恋人通知
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1.

 若菜は背筋を伸ばして正座していた。らしくもなく緊張している。目の前に座る初老の男性を見つめた。
「可愛らしいお嬢さんだ。これで私も安心しますよ。どうかこれからも厚志くんをよろしくお願いします」
 白髪の男は島田によく似た優しい雰囲気を醸していた。心癒す笑顔を若菜に向ける。座ったまま軽く頭を下げる。
 若菜は頬を染めて微笑んだ。応えるように頭を下げる。
「こちらこそ。これからも何かとご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
 頭を下げた若菜は瞼を閉ざした。座卓の向こう側から穏やかな笑い声が聞こえる頃に顔を上げる。先ほどの男性が朗笑を響かせていた。
 第一印象は成功したらしい。
 若菜は軽く首を傾げて微笑んで見せた。


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 昔ながらの武家屋敷のようだ、と思いながら若菜は手をかざした。その指には恋人指輪がはめられている。シンプルだが存在を見失わない輝き。
 竹林に囲まれた場所に、若菜はいた。
 道は整備されていたが住宅街と呼ぶには程遠い。家は目の前の一軒しかない。敷地を囲むように建てられている漆喰の壁は、見る限りどこまでも続いている。一軒しか見えないのも当然と言えた。かなりの土地を有する家なのだろう。この辺り一帯が、たった一軒の敷地なのだと厚志から聞かされたときは開いた口が塞がらなかった。1000坪を超えているのではないだろうか。
 若菜がいる竹林は、厚志とお見合いをした和食料理店のある山中に似ていた。森ではなく竹林のため、どこか清々しさが感じられる。解放感のある竹林には燦々と陽光が降り注いでいる。
「あんまり失礼な行動は取るなよ」
 背後から厚志の声が飛んだ。
 若菜は竹林から視線を外し、振り返って睨む。
 車を駐車場に停めてきた厚志が歩いてくるところだった。鍵をチャラチャラ回しながらという憎らしい姿だが、どこか格好がついてしまうのだから腹が立つ。そんな厚志の指にも銀色の指輪がはめられている。
 若菜は複雑な気分のままため息を零した。
「失礼も何も、私はどこに連れて来られたのかさえ知らないんだけど」
 非難を込めながら唇を尖らせた。
 目的地はきっとこの屋敷だろう。他には竹林だけで、目的となる場所は見当たらない。しかしこの屋敷が誰のものであるかは分からない。もしかして厚志の家なのかもと思ったが、彼は仕事でこちらに来ているだけだと言っていたのを思い出し、違うかと否定する。転勤で来ているだけなのにこんな大きな屋敷を構えるはずはない。いや、もしかしたら構えるのだろうか。彼らに一般常識を当てはめたらいけないことをスッカリと忘れていた若菜は眉を寄せた。こんなことで悩んでいる自分が馬鹿に思えた。
 しかし厚志の態度から“実家”という雰囲気は感じ取れないのだから、やはり誰か知り合いの屋敷だろう。
 しばらく歩いた頃、ようやく見えてきた門にため息をついた。
 ――慣れないコンタクトがわずらわしい。
 土曜日は空けておけとの言葉通り予定は入れず、何があるのだろうと不思議には思っていたものの、このような展開は予想できなかった。
 高速道路を使ってのドライブは長く続かず、いつの間にか山奥に入り込んだなと思った頃には、すでに屋敷が目の前に建っていた、という次第だ。もちろんここまで何の説明もない。呆れるほどの自己中心男だ。
「誰の家なわけ? まるで昔の偉人の生家って感じ。立派には立派だけど――厚志には立派過ぎてもったいない」
 厚志は笑みを零した。てっきり言い返されると思っていた若菜は拍子抜けする。いつもと異なる雰囲気に戸惑う。
「俺にとって、大切な人の家だよ」
 穏やかな厚志の声に言葉がつまる。横顔を盗み見て胸を衝かれた。厚志は微かに俯いて憂うように笑っている。その横顔は妙に幼い。どんな人が住んでいるのかと若菜は疑問に思った。
 眉を寄せながら見守っていると、厚志の視線が再び若菜に向けられた。その真剣な表情に緊張する。
「あのな、若菜」
「……なに」
 ついつい口調が尖ってしまう。いずれ直したいと思っているものの、厚志になら構わないかとも思う。世界で一番大嫌いな位置に存在しているこの男に、好かれても嫌われてもどうでもいい。
 若菜は両肩をつかまれた。近くなる距離に動揺する暇もなく抱き締められる。
「ちょっとっ?」
 昨夜と同じだが、今の若菜はアルコールなど欠片も入っていない。正気だ。力いっぱい引き剥がそうと腕を振り上げるが、その攻撃を止めるかのように真剣な厚志の声が、若菜の耳朶を打つ。
「お前が俺を嫌いでも構わない。けど、今だけ。演技でもいいから、好きでいろ」
 切なさを含む声に若菜は胸を衝かれた。途端に激しく脈打つ心臓を感じ、妙な焦りに苛まれる。この鼓動の速さを厚志に聞かれたくなくて体を離そうとしたが、距離は離れなかった。気付かれていないことを祈る。
「特にあの人の前だけは」
 低い声がやけに弱く聞こえるのはなぜだろうか。
 どんな表情をしているのか気になったが、抱かれる腕の力は強く、窺うことはできなかった。上ずりそうになる声を必死で繕いながら質問する。
「それってつまり……私にいつもの態度を出すなとも言ってる?」
「言ってる」
 即座に返答があった。
「もしかして、そのためだけに契約を結ぼうとか思ったわけ?」
 次の返答までには一瞬の間があったが、厚志は「ああ」と頷いた。
 その答えを聞いた瞬間、若菜は得体の知れないモヤモヤとした想いに包まれた気がした。同時に微かな苛立ちも覚えた。しかしそれを厚志にぶつけるのは筋違いのような気がして、唇を引き結ぶ。
「いま言った、厚志の大切な人とかいう人だけに嘘をつけばいいのね?」
「そうしてくれれば助かるな」
 ようやく腕を解放された若菜は乱れた髪を整えた。失った熱に不思議な寂しさを感じる。
 いまの若菜は淡いピンク色のワンピースをまとい、会社向けではない化粧も軽く施している。女は化ける、との言葉通り、雰囲気ががらりと変わっている。口を開いて動けば普段の若菜なのだが、外見だけ見れば大人しいお嬢様に見えることだろう。因みに、若菜をこのように変身させたのは島田だった。彼の万能ぶりには驚くばかりだ。このためにコンタクトレンズも用意されたのだと悟る。
「……そりゃ、初対面の人には失礼ないように今でも気を使ってるけどね。でも、説明もなしにいきなり」
「それなら問題ないな」
「聞けこら!」
 厚志は前半部分だけを都合よく聞き取って頷いた。そんな彼に蹴りを入れて怒鳴っても、笑われただけだ。厚志は若菜の怒りを封じるようにインターホンを鳴らした。若菜は大人しくなる。大きな背中を睨むことだけは忘れない。
「斎藤厚志です」
 ドアホン越しに聞こえた声に、厚志は応えた。先ほどまでふざけていた声とは明らかに違う。穏やかな好青年を思わせる声だ。
 若菜は思わず目を丸くして厚志を見た。
 ドアホンの声は、若菜には聞き取り難い声だった。
 直ぐに門が開く。重たい音を立てながらスライドしていく。専用のドアマンがいるのかと思わず覗き込んだ若菜だが、誰もいない。遠隔操作で開くようになっているのだろう。
 若菜は認識の違いを見せ付けられながら門の向こう側を窺った。そちらはやはり異次元世界。とても古風な純和風庭園が広がっている。敷石を詰められた道がその中を走っている。
「ほら、若菜」
 門の中へ入る前、振り返った厚志に手を差し出されて困惑した。
 この手は何だろう。それよりも庭園が気になるのだが。
 若菜は背伸びするようにして、厚志の肩越しに屋敷の敷地内を窺おうとした。ため息をついた厚志に強引に手を取られる。慌てて振り解こうとしたのだが、解けない。
「恋人、だろ」
 厚志は肩を竦めて言い聞かせるように声をひそめた。
 若菜は抵抗をやめる。ではここから演技をしろということなのかと彼を見つめた。
 ――若菜は全身に熱が回るような気に陥りながら葛藤と闘った。あきらめた。脳裏には“恋人契約”の文字が浮かんでいる。これがその一環だというなら仕方ないのだと納得させる。
 若菜は繋がれた手に軽く力を込めて握り返し、静かに厚志の隣へ並んだ。
 そうして、話は冒頭に戻る。

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