恋人通知
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2.

 若菜は厚志と手を繋ぎ、羽目を外し過ぎない程度に庭園を観察しながら歩く。舗道の先に建つ大きな屋敷に唖然と口を開けた。厚志に鼻をつままれて思い切り睨む。
 昔ながらの屋敷には雪が白く残っていたが、屋根は茅葺で厚く、非常に暖かそうだった。玄関ではお手伝いさんと思われる女性が若菜たちを出迎える。チラリと覗けた居間には囲炉裏があり、だから茅葺屋根もまだ健在できているのかと若菜は少しだけ感心する。
 奥座敷へ案内された若菜は、そこで初めて屋敷の主と面会した。
 高級そうな座布団を出された若菜は恐縮したものだ。
 老人は安西邦光《あんざいくにみつ》と名乗った。
 若菜は彼に見覚えがあった。厚志とお見合いをしたとき、彼の保護者席に座っていたのがこの老人だ。早々に破断するつもりだったため、相手の家族などほとんど見ていなかった。今更の再登場に、若菜の疑問は深まるばかりだ。
「そう緊張することはないですよ、若菜さん。足を崩しても構いません」
「はい」
 若菜は戸惑いながらも笑みを作ったが正座は崩さなかった。痺れはとうに切れていたため、崩してしまったらとんでもないことになる予感があった。
(こうなったら我慢比べだ。意地でも崩してやるもんか)
 意味があるのか分からない、そんな葛藤を表に出してはいけない。痺れを訴える足の感覚を綺麗に無視して若菜は耐える。隣に座る厚志は胡坐をかいている。こんなときは自分が男に生まれてこなかったことを恨めしく思う。
「この前のお嬢さんが厚志くんの恋人になってくれると聞きましてね。今日連れて来るって言うものだから、紗江も私も嬉しくて」
 邦光は本当に嬉しそうに笑って若菜を見つめた。
(厚志のお爺ちゃん……? いや、でも厚志のこと『君』づけだから違うかな。ああ、でも私も、お婆ちゃんに『ちゃん』づけで呼ばれてた気がするから、そうかも)
 邦光を見つめながら、どう対応すればいいのかと首を傾げる。
「光栄です」
「言葉が固い」
 ひとまず無難な言葉を選んだつもりだったが、容赦なく突っ込まれた。思わず睨むと厚志は素知らぬふりで別方向を見る。邦光が笑い声を上げる。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。この家は古いですが、格式ばかり囚われるのは違うと思いますからね」
「は、はぁ……」
 若菜は拍子抜けした。屋敷に入る前にあれほど念を押されたため、てっきり礼儀作法に厳しい人なのだと思っていた。
「とか言われたからっていきなり寝転がったら踏み潰すけどな」
「まぁ厚志さん。私はそんなことしません」
 ピキリ、と青筋を立てかけた若菜だが必死に耐えた。笑みが引き攣らないよう意識しながら厚志を睨みつける。
「お待たせいたしました。どうぞ若菜さん」
「あ、ありがとうございます」
 スッと軽い音がして背後の障子が開けられた。振り返った若菜は、着物の老婦人を見る。彼女は丸いお盆を持って入ってきた。
 邦光の奥さんだ。お茶を配り終えた彼女はお盆を棚に置き、邦光の隣に腰を下ろした。夫婦は似る、との言葉通り、二人が湛える笑みは穏やかだ。人を和ませる力を持つ笑顔。
 若菜は何となく、厚志が『大切な人』と称した意味を理解した。
「こちらが家内の紗江です」
「よろしくね、若菜さん」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 いったい何がよろしくなのかは分からないが、若菜は頭を下げた。妙な気分だった。厚志の隣にいるのは借金のためだけで恋愛感情はないのだ。人の良さそうなこの二人を騙していると思うと胸が痛む。
「お二人には本当に今までご迷惑をおかけしました」
「私たちは迷惑だなんて思ってないよ」
「ええ」
 いつになく神妙な厚志は頭を下げた。邦光たちは困ったように笑う。若菜だけがそのやり取りの意味を知らず、呆気に取られたまま見守っていた。
「恋人通知の際にも色々と便宜を図っていただきました」
「恋人通知?」
 若菜は素早く問いかけた。笑える言葉だが、いまは決して笑えない公式文書だ。鋭く問いかけた若菜に紗江が微笑する。
「また厚志さんの独断なのね。待っていて。確かここに仕舞っていたはずだから」
 紗江は立ち上がって側の棚を探り始めた。厚志が苦虫を噛み潰したような表情で止めようとしたが、若菜は機敏に動いてその腕をつかむ。
「恋人通知って、なんですか。厚志さん」
 一応、我を忘れるほど常軌は失っていない。邦光たちの前であるということを思って丁寧さは忘れない。愛想は決定的に欠落したが、まだフォローの範囲内だ。しかし厚志を見る瞳は完全に険しさを増していた。
「――お見合い成立ってことで、俺らが破談にならないように外堀埋める儀式というかなんというか……一応、政府が決定したことで。そんな通知を親戚に出すのが決まりなんだ――よ」
 若菜は眉を寄せた。非常に歯切れの悪い言葉だ。追及しようと口を開くが、先に邦光が口を開く。若菜たちの様子を見守りながら訂正を入れる。
「違うだろう。あくまで本人たちの自主性に委ねられるものであって、絶対に、というわけではない。若菜さんが知らなかったということは、厚志くんだけが出したのかな?」
 邦光に気付かれないよう厚志は舌打ちした。敏感に聞きとがめた若菜は問いつめようとする。
「ああ、これだわ。はい、若菜さん」
 紗江が差し出した一通の手紙。それを見た若菜は言葉を失った。
 シンプル明快な郵便葉書、一枚。そこには淡い花束の背景が浮かび、ワープロ文字で丁寧な言葉が綴られていた。


 ご挨拶

 毎回気にかけて下さる皆さまには、ますますお健やかにお過ごしのこととお喜び申し上げます。
 さて、私たちは去る1月、結婚推進法令の縁談により、正式に恋人として出発いたしました。なにぶん未熟な私たちですので、今後ともご指導ご助言を賜りますようお願い申し上げます。

 敬具

 斎藤厚志
 阿部若菜


 若菜は手紙を持つ自分の手が震えたような気がした。
「なにこれ」
「いや、だから、それが恋人通知」
「そんなこと聞いてんじゃないでしょう。今聞いた言葉を忘れるほど馬鹿じゃないよ!」
 完全に据わった目で若菜は厚志に詰め寄った。手紙を握り締めながら、若菜は厚志の肩に手をかける。
「気にするな。それは俺の親戚に出しただけで、若菜の親戚には出してない」
「そんなことも聞いてない!」
 厚志の瞳が困惑したように揺れた。
「私の名前が入ってるじゃない」
 低く低く押し殺した声。
 若菜はなぜこんなに怒りが湧くのか自分でも分からないまま、嗚咽を堪えるようにしながら吐き出した。
「厚志1人だけで済むことなら1人でやっても何も言わない。でも、これって、私まで関わってるじゃない」
 思い出すのは幼少時代。初恋を壊された日に味わった裏切り。絶望の闇。やはり自分のことしか考えてないのかと、とても哀しくなる。
「こういうのって、普通は私の意見も取り入れるでしょうっ? そりゃ、出すんだけどいいかって聞かれたら殴ったかもしれないけど、でも!」
 途中で「おい」と声が入ったけれど聞き流す。怒りには勢いが大切だ。
「一言あってしかるべきだ! なんで全部1人で決めるのよ? そういうところが昔っから厚志が嫌いな要因なんだよ!」
 声を限りに怒鳴りつけた後に視界が滲んだ。厚志の胸倉をつかんだまま、湧き上がった怒りは涙となって零れた。厚志の瞳が大きく見開かれる。
「……悪い」
 ポツリと小さく謝られる。
 厚志の表情が痛々しく思えた若菜は顎に力を込めて顔を逸らした。そんな表情を見せられたら簡単に許してしまいそうになる。ほだされようとする自分を許せない。
 逸らした視線の先に、驚いた表情をする邦光と紗江の姿があった。
「あ、わ、わ、あーーっっ!?」
 若菜ははたと我に返って絶叫した。瞬間的に血が沸騰して顔が熱くなり、そして蒼白になった。先ほどまでの自分を思い返して口を空回りさせる。現状打破のために頭をフル回転させたが、良策は簡単に見つからない。結果、若菜は。
「ご、ごめんなさい!」
 勢い良く謝って逃走――という行動に出た。
「どこに行くんだよ?」
「わっ、はーなーせーっっ」
 若菜の行動を先読みしていたらしい厚志は素早く留める。畳の上に転がった若菜は暴れたけれど逃げられない。足が痺れて感覚がない、ということも災いした。
 厚志はそんな若菜の扱いを心得ているかのように抱えて、直ぐに元の位置に連れ戻した。
 否。
 若菜が顔を覆って俯き、肩を竦めて小さくなっていると、厚志は若菜の肩を抱いて引き寄せる。若菜は黙ったままどうにでもなれと厚志の胸に額をつける。
「そうすると更に小さく見えるな」
 囁いた厚志の脇腹に無言で肘鉄を見舞った。厚志から離れ、真っ赤な顔で睨みつける。
「お見苦しいところをお見せしました」
 顔を上げた若菜が逃げようとしないことに厚志は微笑み、居住まいを正して邦光たちに向き直った。その言葉に若菜は「まったくだ」と胸中で深く頷く。いくら頭に来たとはいえ、初対面の人たちの前であのように激昂するとは失態だ。厚志から『大切な人たち』と言われていたのも忘れている。できることなら挨拶を交わした最初からやり直させて欲しい。
 若菜は顔を真っ赤にさせたまま彼らに向き直る。しかし情けなくて2人の顔は見れない。顔を上げればまた涙が零れてしまいそうな気がした。人前でずっと“良い子”を演じてきた若菜にとって、今の失態は絶望的だ。
 ――感情の吐露など、意味がない。
 若菜は座卓を睨みつけながら拳を握り締めていた。
「私たちは怒ってなどいないよ、若菜さん。どうか顔を上げて下さい」
 若菜は何も応えない。ただ俯いていると厚志の手が伸びて若菜の顎をつかみ、強引に上向かせた。
「何するのよ!」
 指が頬に食い込んで痛い。怒鳴りつけた若菜は再びハッとして口を閉ざす。もう私は口を開かない方がいいのかもしれない、更に墓穴を掘り続けてしまう、と若菜は悔しさに顔を歪める。島田に施された化粧も半分以上が意味を成さないものに変化していることだろう。
 若菜は恐る恐る邦光たちに視線を巡らせた。そこには案の定、困ったような顔をする2人の姿がある。若菜は逃げようとしたが、厚志に肩をつかまれて抱き寄せられて、逃げられない。体勢が悪いので暴れることもできない。
「幼馴染ということでしたが……直ぐに馴染めて、むしろ良かったのではないかな?」
「……は?」
「怒る気力がある人は好ましく思うよ」
「はぁ……」
 座卓に肘をついた邦光の瞳には怒りがない。若菜は瞳を瞬かせて見返した。彼の隣に座る紗江も、同意するように頷いている。二人の瞳には微かな痛みが宿っている気がして、若菜は落ち着かない気分になった。
 表情を強張らせたまま冷や汗を流す若菜に、邦光と紗江は顔を見合わせて微笑んだ。
「元気で、いいと思うよ。私たちはね」
「そ、そう、です、か」
 決して嘘ではない言葉だ。敏感に嗅ぎ取った若菜はぎこちなく頷いた。
「いつまで落ち込んでんだよ。これからも世話になる人たちなんだから、ここで本性見せれたのはお前にとって良いことなんじゃないのか?」
 横から小突かれた若菜は睨んだ。最初に演技をしろと言っていたのは厚志じゃないか、と苦く思う。そういえば厚志は、邦光に挨拶をした最初から若菜の演技を崩す方にばかり力を注いでいたように感じる。
「厚志くんも心を許しているようだしね」
 邦光は穏やかに笑った。
「これからも厚志くんをよろしくお願いします、若菜さん」
 邦光と紗江は最初から一貫した優しさを見せたまま若菜に頭を下げた。彼らは若菜と厚志が契約で結ばれていることを知らず、本気でそう思っているのだろう。
 苦いものが込み上げてきた若菜は唇を噛み締める。縋るように厚志を見たが、彼は飄々とこの状況を受け入れているようだ。その視線は邦光たちではなく、先ほど紗江が持ってきた芋ヨウカンに向けられていた。
 若菜は厚志の耳を、悲鳴が上がるくらいに引っ張って頭を下げた。
「こ、こちらこそ……よろしくお願いします」
 妙に話が大きくなってきたなぁと、微かな胸の痛みを抱えながら。

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