結婚して欲しい
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5.

「っつー……」
 厚志は首を押さえて顔を歪め、意味を成さない声を絞り出し、閑散とした駐車場にうずくまった。彼から逃れた若菜は赤い顔で荒く息をつく。肩を怒らせて仁王立ちになり、見下ろす。握り締めた拳を白く色を失くしていた。
 衝撃から立ち直った厚志は顔をしかめて若菜を見上げる。
「全力で拒否かよ」
「あ、当たり前でしょう! 何なのよいきなり。わけ分かんないから!」
 若菜は立ち上がる厚志にビクリと体を揺らせ、それでもその場から退かずに睨みつけた。厚志はため息を吐き出す。殴られた首はまだ痛むのか、手を当てて静かに首を回す。そして若菜を見た。
「別に何も、本気の結婚しろって言ってるわけじゃないんだけどな」
「……は?」
「親父が戻ってくんだよ。まだ当分先にはなるみたいだが」
「なに言ってんのか全然分かんないんだけど」
 厚志の言葉は歯切れが悪い。言葉を考えつつ選んでいるような雰囲気だ。若菜は真意を量ろうと距離を縮める。
「厚志のお父さんが戻ってくると何で私が結婚しなくちゃいけないの」
「だから……」
 厚志は言いよどんで視線を逸らした。若菜は腹が立ち、いまだ首に当てられたままの厚志の手をつかんで引き剥がした。そしてもう片方の手で厚志の頬を遠慮なく引っ張った。
「痛ぇって」
「お前がでかいのが悪い。加減なんかできるか」
 若菜は爪先立ちになりながら憮然と吐き出す。厚志にとっては理不尽な言い訳だ。かぶりを振って若菜の手を払う。
「今日みたいにほとんど食わないで来た結果じゃねぇの?」
「誤魔化すな」
「別に……誤魔化そうとはしてねぇだろ」
「ならさっさと話せ」
 睨み合いながらしばしの沈黙が落ちた。先にその雰囲気を壊したのは厚志だ。軽く肩を竦めてあらぬ方を見やる。重たい口を開く。
「だから……離婚したせいなのか何なのか知らねぇけど、やたらと口うるさく言われるんだよ。お前はさっさと結婚しろって」
「え?」
 一瞬、厚志が結婚していたのかと誤解しかけたが直ぐに彼の両親のことだと悟る。浮かんだ冷や汗と、高鳴った心臓を不愉快に思いながら幼少時代を思い出した。
 厚志の母親とは何度か会った。厚志の家に遊びに行ったときは必ずお菓子を出してくれた。綺麗なお母さんだと思ったことは覚えているが、詳細に姿を思い出そうとすると霞んでしまった。厚志の父親には会ったことがない。
「年に数回しか帰ってこない親父だった。俺は母さんに引き取られるはずだったんだけど、跡取りが欲しかったらしい親父が俺の親権を取り上げたんだ。母さんと引き離されて、俺は親父と一緒にこっちにしばらくは異動して……だっていうのに親父はまた俺を置いて、仕事で海外に行ったっきりだ。会うたびに結婚話されて」
「えーっと……じゃあ、厚志が今、結婚話を持ち出したのはお父さんを安心」
「安心させてどうすんだよ」
「は?」
 語尾に被せて否定された若菜は眉を寄せた。見つめる先で厚志は歪んだ笑みを見せる。挑戦的で楽しそうで、けれどどこか痛みを内包している瞳だ。
「親父の会社は結構な大会社なんだ。国からの縁談の他に、俺には由緒正しいお嬢さまとやらの婚約も組まれてた。親父の息がかかったロクでもない奴らだ。そんな奴と結婚なんて冗談じゃない」
「はぁ」
「いいか、若菜。俺は親父が大嫌いだ」
 次第に感情を強めていく厚志に呆気に取られていると、ことさらに感情を込めた声で厚志は言い切った。再会してから今まで、これほど感情が込められた声もなかったんじゃないだろうかと思うほどだ。
 若菜は顔をしかめる。
「俺は親父の思い通りになんて絶対にならない。だから、俺はお前と結婚する」
「……あ?」
 厚志の勢いを黙って見ていた若菜だが、最後の言葉にはさすがに低い声が出た。厚志は気付かない。勢いのまま続ける。
「由紀子さんたちのことは心配要らない。俺がちゃんと面倒見る。若菜が苦労する必要もなくなるだろう」
 どこかで聞いた台詞だなと、若菜の冷静な部分が分析する。
「ちょっと待て厚志」
「母さんを置き去りにしたまま自分は遊び呆けて、離婚したら自分のために子どもまで取り上げるような男だぞ? 同情の価値もないだろう」
「それには私も納得するけどさ」
「そうだろうっ? 俺は、親父が望んでるような結婚なんて絶対にしてやらない」
「それも厚志の勝手で止めはしない」
 いつの間にか握り締められていた両手を、若菜はそっと外しながら同意する。厚志の顔が嬉しそうに輝く。
「でもな厚志」
「何だよ。安西さんの前でお前が『自分にも話せ』って言ってたから話してるんだぞ」
「ほう。つまり前回の安西さんたちのことがなかったら、今回のこれも私に何も話さず実行していたと」
 若干、厚志が不利を悟ったように引いた。
「いや、それは、機会を見て話そうと思っていたが」
 若菜は笑顔で「そう」と頷いた。棒読みで「立派な心がけですこと」と褒めた。
 そして次に、力を込めて厚志の腹に拳を見舞った。固い手ごたえを感じ、爪が手の平に食い込む。その痛みに顔をしかめたが、若菜は唇を引き結んで耐えた。厚志は息を止めて少しよろける。
「な」
「阿呆かーっ!!」
 若菜は絶叫した。
「もう本当に馬鹿かお前は!」
 若菜は付き合いきれないとばかりに叫び、髪を振乱しながらかぶりを振る。厚志は戸惑うような表情で腹を押さえているが、自業自得だ。そんな彼を見ながら若菜は息を吸い込むと、早口で告げる。
「厚志がお父さん嫌いなのも婚約話を破談したいってのも良っく分かったよ。私だってそんなことされてお母さんに引き取られることになったらぐれて暴れて出て行くかもしれないってくらい厚志の苛立ちも分かるよ。でもだからってそれと私との結婚は別物だ! だいたい、安西さんたちの前で私が言ったこと全然分かってない! 話そうと思った心がけは立派だと褒めるけど、そのあと結局私の意見も聞かずに強行するなら結果は同じだ、成長してない! 厚志のその話は徹底的に私を無視してる!」
 若菜は一度強く咳き込んで再び息を吸い込んだ。
「いーい? 私は物じゃないの。理性も感情もある人間なの。何とも想ってないくせに個人的な当てつけで勝手なこと決めないで。気に入らない相手とそんなに結婚したくないなら、お父さんを自分で説得するか殴りつけて自立するか自分で結婚したい相手見つけないと駄目なの。もちろん、最後のは自分だけの意志じゃなくって、相手の意志も尊重して両想いで結婚だよ、訴えられたくなかったらね。それで、私は確かに利害一致で恋人届を出したけど、それ以上のつもりはないの。私側の都合だってあるの。両親の老後を心配しなくてもいいくらいに貯金できるまで稼ぐの。結婚なんてお断りだ!」
 若菜はまくし立てると睨みつけた。厚志が驚きに目を瞠る様を見ながら咳き込む。怒りと呆れで頭が痛い。これほど長く喋ったのは久しぶりだった。喉が渇き、熱が上がる。先ほどは「風邪かもしれない」と思っていたが、今では「完全に風邪だ」と思いを改める。
「私は厚志のそういうところが嫌い。一番最初にも確か言ったよね。敵だとも言った。忘れたとは言わせない」
「――覚えてる」
「そう! 覚えてて直そうと心がけないなんて、ずいぶんと図太い神経だね!」
「……そういうわけじゃないが……」
 若菜は顎を反らせてそっぽを向いた。腰に両手を押し当てて胸を張る。
「いい加減に直せば? そういう自己中心的なところ!」
 唇を尖らせながら告げれば厚志は微かに沈黙した。そして、まるで言い訳のように続ける。
「いや、今のは確かに話の流れでそういうことになってるが」
「はぁ?」
 まだ何を言い募るつもりなのか。若菜は思い切り呆れた声を出して厚志を見る。
 厚志はため息をついて歩き出した。先ほどから続く若菜の咳に気付いたのか、若菜にも車に戻るよう促す。
「勢いで断定的な物言いになってたが、俺だって若菜の意志を無視して結婚までして貰おうとは考えてねぇよ」
「へぇそう。物凄くはっきり『結婚する』と聞こえたのは気のせいだとでも言いたいわけ」
「だからそれは、売り言葉に買い言葉って言うか、勢いって言うか」
「勢いで私の将来決められたら大迷惑だ!」
 車に戻るすがら、若菜は怒りを込めて大声で笑ってやった。厚志は複雑そうに眉間に皺を寄せる。
「……悪かった」
「よろしい」
 ようやく謝罪の言葉が口にのぼる。
 若菜はまだ胸の奥で何かが燻っているのを感じながら、何とか落ち着こうとした。怒りが宥められるに連れて出てきたのはどうしようもない気持ちの悪さ。絶望の淵を見ているような気分になる。泣きたいほど切なくなる。そんな気持ちを振り切るように強く腹に力を込めた。
「それで? 断定的じゃない、本来私に話そうとしていたことって?」
 助手席に乗り込んで後部座席を確認する。そこには愛らしいヌイグルミが座っていた。
 運転席に戻った厚志は直ぐに暖房を入れたが、急に温まるわけではない。微妙な送風に若菜は咳き込んだ。
「……気管が弱いと聞いていたが」
「ああ、それは本当。平気。いつものことだし。この車は他の車より埃もないし」
 ごく稀に、吐き気を催すほど乾燥した温風を出す車がある。それに比べれば今回の車の温風は快適だった。
「俺が言えた義理じゃないが、厭えよ?」
「本当に言えた義理じゃないね」
 茶化して笑うと睨まれた。若菜は首を竦めて「分かってる」と大人しく頷く。
「で?」
 続きを促した。
「――この前、恋人通知を俺側の親戚に出したんだが」
「ああ。あれね」
 若菜は嫌な思い出に顔をしかめた。
 安西家から戻った次の日、会社に出た若菜は美智子に聞いた。恋人通知なるものは本当にあるらしい。邦光が説明していた通り、出す出さないは本人たちの自由だとも聞いた。結婚推進法と共に作り出された通知らしく、恋人課に行けば様々なテンプレート葉書が飾られているとのことだ。見たくない。
 美智子は「本当に出す奴なんているのかしらね」と笑っていたが、そんな奴はごく身近にいた。
「それも厚志側の婚約者に対する牽制――正しくはお父さんに対する当てつけってわけね」
「まぁな」
 若菜は大きく息を吐き出して背もたれに沈み込んだ。
「まったく。どこまでも利用してくれるんだから」
 強い憤りを通り越して呆れるばかりだ。いくら借金を抱えてはいても、結婚だけは別問題だ。
「で。とうぜん親父には一番に送りつけたわけなんだが」
「それを見たお父さんは、どこの馬の骨とも知れない奴と結婚なんて――って大激怒し」
「ていうか。そんな相手がいるんなら結婚しろと迫られた」
「……は?」
 エンジンが温まってきたのか暖房も効いていた。車内に温風が巡りだす。そんな中で厚志を見ると、彼はハンドルに両腕を乗せて険しい顔を作っていた。
「俺が反発してんの知ってんだろ。やれるもんなら、ってことだろうよ」
 苦々しく吐き出す感情は本物だ。億劫そうに体を起こす。
「で、さすがに若菜の意志に反して結婚はできないから――その前の段階、婚約披露宴には付き合って貰おうかと思って」
「……婚約披露宴」
「ああ」
 煌びやかなパーティー会場が脳裏に浮かんだ。絢爛豪華なドレスを着込んだ貴婦人たちも踊りだす。どこの貴族社会だ、と自分でも突っ込みを入れたくなるような想像だった。自分のそんな想像に若菜はダメージを受ける。
 厚志は気付かず話し続けた。
「それやった以降でも別れる奴らは結構いるし。若菜としても今とそんなに変わらないだろう」
 同意を求めるように振り返る。
 若菜は片眉を上げた。結婚推進法以前には思いもつかなかったことだが、恋人指輪まで支給される現代ではどちらも同じに思えた。恋人指輪をはめている時点で婚約者と同じようなものだ。
「あー……」
 気付いた若菜は指輪に視線を落として複雑なうなり声を出した。
「親父は法令以前の人間だからな。俺らにとっては恋人契約も婚約契約も同じものだろうが、親父にとっては効果があるかもしれない」
 若菜はため息をつく。
「何ていうか、厚志本当に――お父さんにショック与えるためには何でもやるって感じ。本当に嫌いなんだね」
「当たり前だ」
 厚志は強く吐き出した。
 父親が長らく家に戻らないという意味では若菜も厚志も同じだが、向ける感情は正反対だ。この辺りの違いはどこからもたらされる物なのだろうか。
「それも、駄目か?」
 厚志の声が不意に弱まった。
 その声に惹かれて視線を向ければいつになく弱気らしい厚志の顔があった。若菜は視線を合わせながら沈黙する。そして様々な感情を浮かばせながら助手席に座り直す。
「――それくらいなら、付き合ってあげるよ」
「本気で?」
「ああ。本気で」
 念を押す厚志に静かに頷く。
 沈黙が下りたあと、若菜は力強く両手を握り込まれた。厚志の嬉しげな表情に言葉がつまる。
「……感謝する」
 殊勝な態度に笑みを洩らした。
 これから被るだろう痛みと、厚志の現在の態度を天秤にかけて、耐えられそうだと無意識に計算する。基本的に若菜は頼られると断れない性分だった。
「実際に披露宴がいつになるかは分からないが、それまではよろしくな」
「おう」
 偽りの恋人役は披露宴を終えるまでだ。嬉々とする厚志を横目に若菜はシートベルトを着用した。少々熱が上がってきたらしい。意識が朦朧とする。窓に視線を向けると、流れる風景が見えた。
 若菜は、遠くなっていく遊園地の明かりをただ見つめていた。


END
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