恋人通知
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3.

 一拍していってもいいのよと誘う優しい紗江の言葉には頷けない。若菜は失礼にあたらない程度にお断りし、帰宅の途にあった。
 化粧はそれほど崩れていなかったが、途中ですべて落としていた。素顔をさらした若菜に、老夫婦は再び笑顔で「可愛らしい」と受け入れてくれる。若菜としては複雑な気分だ。
「ああもう。一気に年取った気分だよ」
「いくつだよお前は」
 助手席に深く沈みながら若菜はため息をついた。
「うるさいな。だいたいね、厚志がややこしい真似してるからボロが出たんだよ。あれさえなきゃ完璧だったはずなのに」
「横から見る限りじゃ凄い顔だったけどな」
「いちいちうるさいってば」
 安西家を数十分前に出発した若菜たちは現在、高速道路を走っていた。車の姿は他になくて貸切状態だ。あたりは夜闇が支配している。一定間隔で設置されている橙色の光が顔を照らし、若菜は眩しさに瞳を細めた。昔から、この光を浴びていると眠くなる。自分では絶対に高速道路など走れないなと思う。
「どこか寄っていくか?」
 欠伸を噛み殺した若菜に気付いたのか厚志が問いかける。
「どこにだよ。あんまり遅くなるとお母さん喜ばせるだけなんだからやめてよね」
「喜ばせればいいじゃないか」
 何が問題なのだと厚志は平気な顔で言う。殺意を覚えたとしても、若菜の責任ではない。
「……それがどういう意味なのか分かって言ってるなら何も言わない――いや、蹴り落とすけど?」
「あ?」
「この前、孫の顔が見たい、とかふざけたこと言ってたの聞いてたでしょう、厚志は」
 若菜は強い怒りを込めて吐き捨てた。怪訝な顔をしていた厚志は思い当たったのか大声で笑う。思わず若菜がハンドルに手を伸ばして支えたくなるくらいの大笑いだ。
「あー、あー、なるほど。そういう意味な。つくづく、由紀子さんって凄いよな」
「感心するのやめてよ。娘は本気で大迷惑」
 若菜は苦虫を噛み潰した。そんな母の元で育つのがどれほど苦痛であったか知れない。ささいな由紀子のいたずらが命の危険にまで及ぶのだから、若菜が自己防衛に優れていっても不思議ではない。由紀子を止めるには今でも命懸けだ。
「親父さんは? 今は家にいないんだろ?」
「正月とか、緊急のときに帰ってくるだけ。戻ってきても正月以外は一日か二日間くらいしか家にいないし。我が家はそれほど家計に切羽詰ってるのよ」
「はいはい」
 苦笑するように肩を竦められて、若菜は少しだけ唇を尖らせた。由紀子のことを考えたくなくて話題変更を試みる。
「ところでさっきの、安西さんたち。あの人たちって本当は厚志の何なの? お祖父さんってわけじゃないんでしょう?」
 この質問を外すわけにはいかない。サービスエリアに入って車を停め、厚志が直ぐに外へ出ようとしていることに気付いた若菜は腕をつかんだ。逃げるつもりかと睨みつけると厚志は渋々口を開く。
「俺の親父の、会社の関係者。取引先の会社の、元社長を勤めていた人だよ」
「それって――厚志とどういう関係があるの?」
「別に? 俺は親父と仲が悪いからな。縁談とか俺の身の回りの世話とか、全部安西さんに手伝って貰っていただけだ」
 厚志の瞳は真っ直ぐにフロントガラスを睨んでいるだけで、若菜を映すことはなかった。横顔が険しい。若菜が追及の言葉を探している隙に外へ出てしまう。
 開かれたドアから入った冷気が若菜の頬を撫でる。冷たさは直ぐに暖房に紛れた。若菜は遠ざかる厚志の背中を黙って見つめる。
 元社長、ということは、邦光は既に退社しているのだろう。それであのような辺鄙なところに居を構えて隠居生活を送っているわけだ。しかしどうにも納得がいかないような気がして、若菜は眉を寄せる。取引先の社長ともなる偉い人が、なぜ厚志に構うのだろうか。しかし厚志の言葉がすべて嘘だとも思えずに若菜は混乱する。消化不良な気分を抱えたようだ。
「あーあ。もう」
 大きく息を吸い込んで吐き出す。背もたれに強くもたれかかる。
「契約契約。私が考えるのはそれだけでいいよ。単純明快じゃない。借金を返すだけ!」
 明るく声を上げた若菜だが、脳裏にはどうしても厚志の姿が渦を巻く。単純明快に考えるまでの道のりは果てなく長く思えた。
「おのれ厚志め。お前が現れてから精神安定まで脅かされてるじゃないか」
 若菜は車内の暖房レベルを上げた。音を増した暖房設備に眉を寄せながら横になる。瞼を閉ざし、温風の音を聞いている。
 ふと目を開けた若菜は体を強張らせた。窓ガラスに厚志の姿が映っている。
 ドアの側にいるのかと思ったが、直ぐに違うと気付いた。窓ガラスには若菜の顔も映りこんでいる。厚志の姿はその後ろだ。運転席側のドアに立っている姿が映りこんでいるのだろう。
 若菜は横になったまま眉を寄せた。
 いつの間に戻っていたのだろう。この寒空の下で何を突っ立っているのだろう。
 振り返ろうとしたが、途端に動けなくなった。窓ガラス越しに見られていると気付いていないのか、厚志の視線は真っ直ぐに若菜を捉えていた。その双眸に強引さはない。一昨日、海岸で見せたような、弱い、けれど何かを強く含んだ瞳だ。
 若菜は体に力を入れて瞼を閉ざす。そのまま、厚志が自分から何食わぬ顔で車内に戻るまで、息を殺していた。


END
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