策略デー
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1.

 若菜は喉を押さえて顔をしかめた。
 微かな痛みがある。熱はまだないようだが、表面に表れるのは時間の問題だろう。今までを振り返ってみてもそう思う。それともまだ、熱を出さずに治せる許容範囲内だろうか。
 そんなことを考えながら若菜は窓を見ていた。
「若菜さま。病院までお送りいたしますか?」
「へい? 大丈夫ですよ。昨日はしゃいだからそれの延長みたいなもので、心配ないです」
 突然声をかけられた若菜は素っ頓狂な声を上げて否定した。反射的な言葉に、島田は「そうですか?」と不満そうな声を上げる。若菜はいまさら撤回するわけにもいかず、あいまいに笑ったまま頷いた。車がいつもの道を通るのを見ながら座り直して肩の力を抜く。
 街はどこも華やかだ。コートを着込んだ人々が楽しげに行き交っている。いつもより女性の数が多いのは気のせいだろうか。
 若菜は瞳が乾燥して熱くなるような錯覚を覚えて顔をしかめた。
「暑いですか?」
「顔だけ少し。体は冷え切ってるんですけどね」
 窓を開けた若菜に気付いて島田は暖房を切ろうとしたが、止める。そしてバックミラー越しに若菜を見た。その視線が「病院に行った方がいいのでは」という意味だと気付いて苦笑する。
「大丈夫ですって。昔からこういうことの繰り返しなんですよ、私。ひどくなったら病院に行きますから、心配しないで下さい」
「確かに、今朝よりは良いようですが……」
「でしょう? 明日には完治してますよ」
 若菜はマフラーをしっかりと巻き直して笑った。


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 世の中の恋人たちには欠かせないとされる大イベント。
 帰宅した若菜は、今日がその日だったのだと気付いた。
「あらお帰り若菜! 喉は平気だった?」
「ああ、うん」
「ほらほら、早く着替えてきてね。今日はケーキまで届いているから」
 由紀子のはしゃぎように首を傾げた若菜だが、ケーキ、という言葉に気を取られた。確かにテーブルには見慣れぬ大きな箱がある。開けられるのを今か今かと待っている。
 確かに大イベントではあるが、ケーキまで用意するものなのか。
「……今日って、バレンタインなんだ……」
 若菜はぼそりと呟いた。
 片想いならば愛を告白し、両想いなら愛を語り合うという、恋人未満の人にも恋人たちにも欠かせないイベントだ。
 道理で街が華やかなわけだ、と若菜は納得した。
 女性客が多いのにも頷けた。彼女たちは今日が修羅場だ。より高い成功を狙って店から店へ渡り歩いていたのだろう。そうして、夜には戦友から恋人へと相手を変え、戦利品であるチョコレートを渡すのだろう。完全にチョコレート会社の戦略に乗せられている。
 若菜は小さな笑みを浮かべた。それでも、一所懸命になっている誰かを見るのは好きだ。
 思い返せば今日は会社でも大輝に囲いができていたな、と呟く。仕事中はさすがに課長が許さないため、その囲いは主に休憩時間にできるのだが、大輝は毎年のことながら困ったようにチョコレートを貰っていた。
「あー、そっか。バレンタインか。そうか」
 若菜はもう一度呟いて2階へ上がった。
 厚志のために何も用意していない。失敗したなとは思ったがそれだけだ。この寒空の下、もう一度外へ出ようとは思わない。本物の恋人同士でもあるまいし、そこまでこだわる必要はないと完結する。さらには、結婚しようと言われたばかりの昨日の今日で、渡すには抵抗がある。厚志を喜ばせて何の得があるのか。
(いや、その前に、チョコレートなんか渡したら「中身は本当に食い物か?」とか聞かれそうだ)
 ありえそうな想像に脱力した。この寒い中、出かけて購入したあとの言葉がそれでは喧嘩になること請け合いだ。
「よし。チョコレートなし。決定」
 適当な理由で固めた。スーツから普段着へと装いを改める。
 部屋の隅に置かれたヌイグルミに目を留めた。昨日、遊園地で手に入れた戦利品だ。愛らしい大きな瞳を丸くさせて若菜を見つめている。
 若菜はヌイグルミに抱きついた。
「いいなぁ大きいヌイグルミ。ずっと欲しかったんだよね」
 店頭に並ぶ大きなヌイグルミは子どもたちの憧れの的だった。若菜も例外ではない。しかし、親にねだっても買ってもらえるわけもなく、社会人になって値段に都合がつくようになる頃には恥ずかしさが先に立って買えなかった。欲しい大きなヌイグルミは値段もかなりのもので、若菜は諦めていた。それがまさか、このようなタイミングで手に入るとは嬉しい限りだ。
「チケットがもう1枚あれば、これももう1つ貰えるんだけどなぁ」
 厚志が突然持ってきた優待チケット。最初は“恋人”に与えられる特権の1つなのかと思っていたが、どうやら厚志自身がどこからか調達してきたものらしかった。
 若菜は眼鏡を外さないまま、ヌイグルミに思い切り顔を埋めた。息苦しいが温かさにはかえられない。1階で由紀子が夕飯を作って待っていると分かっていても、風邪気味の若菜には手放せない温かさだ。そうした温もりに包まれていると眠くなるのもまた必然で、若菜はそのまま眠りに引きこまれた。

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