結婚して欲しい
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1.

 結婚して欲しい

 そんなことを言われた場合、私、阿部若菜の場合は間違いなく、100%、お断りだ。ごめんなさいだ。
 阿部家の若菜は1人っ子。由緒正しき本家の1人娘というわけではない。ごくごく普通の分家の1人娘で、家柄に縛られるようなことはない。しかし阿部家は貧乏だ。父親が建てた一戸建てに住んではいるが、世にいう順風満帆なマイホーム暮らしとは程遠い。
 自宅は父親の仕事が軌道に乗って、世の中が好況のときに建てられた。先行きは明るいと思われていたが、運命は急転した。少子化の流れに寄り添うように阿部家の家計は衰え出した。
 父親の仕事は下請け大工。少子化が進んで不況が続くこの時代、家を建てる人自体が少なくなり、仕事依頼が減少した。父は自分の手で建てた家を離れて県外へ出稼ぎに出ている。母親と娘は父親がいない家で2人、家計簿と睨み合いながら生活している。
 若菜は大学進学を諦めた。家計を助けなければと就職し、給料のほとんどを家計に回している。自宅を売ってしまえば誰の苦労も半減するだろうが、それだけは若菜が嫌がった。広い家に住んでいたいがために嫌がるのではない。父親の夢は自分の手で建てた家に住むことだったようで、新築の頃は毎日笑顔が絶えなかったことを覚えていたからだ。そんな夢を手放させたくない。娘が頑として嫌がれば父親も無理強いはしない。
 天邪鬼な若菜はそんな気持ちを一言も口にせずわがままなふりで通してきたが、両親には見抜かれていることだろう。それがまた癪に障るがひとまずの建前を崩さなければ矜持は保たれる。
 高卒である若菜の給料も含めて阿部家は何とか存続している。
 結婚してくれなど冗談ではない。
 阿部家はまだまだ火の車。定年間近な父を抱えてそんな博打を打ってたまるものか。もう少し給料が上がるまで、未来が見通せそうになるまで、恋愛関係は二の次だ。一生独身を通していいとも思っている。
 元々人付き合いが苦手な若菜は本気でそう考えていた。初恋を無残に壊したのが仲の良かった幼馴染だという裏切りにも会い、恋愛観もねじくれていた。
 そのようなわけで。
「結婚して欲しい」
 そんなことを言う男の横顔を、若菜はテーブルに頬杖ついたまま無感動に見つめたわけだ。


 若菜に向けられた台詞ではない。
 場所は滅多に訪れない喫茶店。おしゃれな雰囲気で値段も相応に高い。それに比例して味もなかなかの物だが、超庶民派の若菜には縁ない場所だ。それでもここにいるのは、恋人契約中の厚志に誘われたためだった。近くに別の店がないということも要因している。
 偶然入った喫茶店で。偶然座った席の横で。
 見も知らぬ恋人たちが真剣な表情で向かい合い、未来の約束をしていた。
「結婚ねぇ……」
 若菜は行儀悪くテーブルに両肘をついていた。ストローでオレンジジュースを飲みながら、横目で恋人たちを窺う。
 どこにでもいそうな恋人たちだ。彼らの指では恋人指輪が輝いている。ふと視線を巡らせた若菜は、店内にいる他の恋人たちも同様の指輪をしていることに気付いた。法令は知らぬ間に浸透しているようだ。
 若菜は視線を横の恋人たちに戻した。
 結婚話を持ち出した男は真剣な瞳で女性を見つめている。恥ずかしく、思わず殴ってしまいそうになるほど真剣な表情だ。対して女性の方は、驚いたように瞳を丸くして固まっていた。
 何て返答するのだろうか。
 女性の唇が微かにわなないて、その瞳が潤みだした。
 若菜は何となく視線を落とす。テレビで良くある典型的なパターンだろうかと少々落胆する。
「でも私……」
(あ、逆接が出た)
 若菜は再び視線を上げて二人を見た。
 男性が訝るように眉を寄せていた。断られるとは思っていなかったに違いない。逆転優勝しようと女性の手を握りこむ。女性は潤んだ瞳を隠すように顔を俯かせる。
「絶対に幸せにするから」
 男の口から出た言葉は常套文句。若菜の瞳が細められる。
「絶対、なんて誰が保証するのさ」
 小さな毒は恋人たちに届かない。
 強気で告白した男性は、女性に言葉が届いていないと悟ったのか、少しだけ顎を引いた。押して駄目なら引いてみろ、ということかもしれない。
「それとも俺じゃ役不足……?」
「ブー、はずれ。それをいうなら役者不足。役が不足してるなんて傲慢だ」
 若菜は頬杖をつきながら横目で眺め続けた。間違えた言葉ではあっても、女性の気を引くことには成功したらしい。
「そんなことは……」
 女性が焦ったように顔を上げて身を乗り出す。男性が表情を明るくしたのも束の間、女性は直ぐに体を戻した。
「でも」
 女性はまだ逆接を呟く。次に焦ったのは男性だ。
 私だったらこんな公衆の面前で告白されるよりも、誰もいない場所で告白されたいなと思いながら、若菜は2人のやり取りを見守り続けた。
「君のお母さんはちゃんと面倒見るよ。俺も昇給したし、明子の家族くらい養えるよ」
 若菜は視線を逸らせる。
「もう明子が苦しむ必要はないんだ」
 明子の境遇とやらに興味を抱いたが、それよりも、徐々に大きさを増していく男の声が気になった。彼には余裕がなくなっている。気付けば、恋人たちの近くに座っている者たちは誰もが好奇心の目や耳を向けていた。気付かないのは本人たちだけだ。
「でもね、敦志」
 若菜は飲んでいたジュースを吹き零しかけた。慌ててストローを取って咳き込んだ。
 男性の視線が迷惑そうに若菜を振り向いた。若菜は首を竦めて頭を下げる。
(同姓同名なんて、なんて偶然)
 気を取り直して居住まいを正した若菜だが、次の瞬間、再び無表情が崩れた。
「私たち、付き合ってまだ3週間だし」
「早っ!」
 叫んだのは若菜だった。
 同じ思いを抱いた野次馬は他にも沢山いただろうが、声に出し、男性の耳にその声が届いたのは若菜だけだった。男性は、今度は露骨に嫌そうな表情を若菜に向ける。
「ご、ごめんなさい」
 若菜はさすがに居辛くなって立ち上がった。できればその店を出てしまいたい衝動に駆られた。しかし連れがいる。残して去るわけにいかない。
 若菜は財布だけを持ってカウンターへ歩いた。
「……3週間で結婚かよ」
 恋人たちの会話が聞こえなくなったのを確認してからぼんやりと呟いた。
 世間一般の結婚常識は分からないが、若菜には考えられない常識だった。ため息をついて頬をかく。視線の先に目的の人物を見つけて駆け寄った。
「ケーキ持ってくるのに何分かかってるのよ、厚志は」
 若菜は先ほどの羞恥心を込めて、八つ当たり気味に厚志を小突いた。
 意外にもこの男は甘いものが好きらしい。若菜を待たせ、目の前に並ぶ様々なケーキの内、どれを食べようかと何分も真剣に悩んでいた。
「どれだっていいじゃん。美味しそうなこれにしよう」
 若菜はイチゴが沢山乗って固められたタルトを2つ選び、厚志が持つ皿に乗せた。
「あ、何しやがる。俺はこれとこれで迷ってたんだぞ」
「どっちだって同じじゃん」
 真剣な抗議に呆れた若菜だが、素直にイチゴタルトを元の場所に戻した。彼が指したブルーベリータルトとラズベリータルトを見比べて少し悩む。同じじゃない、と隣から噛み付いてくる声を無視して手を伸ばす。ブルーベリータルトを2つ皿に乗せた。
「目にいいって聞くし、こっちでいいよ。これで文句はないでしょう」
 厚志は納得がいかないような顔でうなった。ブルーベリータルトとラズベリータルトの2つに視線を往復させる。まだ未練があるようだ。
「ほら、会計」
 いつまでも動きそうにない厚志に焦れて、若菜は少し乱暴に背中を押した。腕を引いてレジまで強引に連れて行く。厚志は渋々といったようにため息をついて、レジに向かった。
 厚志がレジで会計を済ませている間、例の恋人たちが外へ出て行くのが見えた。
 話し合いはどうなったのだろう。
 若菜は厚志と腕を組んだまま体を乗り出す。恋人たちは互いの意志を確認したかのように手をしっかりと繋いでいたが、それだけで決め付けるのは早計だ。彼らの背中を目で追った若菜は少しだけ見守ったあと「どうでもいいか」と意識から締め出した。会計を済ませた厚志から自分の皿を受け取る。
 席に戻った若菜は、さぁ食べようとフォークをケーキに刺した。そこで、今回の爆弾発言が待っていた。
 すなわち。
「若菜。俺と結婚しないか?」
 若菜はテーブルの支柱を、反射的に蹴っ飛ばした。

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