結婚して欲しい
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4.

 閉園までにすべてのアトラクションを攻略した。全力で遊んだ。
 若菜は両腕でしっかりと熊のヌイグルミを抱き締めていた。自分の体格よりも大きなヌイグルミは視界を塞ぎ、実は前が見えない。視界の横を流れる風景から前方を予想して歩くという荒業に出ていた。渡された景品は淡いベージュのテディ=ベアで、天然羊の毛の色だった。首もとの赤いリボンが愛らしさを強調している。
「幸せだ」
 滑らかな生地に顔を埋めた若菜は呟いた。背後からついてくる厚志が呆れたように「そうか」と返したが、若菜は気にしない。心がどこかに飛んでいる。ヌイグルミを抱きしめているため温かい。冷たい風すら気にならない。
「幸せなのはいいが、前を確認しろよ? 言っておくが、そのまま歩けば川に落ちる」
「……おお」
「だから俺が持とうかって、言ってるじゃねぇか」
「やだ。自分で持つ」
 子どものように短く否を返した若菜に厚志は嘆息する。
「ヌイグルミなんて興味ないとか言ってなかったか?」
「今は興味津々」
「そうかよ」
 今度こそ匙を投げられたようだ。
 若菜は地面に引きずらぬようヌイグルミを抱え直した。ヌイグルミの頭に顎を乗せて、しっかりと前を確認できるようにする。振り返ると厚志はつまらなさそうに横を向いて歩いて来ていた。彼の肩には若菜の鞄がかかっている。今更だが、自分の荷物を他人に持たせていることに違和感を覚えてしまう。いつもであれば決して任せることはないのだが、今日は特別らしい。久しぶりに遊んで、感覚も狂っているのかもしれない。
 厚志が女物の鞄を持っていることに奇妙なおかしさを感じて若菜は頬を緩めた。気付かれぬように笑って、視線を前に戻す。
 駐車場に建つ大きな時計を見上げれば、夜7時を回っていた。雪は降らないが風が冷たい。空はあっという間に闇に沈んでいた。街灯の光が目を突き刺すようだ。吐息が白く染まっていくのを見た若菜は、再びヌイグルミを抱え直した。結構な重量だ。
 奇妙な沈黙。
 これまで遊びに徹していたため不自然さを忘れていたが、遊びが終わった今は、何を話題とすればいいのか分からない。人付き合いが苦手な若菜には思いつかない。早く帰ろうと足が急くのは、昼に嫌な単語を聞いたからかもしれない。
「だから、そっちじゃねぇって言ってるだろうが」
「――っ」
 若菜は後ろ首をつかまれて引き戻された。襟が喉元に食い込んで、一瞬だが息が止まる。涙目となって軽く咳き込んだ。前を確認し、いつの間にかまた道をずれていたのだと気付く。
「ほら貸せ」
「ちょっとっ?」
 もう若菜には任せておけないと思ったのか。厚志は容赦なくヌイグルミを取り上げた。若菜は腕から消えた温かな存在に悲鳴を上げたが、厚志は譲らない。
「車までどうせもう直ぐだ。若菜はこっちを持ってろ」
 ヌイグルミの代わりに渡されたのは若菜の鞄だ。しかしヌイグルミと違って、鞄が若菜を温めることはない。
 若菜は厚志を睨んだ。しかし厚志は軽くその視線を受け流すと直ぐに歩き出す。今まで若菜に合わせていた歩調がかなり早くなる。長い足で、見る間に若菜と距離をあける。
 途中までは追いかけようとしていた若菜だが、とても追いつけないと悟って足を止めた。
「卑怯者!」
 厚志は振り返らない。彼の姿は街灯の向こう側へと消えていく。
 置いていかれるんじゃないかと、ふと湧いた不安に若菜は眉を寄せた。行楽者はほとんど帰っており、駐車場は閑散としている。街灯だけが静かに佇み、無人の駐車場を照らしていた。風の音が物寂しげに過ぎていく。
 若菜は足元に落ちた自分の影を見ながら瞳を瞬かせた。
 体が熱っぽさを訴えるのは、久しぶりに歓声を上げて遊んだからだと考える。風邪の引き始めなどではないと意地を張るが、虚しかった。これ以上体調を悪化させないためにもヌイグルミを力いっぱい抱えて温まっていたのだが、このままでは本格的に風邪を引いてしまいそうだ。
「厚志め」
 若菜は寒さに体を震わせて呟いた。
「若菜」
 呼ばれて顔を上げた。街灯の明かりの向こう側から厚志が現れる。彼の手にはもうヌイグルミはなかった。車に置いてきたのだろう。
 彼が戻ってきても、若菜はそのまま立ち尽くしていた。ささやかな抵抗だ。しかし若菜の目の前まで歩いてきた厚志は、言葉もためらいもなく、若菜の腕をつかんだ。目の前で厚志の姿が沈み込んだ――と思う間もなく若菜の視界が回った。足払いを掛けられたのかと思う前に、重力が定まらなくなって拳を握り締める。
「なにっ?」
「って」
 叫んで振り上げた拳が厚志の顔に当たった。若菜の混乱を封じ込める意味でなのか、強く抱き締められた。視界が揺れて高くなる。街灯が目に映る。若菜はようやく厚志に横抱きにされていると気付いた。
「何すんのっ?」
 自分の状態を把握した若菜は叫んだ。赤くなって離れようとしたが、絶妙なバランスの取り加減で厚志は若菜を下ろさない。若菜は厚着をしているため身動きも取りづらく、抵抗も満足にできない。
「昼飯もまともに食ってなかったからだろ。体力なさ過ぎなんだよお前は」
「はぁ?」
 現在の状況と厚志の言葉と、繋がりが分からなくて顔をしかめた。
「由紀子さんにも言われてたが、明日には熱出るだろう、若菜」
 若菜は視線を逸らせた。図星だ。厚志に睨まれる。既に熱は出始めているようで、目頭が簡単に熱くなった。しかし若菜はグッと堪えて厚志を睨み返す。
「だって、全部のアトラクション回らなかったらヌイグルミが貰えないじゃないか」
「あれくらい買えばいいだろう」
「無料で貰うことに意味があるの! 無料じゃなかったら貰ってないよ」
 価値観の違いに声を荒げる。
「はいはい。良いから。とりあえず温かくしてろ」
 戯言だと片付けられた。抱え直されると、額がピタリと厚志の胸に当たる。暴れようとした若菜は、その熱に動きを止めた。放し難い熱だ。確かにヌイグルミよりも温かいが、認めてしまえば厚志にも負けてしまうような気がして悔しかった。それでも体から力を抜いて厚志に委ねる。
「昔は俺たちを足蹴にするくらいなガキ大将だったってのにな」
「……今だってそれくらいできるよ。足蹴にされたいなら遠慮しないで言え」
 若菜はムッとしながら吐き捨てた。
「最近は遊びに出ることが少なかったから体が驚いてるだけだ。友だちも県外ばっかりだし、戻ってきても私の方が忙しくて遊ぶ暇もないし。たまに予定が合ってもほとんどはカラオケ行って、体動かすようなことはしてないし」
 若菜にとって遊園地は本当に久々だった。高校の修学旅行で行ったっきりだと断言しても不思議ではないくらいに行っていない。アトラクションをすべて回りきるため、移動はほとんど早足か全力疾走だった。そのことも体調不良の原因だろう。
「まぁそんなわけで、今日は楽しかった」
「そうか」
 笑われたが大して気にならず瞼を閉ざす。自分でも笑う。
「それで、若菜」
 若菜は瞼を開ける。抱きかかえられたまま再びその台詞を聞いた。
 ――すなわち。
「俺と結婚しないか?」
 今度こそためらわず、若菜は攻撃を加えて飛び降りた。

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