結婚して欲しい
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2.

「危ねぇな! 落ちるじゃねぇか」
 テーブルを蹴っ飛ばした若菜に非難の声が飛ぶ。
 厚志は危うく落ちかけたケーキやジュースの皿を手にして若菜を睨みつけた。
「ああごめん。今、物凄く不可解な言葉が聞こえた気がして」
 若菜は無表情からハッと我に返ると可愛らしく微笑んだ。幻聴幻聴、と笑いながら呟いてフォークをケーキに刺し直す。切り分ける。食べるととても甘い。ブルーベリー自体は少し酸っぱいが、それを包むようにかけられている水飴が非常に甘い。
 若菜は顔をしかめた。
「糖尿病決定」
「決定するな」
 厚志のぼやく声が聞こえたが、若菜は無視してジュースを飲んだ。先ほど飲んだときにはとても甘いと感じたのだが、今はケーキを食べた後だからなのか、甘さが抑えられているように感じた。こうして舌は誤魔化されて余計な糖分が摂取されるんだよねと、若菜はあえて先ほどの言葉を聞き流す方に意識を向ける。
「タルトは美味しいよね」
「もう完食かよ」
「ご馳走さま」
 若菜は両手を打ち鳴らせて微笑んだ。
 朝から連れ回されていた若菜としては体力的に限界が近かったが、甘いもの補給でしばらくはもつだろうと計算する。甘いものは疲れたときに最適の食べ物だと聞く。
 厚志はケーキとジュースを避難させていた手を下ろし、小さなため息をついた。
「そっちこそペース早いじゃん」
 厚志はタルトを中央から二つに分け、片方ずつ一口で食べる。人のことを言える味わい方ではない。
 2人でケーキを食べ終え、ジュースを飲み干し、妙な間が空いた。
 厚志は椅子に座り直す。
 若菜は椅子から立ち上がる。
「どこに行くんだよ」
「まだ出ないの?」
 去ろうとする若菜の腕をつかんで厚志がうなった。両者の間には再び奇妙な沈黙が流れてしまう。
 厚志は半眼で若菜を睨むが、もちろん、負ける若菜ではない。憮然とした面持ちで睨み返す。負けるものかとしばらく睨めっこが続いていたが、若菜は徐々に周囲の視線が気になり始めた。立ち尽くしたままの若菜と、その腕をつかんだまま放さない厚志の姿に、野次馬が興味を覚え始めたらしい。視線がちらちらと2人に向けられる。
 厚志に負けるつもりはないが、周囲からのそんな視線に弱い若菜は結局負けた。憮然としたまま椅子に戻る。厚志の手を振り払って咳払いする。厚志の視線を痛いほど感じながらテーブルの上に両手を組むと、はめられた恋人指輪が光を反射した。
「若菜」
「却下」
「まだ何も言ってねぇよ」
 先を読んだ若菜は素早く遮った。野次馬たちが、先ほどの恋人に続いて今度はこちらかと好奇心を向けてきていた。若菜たちの会話が届いたのか、笑みを洩らした人もいるようだ。露骨な視線と囁きが向けられる。
 そのことにようやく気付いたらしい厚志が周囲に視線を向けた。
「……出るか?」
「だから、最初からそう言ってるじゃん」
 厚志はため息をつくようにして腰を上げた。若菜は鞄をしっかりと握り締めながら彼に続く。野次馬たちの視線が「え、もう行くの?」と訴えるように若菜たちに向けられたが、彼らの好奇心を満たす義務はなかった。
 若菜は厚志に続いて何の未練もなくその場を後にする。店員の元気な挨拶を背中にしながら店を出て、眩しさに瞳を細めた。冬にしては珍しく快晴で気持ちのいい休日だ。
「昼はどうする? 私としては今のでとりあえずお腹が満たされたから、他のに乗って来たい」
「俺は構わん。午前あれだけ乗ったのに、まだ乗る気かよ」
 若菜は両手を腰に当てて厚志を見つめた。
「せっかくの優待チケットでしょう。今を遊ばずしていつ遊ぶって感じじゃない」
 先週、厚志の保護者代わりだという安西家に行った次の休日だ。家でゴロゴロして体力回復に努めようと若者らしくない思考回路で眠っていた若菜だが、その計画は崩された。ふと目覚め、目の前にあった厚志の姿に悲鳴を上げて驚いたものだ。
 なぜ眠る娘の部屋に狼を送り込むような真似をするのかと由紀子に怒りを募らせたが、彼女の思惑は明らかなため、疲労は余計に蓄積した。不毛だ。
 真正面から悲鳴を浴びた厚志は不愉快そうに顔をしかめたものだが、そのままチケットを差し出した。遊園地の優待チケットだ。すべて無料で乗り放題になる。
 その遊園地までは遠いが、若菜は眠気も忘れて純粋に喜んだ。最近は仕事の都合で友人と遊ぶ機会も失われていた。連れが厚志ということが少々不満だが、嬉々として遊園地にやってきた。久々の遊園地は記憶よりも広く、新たな遊具ができており、顔を輝かせた。最初こそ厚志が主動で遊園地を回っていたが、その関係はほどなく逆転した。今では若菜が厚志を振り回す勢いで走り回っている。
 午前中でかなり乗りこなしていた若菜は、午後一番で何に乗ろうかと遊園地の地図を広げた。鼻歌でも歌い出しかねない機嫌の良さだ。入園時にスタッフから貰った地図には、午前中に行った乗り物に、係員のハンコとチェックが入れられていた。すべてのチェックポイントを回りきると、遊園地を出るときに景品が貰えるとのことだ。
 スタッフ休憩所には袋に入った大きなぬいぐるみが置いてあった。景品とはそのことだろう。ネタは分かっているが、それでも、楽しいものは楽しい。
 厚志に呆れられていると分かっていても、若菜はテンションを落とさず思い切り遊びに没頭した。
「さーて。次は……」
「一番近いのはこれじゃね?」
 厚志が指したポイントを見た若菜は眉を寄せた。
「幽霊屋敷? 滅茶苦茶ベタじゃんか」
「なにお前。まさか苦手なわけ?」
「違う」
 楽しげに聞かれて即答した。嘘ではない。
「こういう遊園地だと手が込んでて、人数制限とか時間制限とか、色々あるんだよ」
「つまりは面倒だ、と」
 厚志の結論に若菜は力いっぱい頷いた。
「まぁ、景品貰うためにはここも攻略しなきゃいけないから同じなんだけどね。いいか。先に行ってしまおう」
「……普通、女は行きたがらないもんだけどな」
「景品のためだ!」
 厚志の想いとは微妙にずれた反応で、若菜は力強く訴えた。

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