。そして、眼前に広がる雄大な海が観光者の心を惹きつける。
 しかし深夜を回ろうとしている時間帯ではさすがに観光客などいない。広がる海も黒々として面白みがない。
 そんな貸切状態を満喫しながら、若菜は柵に手をかけて振り返った。
「明日は休みだから別にいいけどさ。ていうか厚志が空けとけって言ったんだからね」
 若菜は欠伸を噛み殺す。酔えば眠りに極端に弱くなる若菜は、目覚めさせる意味でも炭酸を飲んだ。先ほど見かけた自動販売機で厚志に購入させたものだ。
 車を停めた厚志が近づいてくるのを感じながら若菜は海に視線を戻した。
 遠くに船の明かりがポツポツと見えた。有名なイカ釣り漁船だろうかと目を凝らしたが詳細は分からない。イカ釣りはもっと遠洋でやるんだったろうかと首を傾げたが、あえて尋ねるほど興味はない。
「3時間寝れたら充分だろう」
「冗談。飲み会のあとは8時間寝ないともたないっての」
 隣に並んだ厚志に、空になったペットボトルを投げつけた。避けるかと思いきや片手で難なくつかまれる。海には落ちず安堵したが、つかまれたらつかまれたで面白くない。
 アルコールのせいでまだ喉が渇く。今度は自分で買ってこようかと厚志の側を通り抜けかけたとき、腕をつかまれた。厚志の顔には、街灯のせいで濃い影ができている。その影に沈んだ表情が憂えて見えた。
 どうしたのだろうと思ったのも束の間、抱き締められた。
「ちょっとっ?」
 結構な力で抱き締められて混乱する。焦りの裏で『眼鏡が変形するかも』という心配までしてしまう。厚志に対する嫌悪感はなぜかない。アルコールはずいぶん抜けていたが、まだ正常な感覚が働いていないのかもしれない。
 厚志は直ぐに若菜を放した。
「大丈夫?」
 思わず尋ねたのは、厚志が泣いているように思えたからだ。
 実際にはそんなことはない。厚志は驚いたように瞳を丸くする。
 若菜は眉を寄せた。逆光から抜け出した厚志は、いつもと変わらないように見えた。ならば街灯の影が見せた錯覚だったのかと納得する。しかし抱き締められた事実は消えない。もしかしてあれは転びかけたのだろうか、と若菜はうなった。
 なんだか妙な夜だ。飲み会で騒ぎ過ぎたのだろうか。厚志に感じていたいつもの強い憤りはなりを潜めている。ただの男友だちとして接しているような気分になった。歳はずいぶん取ってしまったが、心だけが幼稚園、小学生時代に戻っているような錯覚を覚える。警戒心は湧いてこない。
「ねぇ。なんで西山くんとの仲を邪魔したの?」
 若菜は思わず尋ねていた。厚志の瞳を覗き込み、自分の質問に気付いて慌てる。
「それに、こんなところまで連れ出して」
 まるで言い繕うように言葉を重ねた。口を開きかけた厚志を遮ってしまったが、促そうとは思わなかった。そのまま続ける。
「厚志が眠れなくても私はそろそろ眠りたいんだけど」
 厚志はそのまま若菜に背を向けると車に戻った。若菜は追いかける気になれず、小さな落胆を覚えながら視線を辺りに向ける。港から山へと続く、観光ウォーキングコースだ。ここから家に戻るにはさすがにタクシーを使わなければ、今日中には着かない。
 厚志が戻ってきた。
「手を出せ」
 若菜は眉を寄せながらも素直に両手を出した。厚志は若菜の左手だけをつかみ、ポケットから何かを取り出すと若菜の指にはめた。
 銀色に輝くシンプルな指輪。
 薬指にはめられた指輪に若菜は目を瞠る。厚志は次に、繊細な鎖で編まれたネックレスも取り出した。それはポイントとなる宝石類がついていないただの鎖だ。戸惑う若菜に構わず、それをつける。
「……なに?」
「恋人課から送られてくる最初の祝福」
「は?」
 予想もしてなかった言葉に若菜は素っ頓狂な声を出した。はめられた指輪を一度外して目の前に掲げてみる。輪がくびれたシンプルなデザインは女性に好まれそうだ。指輪の縁には小さな文字が彫られていた。瞳を細めて注視し、それが人の名前なのだと気付く。

 阿部若菜&斎藤厚志

 フルネームで2人の名前が彫られている。
「恋人届けを出して何日かしたら、それが届くようになっている。恋人がいるっていう証だ。それがあれば浮気もしないだろうって考えたんじゃないのか?」
 結婚指輪と同じような役割なのだろう。しかし、恋人届けを出した全員にこれが配られるとなればそれなりに経費がかかる。政府はずいぶんと太っ腹になったものだ。それだけこの政策にかけているということなのだろうか。成果がどのように上がるのか、興味のない若菜でも数年後が楽しみになってくる。
「仕事とかで付けられないときはそっちのネックレスにつけておけばいい。それで一日中指輪と一緒だ。会ったときに恋人がネックレスさえも付けてなかったら、浮気が疑えるってことだな」
 若菜は複雑な気分になりながら頷いた。ネックレスを指で辿る。指輪はプラチナのようだが、ネックレスはただの合成プラスチックのようだ。ずいぶんと軽い。これなら仕事中に外す必要もないだろう。
「これって女側だけ?」
 見れば厚志は何も身につけていない。
「いいや。恐らく若菜が帰ったら届いてるはずだ。これは相手と交換ってことで、互いの家に届けられる」
 若菜は結婚式の指輪交換を思い浮かべた。大した違いはないだろう。そういえば先ほど若菜を強引に帰らせた美智子も同じ指輪をしていたなと思い出し、ようやくその意味に納得した。
「はー。こんなものにお金かけるくらいなら私に現金で回して欲しいけどねー」
 収集癖はないにしろ、シンプルなアクセサリーは好きだ。外した指輪をはめ直そうとしたが、なんとなく照れ臭くて結局はネックレスに通した。指にはめていれば、万が一抜けたとき、気付かず忘れている可能性がある。そんな言い訳を作り出す。
 行動を見ていた厚志が笑った。
「因みに結婚すれば会場を選択制で用意してくれる。新婚旅行にも好きな場所を選んで行ける。費用は政府持ちで、予約手続きも政府が代行するそうだ」
「すげぇ」
「他にもある。子どもを1人産むごとに、出産祝い金として10万円が支給される。今は小学生までだが、これからは子どもが成人するまでの手当てがつく」
 そうなると、1人頭何万円くらいになるのだろうかと試算しかけた若菜は、その考え方に顔をしかめた。生きやすくはなったが嫌な感じだ。こうなると他にも様々な優遇制度ができているのだろうなとため息をつきたくなる。恋人制度を利用した、新たなサービスを提供する企業も増えてくることだろう。
「私の家に厚志用の指輪とチェーンが届いてるってわけね?」
「名前が彫ってあるんだから、売っても足しにはならないぞ」
 プラチナの指輪を売ったら幾らになるのだろうと想像した若菜の思考を呼んだかのように厚志が釘を刺した。勘の鋭い彼に舌打ちする。
「売りません」
 投げやりに反論して腕をさする。いつの間にか冷えている。
 時計を見ると日付が変わろうとする時間だった。さすがにこれは母も怒るだろうかと若菜は眉を寄せる。阿部家には、12時までには家にいる、という暗黙のルールがあった。今日は飲み会だと出がけに母に伝えては来たものの、限度がある。由紀子の不機嫌な顔が目に見えるようだ。
 若菜は頭を振ると厚志を振り返った。
「ほら厚志。ちゃっちゃと車出しちゃってよ。眠気覚ましに外にいたいなら私が勝手に運転してくよ」
「俺に違反させる気か」
 実行に移しそうな若菜に、厚志は苦笑した。悠然と歩いて車に戻る。飲酒運転は確実に減点だ。
 若菜は先に車に乗り込んで、脱ぎっぱなしだった厚志のスーツを毛布代わりにした。
「おい!」
 気付いた厚志は声を荒げたが、若菜は無視を決め込んで瞼を閉ざした。直ぐに頭の奥が重たくなり、眠気が若菜を包み込む。隣にいるのが他の男であれば若菜もここまで緊張を解くことはない。しかし今は厚志だから大丈夫だ。信用するわけではないが、下心があるとは思ってもいない。
「眠い……」
 座席を軽く押し倒すと体全体を重たい倦怠感が包む。
 若菜はポツリと洩らして直ぐに寝息を立てた。
 眠りに落ちる寸前、隣から深いため息が聞こえたのは気のせいかもしれない。


END
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