策略デー
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2.

 疲れが取れない。眠っている間にも何かに悩まされている気分だ。
「……理不尽」
 そんな自分の呟きで意識が浮上し、若菜は目覚めた。
 肉体は精神に依存するらしい。消化不良な不愉快さが胸の奥で渦を巻き、体もどこか重たく感じる。晴れやかな気分にはなれない。
 部屋の暗さに瞳を瞬かせ、若菜の意識は次第に澄まされていく。
 まだ夜明け前なのかと思ったが、いつ眠っただろうと眉を寄せる。腕に力を入れ、手に触れた柔らかな感触に驚き、それがヌイグルミだと気付いた瞬間、記憶が蘇った。
「そっか……」
 眠るつもりはなかったが、限界だったのだろう。熱は下がったようだ。多少の寝汗はあったが、発熱の気持ち悪さは消えていた。夕食も摂らずに睡眠を優先させたことが良かったのかもしれない。
 眼鏡をかけたまま眠ったため、フレームが頬に食い込んで痛かった。
 若菜は食い込んで跡が残っている場所を擦りながら寝台から下りた。手探りで照明のスイッチを探そうとしたが、見つからなかった。直接壁のスイッチを押した方が早そうだと悟って足を踏み出す。
 壁に手を伸ばそうとした若菜だが、その手は横から伸びた手によってつかまれた。
「うわっ?」
 予期せぬ事態に悲鳴を上げる。同時に口も塞がれた。
 瞬間的に混乱に陥った若菜は暴れかけたが、それよりも早く聞こえた声に脱力した。
「起きるのが遅い。由紀子さんはもう眠ってるから、暴れて起こすなよ」
「あのね……」
 最初に注意だけ与えた厚志は若菜を解放した。
 若菜は脱力して睨みつける。振り返ると確かな影が、すぐ目の前にいた。
「いつからここにいたのよ」
「多分、若菜が寝付いて少しした頃から。起きるの待ってたら俺も寝てた」
 そう告げた厚志は勉強机の椅子を示した。恐らく椅子に座って若菜が起きるのを待っていたのだろう。そのまま眠ってしまったのか、厚志はしきりに首を回している。大分疲れたようだ。
 キィと小さな音を立てて部屋のドアが開いた。廊下の照明はすべて落とされていたが、月明かりが充分に入ってくるため明るい。月光を背景に厚志の姿が浮かび上がり、若菜は眩しさに目を細めた。
 廊下を支配していた冷気が部屋に滑り込んできた。夜になって気温もぐんと落ちたのだろう。部屋にはまだ温かさが満ちていたが、それは廊下の冷気によって払拭される。思わず体を震わせると、若菜は伸びてきた腕に抱え上げられた。
「ちょっと!」
「出かけるぞ」
 小声で叫んだ若菜など無視して厚志は告げる。
「は? 今から? ていうか、いま何時?」
 横抱きではなく肩に担がれた。まるで荷物の扱いだ。足を押さえ込まれて足技も使えない。もしかしたらそれを狙って肩に担いだのかもしれない。
 時計を探そうとした若菜のお腹が小さく鳴った。真横で聞いた厚志が軽く吹き出す。
「そろそろ11時になる。由紀子さんは今朝から具合が悪かったみたいだから、先に寝かせたぜ」
「……え?」
 若菜は眉を寄せた。思わず疑ったが、厚志が嘘をつく理由も思いつかない。帰宅したときは普段と変わらない様子だと思っていたが、あれは演技だったのかとうなった。
「俺が来たらもう限界だったみたいで、布団に倒れた。お前はどこに行ったのかと捜せば部屋で熟睡してるし。気付かなかったのか?」
「……気付かなかった」
 暗に責められているようで、若菜は表情を暗くしながら呟いた。由紀子が眠っているだろう部屋に視線を向けて、自己嫌悪に陥る。
 そんな風に大人しくなった若菜に笑い、厚志は階段を下りた。目の前は玄関だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 しかし厚志は止まらない。
 眠る由紀子を気遣い若菜の抵抗は小さなものだ。厚志を止められるものではない。それをいいことに厚志はそのまま靴を履くと、若菜を担いだまま外へ出てしまった。家の中とは比べ物にならないほどの冷たい外気が若菜を包んだ。
「寒っ」
 体を震わせると厚志に担ぎ直された。視界が大きく揺れると、落ちるものかと厚志の首にしがみ付く。
 厚志が玄関の鍵を掛けるのを見て、呆れた声を出した。
「いつの間に合鍵なんて作ってたんだよ」
「いや? まさか。これは由紀子さんが作ってくれたの」
「あの野郎……」
 気遣いなどあっけなく吹き飛ぶ事実だ。
 低い恨みの声に厚志は笑っただけで、玄関から離れると再び若菜を抱えなおす。今度は肩に担ぐのではなく、横抱きだった。
 視界に優しい月が映った若菜は瞳を細める。今宵は満月のようだ。明るい光に照らされて胸の奥のわだかまりが溶かされる。雲もない静かな夜は久しぶりだった。
 横抱きにされた若菜は強く抱きしめられ、憮然としてため息を吐き出した。起き抜けに混乱することばかりで、いまだ良く分かっていないけれど、1つだけ言っておきたいことがある。
「前から思ってたんだけどさ。これ、やめてくれない?」
「あ?」
 車までの短い時間、このように横抱きにされて運ばれるのは間違いのような気がした。
 厚志は言葉の意味が分からなかったのか、首を傾げて若菜を覗き込んだ。その距離の近さにも若菜は慌てて視線を逸らす。
「厚志にとっては何ともないかもしれないけど、私にとっては未知の世界だからドキドキして困るんだけど」
「……は?」
 若菜は赤い顔のまま不機嫌に睨みつけた。しかし厚志はやはり、何を言われたのか分からないような顔をする。その顔にますます苛立ち、若菜は不愉快さを全面に押し出しながら吐き出した。
「だから。抱き上げるのやめてって」
 厚志は数拍置いたあとに、何でもないように告げる。
「俺にはそんなに負担じゃないが?」
「誰が厚志の心配して言ってるのよ」
 返す響きは結構な冷たさを含んでいた。
「私がこういうのに慣れてないからやめてって言ってるの。下ろしてよ。歩けるし!」
「その顔で言われても説得力ないよな」
「だから! これは条件反射って奴で――慣れてないんだから赤くなってもいいじゃんか!」
 若菜は赤くなった顔を厚志から背け、暴れようとしたが無駄だった。楽しげに笑われると若菜の機嫌は悪化する。
「下ろして」
「やだね」
 厚志の即答に若菜は絶句した。
 何を考えているのか分からない。厚志は非常に悪魔的な笑顔を見せて、若菜を抱き締めた。
「ちょっとーー!」
 唇が触れそうな距離を掠めた。
 後頭部を押さえつけられ、肩に押し付けられる。頬が擦れて息遣いを耳に感じる。
 若菜は凄い勢いで鼓動を刻む心臓を感じて悲鳴を上げた。そんな様子に、楽しげに声を押し殺して笑う厚志の気配までも伝わってくる。
「どうせ披露宴が終わるまでの恋人なんだろう。有効活用だ。経験は積んだほうが若菜の今後にも役立つんじゃ」
「厚志を喜ばせるような経験値なんて願い下げだーー!」
 若菜は精一杯叫んだけれど、結局は車まで抱き締められたまま運ばれた。

 
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